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マエストロの婚礼 3 翌日、少々飲み過ぎた重い頭で朝食をとるため食堂へ行くと、ヴィエラに手招きされた。 近づくと、無言で手を出すように促され、恐る恐る手のひらを差し出すと、車のキーが乗せられた。 「なんですか?これ……」 「真一、今日は一日オフをやる。気分転換にドライブにでも行って来い」 「え……、でも……」 「いいから。 お前、イタリアに来たって、街をふらつくこともしないじゃないか」 人生に無駄な時間なんてないんだぞ?と、いい大人とは思えないヴィエラの無邪気な笑顔に、抵抗は諦め従うことにした。 「マジかよ……」 車好きのヴィエラのガレージで、複数の車にキーを向けてみれば、反応したのはシックなブラックのマセラティ グランカブリオ。 「こんな派手な車で、野郎一人でどこに行けっていうんだよ……」 恐る恐るシートに身体を滑り込ませ、エンジンを掛ければ、ぞくぞくするような興奮が沸き起こり、期待が高まる。 真一は子供に返ったような、わくわくした気分を久しぶりに感じながら、マセラティを静かにスタートさせた。 気がつけば夢中になっていた。 ナポリ方面に向かう、アウトストラーダ・デル・ソーレに乗り、走ることだけに集中してマセラティを駆る。 身体全体にGを感じ、シートから伝わってくるのはエンジンの心地よい振動。 アクセルを踏み込み、エンジン回転が上がると、マセラティがいななく。 トップはオープンのまま、サイドウィンドウも思い切って下げてみる。 刺激的な開放感と、全身に打ちつける風が心地よい。 今、真一の頭の中には、音楽はまったく流れていない。無音の状態だ。 こんな時間の過ごし方は、今まであまりなかったのではないかと思う。 真一の趣味は芸術鑑賞や読書など、常に脳を活発に動かしていることが多い。 音楽を奏でていても、このように無心になることはできるが、当然のごとく脳内に音楽が溢れている。 強いて言えばランニングくらいだろうか、頭の中を空っぽにして、無心で身体だけを動かす時間は。 でも、今この感覚はそれともまた違う。スピードを自分で制御しつつ、マセラティの挑発的な動きにも、理性を捨てて身を委ねたくなるような快感。 ヴィエラの与えてくれたこの時間に、喜びを感じ、感謝する気持ちになっていた。 「げ……」 アウトストラーダでの高速ドライブも楽しかったが、少し景色を楽しみたくなり、思いつくまま最初の出口を降り、気の向くままにハンドルを切ると、突然目の前に海岸線が広がっていた。 焦る気持ちとは裏腹に、なにか懐かしいような、不思議な気持ちに包まれる。 マセラティには不似合いな郊外の田舎道。何かに誘われるように、路肩に停車する。 「俺、もしかして来たことがあるのか……」 思い切って外に出てみる。 少し心配ではあるが、これだけ派手な車、逆に悪さがしづらいだろ……と、思い切ってマセラティは置いたまま、付近を歩いてみることにした。 白い漆喰に塗られた素朴な壁面が続く。 大きめに切り取られた窓には、色、柄、さまざまな日よけがはためいている。 小さな街のようだ。 日差しは強いが、緑が多く、吹き抜ける風が心地よい。 しばらく続いていた住宅がとつぜん途切れ、小さな教会が現れた。 青々とした芝生はうつくしく刈り込まれて、樹木や花々も美しい。街の人たちの信仰に対する熱心さが窺われる。 真一は引き寄せられるように、教会の小さな扉に手をかけた。 「Buon giorno……」 無人の教会。薄暗い内部には、上部に施されたステンドグラスから柔かい光が降り注いでいる。 ”あ……” 真一は、祭壇の前に備え付けられたオルガンを楽しげに弾く、ベールを被ったのだめの幻影を見た。 ”二人っきりでもいいから、ちゃんと神様の前で誓いたいデス。 駄目デスか?” ヒューストンの演奏会の夜。 野外劇場の舞台袖で、俺のプロポーズをうけたアイツは、”披露宴とかしないからな”と宣言した俺に、上目遣いでおねだりした。 アイツのこの攻撃にいまだかつて勝ったことのない俺は、いつものように負けてやったが、だからってこんな展開あるか? 「ありえねぇ……」 でも、それ以外の選択肢はなかった。 のだめがイタリアに到着したらここに連れて来よう。 拒否なんてありえないけどな。 ここ数日のイラつきは嘘のように解消され、真一はすっきりとした気分で教会をあとにした。 4へ> |