芒果布甸/Mango pudding



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マエストロの婚礼 21






 こぽこぽこぽ……。


 一筋の光すら届かない真っ暗な暗闇で、酸素がなく身体の自由が利かない。


 もがいてももがいても、水面には浮上できない。


 助けを求める声を上げようにも、口をあけようとすれば容赦なく海水が気管に流れ込んできて、さらに苦しさを増すだけ。


 自分はこのまま、海の底に沈んで、もう誰に会うことも、音楽を聴くこともできないのだろうと諦める気持ちと、そんなことは絶対に嫌だと拒む生への渇望とに混乱する意識。


 「うわぁぁぁぁっ!」


 意識を取り戻したとき、真一は見慣れない寝室で横たわっていた。


 身体中にびっしょりと汗をかき、呼吸は乱れ、心臓がバクバクと煩い。


 上半身を起こし、ベッドサイドに置いてあったグラスに水を注ぎ、一気に飲み干す。


 一息ついて、周囲を見回せば、ここは誰かの住居のようだ。


 思い切って立ち上がり、ドアを開けて部屋の外へ出る。


 廊下を進むと、突き当たりにリビングと思われる明るい部屋が見え、人の気配があった。


 かちゃっ。


 「あ、シンイチ!気がついたのね。よかった……」


 「シモーナ……。俺、何して……」


 「覚えてない?礼拝の帰りに夫の職場のマリーナまで送ってもらって、突然あなた倒れたのよ?
 それまでは元気そうだったけど、体調が悪かったの?」


 「あ……、いや……、そうですね、長距離の移動が続いていたから、ちょっと疲れていたのかもしれません」


 シモーナはソファから立ち上がり、真一のそばまでくると、いたわるように背中に手を添え、真一をリビングのソファに座らせた。


 自分も真一の隣に座り、顔を覗き込んだり、背中をさすったりして様子を伺い、ほっと息を吐いた。


 「顔色も戻ったし、もう大丈夫みたいね。
 どう?気分は悪くない?だいぶ汗をかいたみたいだけど……」


 「はい……。寝ている間にだいぶ汗をかいたみたいですが、気分は悪くないです」


 真一がそう伝えると、シモーナはちょっと待っててと立ち上がり、部屋を出ていったが、しばらくして衣服を持って戻ってきた。


 「よかったらバスルームを使ってちょうだい。これは夫のものだけど着替えに使いなさい」


 「ありがとうございます……」


 真一はシモーナに場所を教わり、バスルームへ向かった。









 バスルームで熱い湯のシャワーを浴びながら、真一はシモーナの言葉を脳内で反復していた。


 "そうだ。教会からシモーナを乗せて車を走らせ、マリーナに行ったんだ"


 でも自分がなぜ倒れてしまったのか、その時のことをいくら思い出そうとしても、思い出すことができない。


 そして、先ほど目覚める瞬間に見ていた夢。
 苦しくて、もがいている自分。
 自分は死ぬのかもしれないと感じていたのは、今日の出来事と何か関係があるのか?


 考えても考えても何も答えは出てこない。


 きゅっ。


 シャワーを止め、タオルで水滴をふき取り、シモーナの夫のポロシャツを身につける。
 海での仕事のためか、そのポロシャツからはほんのりと潮の香りがする。


 "海岸線、マリーナ、桟橋、クルーザー……"


 無意識に繰り返されるイメージに、ふたたびなんとも言えない嫌悪感と、軽いめまいに襲われ、真一は思考を強制的にシャットアウトした。









 シモーナからはぜひ泊まっていくようにと勧められたが、明日もヴィエラ先生のアシスタントをしなければならないため、急いでローマに戻ることにする。


 幸い、マリーナで倒れたときに、真一の乗ってきた車に真一とシモーナを乗せ、シモーナの夫が家まで運転して運んでくれていたので、そのまま車で帰ることができた。


 帰りもアウトストラーダに乗るまで、暫く海岸線を通らなければならなかったが、夜の暗闇が海岸線を隠してくれていたおかげで、何事もなく戻ることができる。


 気にならないといえば嘘になるが、シモーナにも言ったとおり、長距離の移動が続いて疲れていたことで、自分のトラウマである海の恐怖感が増幅されて起こったのだろうと納得することにし、もうこれ以上考えるのはよそうと自分で自分に言い聞かせるのだった。









