芒果布甸/Mango pudding



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マエストロの婚礼 28






 真一がイタリアへ戻って行った。


 かなりヘビーな話を立て続けに聞かせてしまったから、さっきはもう大丈夫そうなんて楽観的なことを言ってみたが、本当は今夜一人にしてしまうのが心配だった。


 「大丈夫でショウか……」


 のだめは祈るような気持ちでピアノを奏でる。


 イタリアの真一に届くようにと。


 








 征子に連絡をとり、彼女自身も知らなかったであろう雅之からの話を伝えた。


 「そうだったの……。
 雅之さんもずいぶん苦しんだのね……」


 「のだめも雅之さんのお話を聞いて、思わず泣いてしまいまシタ。


 雅之さん、真一クンに謝ってまシタ。何もしてあげられなくってすまなかったって」


 「そう……、あの人がそんな素直に気持ちが言えただなんて、きっとのだめちゃんのおかげね?
 ありがとう……」


 「そんな、征子ママやめてくだサイ。のだめは何もしてないデスよ?」


 別れた夫とはいえ、一人息子と長年交流のなかった父親である雅之が、こうして素直に気持ちを伝え、つながりを持ちはじめたことは、征子にとっても感慨深い出来事なのであろう。


 のだめは言葉にならない征子の気持ちが、遠く離れた日本から電話を通じて伝わってくるのを感じた。
 








 征子には引っ越しことや事務手続きについても相談した。


 「のだめちゃん、ピアノはどうするの?
 三善のアパルトマンには必要があればまた別のものを入れるから、あのピアノはのだめちゃんの嫁入り道具として持って行ってもらえないかしら?」


 「征子ママ、それはいけまセンよ!
 そんなに甘えられまセン……」


 「あのピアノは特別なピアノだから、今となっては縁もゆかりもない人に使われるより、のだめちゃんに使ってもらいたいのよ。
 私のわがままかもしれないけど、もしのだめちゃんさえよかったら……」


 のだめにしても、長年世話になった三善のアパルトマンから旅立つことは、淋しくないといえば嘘になる。


 せめてパリでの生活を共に過ごしたピアノが一緒なら、こんなに心強いことはない。


 「では……お言葉に甘えて、ピアノものだめと一緒に引っ越しマスね?」


 「ありがとう、そうしてくれるとうれしいわ」
 








 パリ、ウィーン、そしてパリと移動して、イタリアへ戻ってきた真一。


 のだめに無事到着したことを連絡する。


 「さっき征子ママにいろいろ報告しまシタよ?
 三善のアパルトマンのピアノをのだめの嫁入り道具にくださるって……」


 「そっか。あのピアノなら問題ないだろ。よかったな」


 「はいっ!」


 「今週末は……、お前はイタリア来られないんだよな?」


 「はい……来週末は行きマスよ」


 「うん……」


 「真一クン、今週は忙しかったし、今週末の礼拝はパスしてもいいんじゃないデスか?」


 「いや……大丈夫だよ。
 先週行けてないし、できるだけ早くシモーナにもお礼が言いたいし」


 「じゃあ、のだめから真一クンにおまじないしてあげマス!
 このままちょっと待っててくだサイ……」


 そういって、携帯をがちゃがちゃ言わせながら、のだめが何やら準備しているのを待つ。


 しばらくすると、のだめの携帯からピアノの演奏が聞こえてくる。


 ドビュッシーの"月の光"だ。


 まるで母の子宮の中で、温かい羊水に浮かび、規則的な心音に包まれているような、安心感で満たしてくれる優しい音色。


 何かあるごとに俺を鼓舞し、慰め、癒してくれるのだめのピアノ。


 電話越しではあるが、俺はまたのだめのピアノに癒され、勇気つけられる。


 演奏が終わり、のだめが電話口に戻ってくる。


 「どでシタ?ぐっすり眠れそうデスか?」


 「うん……、サンキュ」


 「ゲハ。喜んでいただけてよかったデス」


 「のだめ……あのさ……」


 「はい、なんデスか?」


 「……Ti amo……」


 「がぼん……イタリア語?」


 「うん……意味は"愛してる"だけど……。
 じゃーなっ!」


 言うだけ言って一方的に通話を切ってしまった。


 電話の向こうののだめは、また奇声をあげているのだろうか……。


 なんだか最近、このパターンばかりのような気もする。
 








 真暗な海の底に幼い真一はうずくまっている。


 音も色も光も匂いもなく、ひとりぽっちの世界。


 もう溺れてもいないし、苦しくもないが、寂しくて、悲しくて、悔しくて、何かにとても腹を立てている。


 "父さんはどうして助けに来てくれないの?
 僕のことがいらないの?"


 "いくら僕がバイオリンを上手に弾いたって、いくら僕がピアノを一生懸命弾いたって、父さんはちっとも喜んでくれない……。


 僕は父さんが大好きだから、バイオリンもピアノも頑張ってたくさん練習してるのに……。


 父さんは僕のことが嫌いなの?"


 幼い真一は、海の底で泣いている。


 はるか上には明るい光の世界があって、父と母が待っていることは分かってる。


 けれど幼い真一は、光の世界に行く必要があるのか、行くべきなのかがわからない。
 








 真一は翌日、泣きながら目覚めた。


 胸が苦しくて、次から次から嗚咽がこみ上げてくるが、なぜ自分がこのように悲しんでいるのか、理解することができない。


 深い海で死の恐怖におびえる悪夢は終わったというのに、その先に現れたのは、幼い真一の中に眠る、深い深い悲しみ一色の世界だった。



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★ドビュッシーの"月の光"
安眠できそうですね。