芒果布甸/Mango pudding



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マエストロの婚礼 26






 「あとは……、あの話か?」


 親父から切り出された。


 今日、ここに来た目的である、のだめの紹介、パリのアパルトマンの話がなんとか一段落して、いよいよ5歳の時のトラウマの原因について、父親に聞かなければならない。


 このことを考えただけで、すこし神経が過敏になるというか、緊張しないといったら嘘になる。


 コペンハーゲンの病院でもらった安定剤を飲んでいるので大丈夫だとは思うのだが……。


 「俺も、本当のことは昨日のだめから聞いたばかりなんだ。


 心肺停止で意識が無い状態で発見されて、1週間も生死を彷徨ったなんて驚いたけど、この間から見始めた悪夢はまさにそんな感じだったから、納得できたというか……。


 でも俺には何一つ思い出すことができなくて……。
 理由もわからず苦しまされる悪夢とか、意識の喪失とかなんとかしたいし。


 それに、それこそあと2ヶ月もしないうちに、俺たちはあの街の教会で挙式するつもりなのに、不安で足を踏み入れることもできなくて。


 なんとかしなくちゃいけないんだ。
 それにはぜひ、辛い話だったとしても親父に教えてほしいんだ」









 「ちょっと飲ませてもらっていいよな?
 さすがに素面じゃ厳しいから……」


 そういって雅之はキッチンに下がる。
 すっかり懐いたのだめがちょこちょこと後をついていって、グラスだのつまみの準備など手伝って戻ってきた。


 「お前も飲むよな?」


 「うん、ありがと……」


 雅之は3人のグラスにワインを注ぎ終わると、広いリビングの中央に置かれたピアノに向かい、ピアノチェアに座ってワインを一口含むと、ぽろぽろと指鳴らしのような音を鳴らしながら、ぽつりぽつりと話を始めた。









 「あの日俺は、真一を連れて、あの街のマリーナに向かった。


 俺たちはそこで、頼んであったクルーザーに乗って、入り江近くにある、洞窟に連れて行ってもらう予定だった」


 「洞窟デスか?」


 「ああ。小さいけどな、クルーザーに乗ったまま入れるちょっとした洞窟があって、あの街はそれで有名なんだ。


 俺があの街を旅行先に決めたのも、あの洞窟があったからだ」


 「青の洞窟みたいな?のだめも行ってみたいデス……」


 「ま、まぁ、あそこまで綺麗ってわけじゃないけど……。
 話進めてもいいか?」


 「ぎゃぼっ!ゴメンナサイ、もう邪魔しまセン……」


 「すごくいい天気で、海も穏やかで、クルージングには最高の一日だったと思う。


 想像つかないだろうけど、あのころ真一は俺のことが大好きだったから、二人で出かけられることもすごく喜んでたし、初めてのクルージングで異様にテンションが上がっていたというか……。


 ああいうとき、普段から子供の面倒を見ている父親なら、あ、気をつけないとやばいぞって無意識に注意するんだろうけど……。


 俺は普段はピアノばっかりで、しかもちょうど仕事が乗ってきたころで、家の事も真一のことも征子にまかせっきりだったから……。


 喜んで、はしゃいで、クルーザーの甲板の上を走り回ってる真一を、無下に叱ることができなくて、それでもいい加減にしないと疲れちまうぞ?と走り回る真一を抱え込んだら、『じゃあ父さん、僕、あの舳先から海を覗いて見たいんだ!連れて行ってよ!』とねだられて……」