 ローマでの日常に戻る。


 大好きなオペラ、尊敬するヴィエラ先生のもとで、刺激的な毎日。


 日中は音楽にだけ集中して、充実した日々を送っている。


 しかし、あの日から、真一はたびたび悪夢を見るようになっていた。


 ベッドに入ると毎夜悪夢に襲われる。
 暗闇の中、身動きがとれず、声もあげることができず、死の恐怖と戦わなければならない過酷な夢。


 大声を上げ、夢から覚める。全身にはびっしょりと汗をかき、心臓が早鐘を打つ。


 翌週の日曜日、本来であれば教会の礼拝に行く予定の日であったが、真一はどうしても足を向けることができない。


 家主も、弟子たちも、休日を楽しむために出払った屋敷で、真一は一人、自室のベッドに横たわり、うとうととしていた。


 毎夜の悪夢で十分な睡眠がとれず、そのためちょっとでも横たわれば、あっという間に睡魔に襲われる。


 意識を手放そうとしていた瞬間、携帯の着信音がなり、真一の意識は覚醒した。









 「も、もしもし……」


 誰からの着信かも確認せずに、口をついたのは日本語だった。


 「もちもち?あたちでちゅー、のだめでちゅよー!ぎゃはー!」


 「……エリーゼか……」


 「なーに、チアキ?ねぼけてんの?」


 「ん……、ごめん、ちょっとうとうとしてて」


 「おきて頂戴。ちょっと急で悪いんだけど、頼みたい仕事があるのよ」


 「え?」


 「フランツが急に体調を崩してしまって、ピンチなのよ。明後日本番なの、代振お願いするわ」


 「おい……。今度はなにやった?」


 「あーら、別に夜遊びしてはしゃぎ過ぎて、酔っ払って転んで骨折なんかしてないわよ?」


 「……ふざけんな。そんな尻拭いばっか……」


 「なに言ってるのよ、弟子の分際で。
 コペンハーゲンだから、アンタの好きな夜行列車に今から準備して乗れば、明日の朝には来られるでしょ?
 もうチケットは予約してあるから。じゃ、頼んだわよ」


 ピッ!


 「お、おい……」


 "ツーツーツー……"


 「はぁ、俺に拒否権はないのかよ……」


 これからコペンハーゲンに行き、明後日公演本番。
 その翌日にはのだめとウィーン入りする予定だ。
 仕方ない、のだめにはコペンハーゲンに着いて、現地のスケジュールを確認してから連絡しよう。


 体調、精神面とも不安を抱えたまま、急いで荷造りを始める真一であった。









 シティナイトラインでローマからコペンハーゲンへ向かう。


 10時間以上かかるが、動くホテルといわれる快適な車両で、バーはオールナイトで営業している。
 連日の短い眠りでリズムが狂っている自分にはちょうどいいかも知れない。


 ローマから離れて列車で移動するのはいい気分転換になったようで、眠くなるまでバーで飲んでから寝台に横になると、悪夢を見ることなく熟睡することができた。


 ひさしぶりの快眠にすっきりと目覚め、コペンハーゲンのプラットフォームに降り立つ。


 オリバーが迎えにきてくれるはずなんだが……。


 「チアキさんですか?」


 「はい……、そうですが」


 「お迎えに上がりました。オリバーさんはマエストロのお世話で手が離せなかったものですから」


 付き人の一人か、コンサートスタッフか、ともかく真一の顔見知りではなかったが、迎えの車に乗り、さっそく会場へ向かう。


 今回の会場であるコンツェルトフセットのコンサートホールは、サントリーホールやロサンジェルスのディズニー・ホールを手がけた音響デザイナー豊田泰久氏が担当、2009年に完成したばかりの話題のホールだ。
 音響が素晴らしいと評判で、実はかなり楽しみでもある。


 寝台列車の旅でリフレッシュして久しぶりに気分もいい。


 それに、ジジィの尻拭いとはいいつつ、マエストロの代振を任せられることは大変光栄なことであり、プレッシャーもあるがやり甲斐もある。


 何しろ、このような機会でないとふだんは決して振ることのできないような、一流のオケ、一流のコンサートホールでの仕事なのだから。


 真一は久しぶりに心地よい緊張感と期待感に気分が高揚してくるのを感じていた。


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