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マエストロの婚礼 29 パリから戻って最初の週末。 今朝も泣きながら目覚めた。こちらに戻ってきて数日間、この状態が続いている。 死を覚悟する恐ろしい悪夢から解放されても、その先にまた別の悪夢が待っていた。 深い深い悲しみの底に沈む、絶望と怒りに満ちた悪夢だ。 でも、その悲しい悪夢を見ることにより、俺は幼い頃の自分の記憶を思い出し始めていた。 今日こそは、何がなんでもあの街に辿り着かなければならない。 俺は焦り、逃げ場のない状態にまで追い詰められていた。 気分を変えようと、ヴィエラ先生にマセラティを借り、アウトストラーダ・デル・ソーレを南下する。 思いっきりアクセルを踏み込み、何も考えないようにしようと努めるが、無心になればなるほど、俺はこの数日間の悪夢の繰り返しにより引き出され始めた、幼い頃の自分の記憶のかけらを、パズルを組み立てるように取り出しては確認する作業をし始めていた。 朝、目を覚ますと、父親の奏でるピアノの音が聞こえる。 バッハの平均律クラヴィーア。 父親のピアノが大好きな幼い真一は、パジャマのまま、顔も洗わず、父親のいるピアノルームへ向かう。 そっと忍び込もうとするが、いち早く気付いた母親にとがめられ、真一は父親のそばに行くことができない。 聞き分けのいい子供ではあったが、最初はその理不尽な母親の行動に腹をたて、癇癪を起こしたり、父親のところに行くと泣いては母親を困らせることもあった。 しかし、何をしてもそれは許されないことだとわかってからは、賢い真一らしく、おとなしく従うようになった。 ただ黙って従っていたわけではない。いいつけに従っているふりをして、数回に一度は母親の隙をうかがって、父親の部屋に忍び込めるようになっていたのだ。 真一は父親の部屋に忍び込んでも、決して父親に近づいたり、話しかけたりして、練習の邪魔をするようなことはしなかった。 ただただ、父親のピアノを聴いていたかったのだ。 大好きな、かたくなで芯が強くて、朴訥だけど優しいピアノ。 真一はただ、部屋の片隅に小さく座り込んで、瞳を閉じると父親のピアノに耳を傾けるのだった。 その日、父は少し指慣らしをしたあと、ピアノに向かって腕を組んだまま、何か考え込んでいた。 真一は父親がなぜヒアノを弾かないのか不思議だったが、きっと曲を何にするのか考えているのだろうと、雅之のピアノを黙って待っていた。 すると突然、雅之の顔が真一のほうを向き、黙ったままではあるが真一に向かって手招きをする。 真一は初めてのことにとても驚き、そしてうれしくて慌てて立ち上がると、転がるように父のもとへ走り寄る。 雅之は真一の瞳を覗き込むと尋ねた。 「真一は父さんのピアノが好きか?」 「うん!世界で一番大好きだよ!」 すると雅之は、その口元に微笑みのかけらみたいなものを浮かべ優しい表情で真一を見つめると、真一を抱き上げ自分の膝の上に乗せ、左腕で真一を支えながら、右手だけで旋律を奏でる。 真一は初めて間近で見る父の大きくて力強い手が、まるで魔法のように鍵盤の上を動き回るのを見て、目をきらきらと輝かせた。 ワンフレーズ弾き終わると雅之がいたずらっこのような表情で真一を見つめる。 真一は先ほどまで瞬きもせずに夢中で見ていた雅之の指の動きを忠実に再現してみた。 雅之は一瞬驚き、戸惑っていたようだったが、再び旋律をワンフレーズだけ弾くと真一に弾かせた。 真一は夢中で雅之の弾く旋律を繰り返すのだった。 そんな風に午前中いっぱい過ごした後、めずらしく雅之も一緒に昼食をとることになり、真一はうれしくてはしゃいでいた。 そして、ずっと考えていたけれど、なかなか言い出せなかったことを思い切って両親に告白することにした。 「僕、ピアノを習いたいんだ」 母親は少し驚いた様子だったが、何も言わずだまって父親の様子を窺った。 「……ねぇ父さん、いいよね? 僕、父さんみたいにピアニストになるよ!」 雅之はしばらく黙ったまま何か考え込んでいたが、突然沈黙を破り言った。 「真一、ピアノはやめなさい」 幼い真一には、なぜ父がそのようなことを言うのか、まったく理解することができない。 「なんでっ!どうして?さっきだって父さん僕にピアノを教えてくれたじゃないかっ!僕、上手にできたでしょ? もう夜だって一人で眠れるし、ピアノだって弾けるようになるよ!父さんの息子なんだから!」 「でも、あのピアノはお父さんのピアノだから、お前には弾かせられないぞ?」 「え?」 「家にはピアノが一台しかないんだから、ピアノを弾く人も一人だけだ」 「……」 父はよくこういった、普通の大人が言わないような理不尽なことを言う。 そのたび、僕は困って、母さんに助けを求める。 「真一、ピアノじゃなくてヴァイオリンにしたら?それならお祖父様がくだ さったのがあるからすぐに始められるわよ?」 もうすぐ、いつもの出口だ。 あふれ出した幼い頃の記憶の洪水に意識が朦朧としながらも、ここ1ヵ月半で通い覚えたルートを辿る。 "これ以上、考えるのはやめろ" 止まらなくなりそうな記憶の洪水に必死で抵抗する。 "なぜ父さんは、僕にピアノをやらせたがらなかった?" 止めようしても止まらない思考に、真一はあきらめていつもの出口手前で アウトストラーダ・デル・ソーレを降り、適当な場所を見つけてマセラティを停車させた。 ハザードを点滅させたまま、真一はぐったりとステアリングに顔を埋める。 進まなければいけないと思う気持ちと、進めるわけがないと否定する気持ち。 「……」 真一はゆっくりと顔を上げると、バックミラーで自分の顔を覗き込む。 昨夜もよく眠れなかった。 青白い精気のない顔色。どんよりと鈍る瞳。 顔かたちはまぎれもない27年間付き合ってきた自分の顔なのに、ミラーに写るこの男は本当に自分なのか自信が持てない。 真一は深く溜息をつくと、マセラティを静かにスタートさせ、ローマへとUターンする。 のだめになんと言って説明すればいいのかと、思い悩みながら。 30へ> |