 「今じゃ考えられないデスね……」


 「舳先……、覗き込む……」


 真一は想像しただけで青くなり、身体がヒンヤリと感じ、ぶるっと身体を振るわせた。


 「俺は、そのまま真一を舳先まで連れて行って、真一を抱き上げたまま、手すりを越え海の上に突き出した。


 真一は大喜びで、俺もそんな真一の様子が嬉しくて、さっさとやめればよかったのに、もっととせがむ真一に断れなくて、さらに突き出そうとした。


 その時、クルーザーが突然揺れて、俺は真一どころか自分の身体も支えることができず、甲板に放り出され、その際の衝撃で真一は俺の腕を離れ、海の中に落ちてしまった。


 そのときすぐに助けを呼べばよかったのに、俺はパニック状態で、自分も慌てて海に飛び込んでしまった。
 とにかく助けたい一心だったんだ……。


 でも、あの海域の海は深くて色が濃く、すぐに飛び込んだはずなのに俺には真一を見つけることができなかった。


 どのくらい時間が経ったのかわからない。


 乗員が俺と真一がいないことに気付いて、探してくれて、俺のことを見つけて引き上げてから、手分けして探してくれたけど、真一が見つかるまで、俺はそれこそ何十時間もかかっているような気がしたよ。


 乗員の一人がぐったりとした真一を引き上げてきたとき、俺は自分の大切なものを永遠に失ってしまったと思った。


 情けないことに、俺はその場で海の中に消えてしまいたいと神に願うだけだった。


 でも、助けてくれた乗員の一人が、マリーナに戻るまでの間、必死で心臓マッサージと人工呼吸を繰り返してくれていて、絶対に諦めちゃだめだと、俺にずっと声をかけ、真一にも必死に声を掛け続けてくれた。


 病院で1週間ぶりに真一の意識が戻ったとき、医師からはクルーザーでの事後の処置が真一を助けたと言われたよ。


 情けないよな……。
 自分の息子を危険に晒して、助けることもできず、応急措置さえすることができず……。


 俺は本当に音楽だけの、情けない父親だと思い知らされた。


 辛くって、苦しくって、征子にも詳細を伝えることができなかったよ。


 ……真一、ごめんな。


 お前を助けてくれたのは、たぶんクルーザーの乗員と、音楽の神様なんだろうな……。」


 「お、お父様ぁーーーーーーー!!!」


 「お、おい、嫁っ!鼻水くっつけんなよ……、きたねーな……」


 やたら親父に懐いているのだめが、号泣しながら親父に抱きついて、またひっぺがされている。


 俺は、恐ろしい事故の詳細とか、親父が素直に俺にあやまったこととか、すごく衝撃的な事実の連続に、気持ちがついていかない。


 親父から詳細を聞かされても、やっぱり記憶が戻るわけでもなく。


 これで本当に悪夢とか、あの街に足を踏み込むことができるようになるのか、俺には正直よくわからなかった。









 「じゃあ、これパリのアパルトマンの鍵とかオーナーの連絡先とかメンテ関係の契約書とか諸々。
 お前に預けておくから、しっかり管理しろよ」


 「はい……、あ、ありがとう。すげー助かった」


 「それから嫁!
 結婚して浮かれてンのはいいけど、練習は欠かさずしろよ?
 お前みたいな奴は、浮かれてると足元すくわれるからな。


 へんな演奏してみろ?俺の名前にも傷がつくんだからな?千秋を名乗る者としての自覚と気概をもってだな……」


 「はいはい、お父様わかってマスってば。
 本当に親子揃って粘着なんだから……」


 「「なんだと?!」」


 「ぷっ!すっかり仲良しデスね?」


 「「……」」


 「まあ、あれだ……。
 俺と征子のことは反面教師としてだな、お前らは頑張って夫婦生活をまっとうしろ。


 明日から演奏活動で移動しなきゃいけないから、ゆっくりできなくて悪かったな。


 また、いずれ……な」


 「う、うん……」


 「お父様!時間が取れたらのだめも演奏会うかがいますっ!
 パリに来たら必ず連絡してくだサイね?」


 「まぁ……、気が向いたらな」


 そう言うと、親父は照れながらも口元に小さな微笑のかけらみたいなものを浮かべて、玄関のドアを閉めた。


 俺はその口元に浮かんだ微笑のかけらに、記憶のずっと底のほうに眠っている何かを揺さぶられたような気がしたが、それは本当に一瞬のことで、それがどんな感情なのかまで理解することは難しかった。


 左手に機嫌よくぶら下がるのだめを連れて、ウィーンの家をあとにした。



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