芒果布甸/Mango pudding



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ボーイ/ミーツ/ラッキー☆ガール 58






 気が付けば、周囲も気にならないほど音楽に没頭していた。


 最初こそ怖さが先立った外国人ピアニスト講師の印象も、レッスンを受けるうちにプロの厳しさと真剣さに心を打たれ、あっという間に尊敬の念に変わる。


 未だにお互いの言語は理解できないが、ピアノを通じて会話をしていると、なんとなく相手の言わんとしている事が理解できてしまうから不思議だ。


 複雑な言葉の表現が必要な場合には、幸久が間に入って通訳してもらうこともあるが、簡単な意思疎通はできるようになっていた。


 ニナのレッスンは、のだめが子供時代に受けたような、押し付けるような指導ではない。


 技術的なことに対する指導はない。もちろん、技術的な指導が必要なレベルであれば、このクラスにいる資格はないのかもしれないが。


 まずはどうしてそのような演奏をしたのかと訊ねられ、その答えに対してニナは考えてから、それであれば……とアドバイスをする。


 のだめは、自分のピアノが、そして自分が受け入れられていると感じた。


 そして、ニナは生徒たちに惜しげもなく自分の演奏を聞かせてくれる。


 まるで違うピアノで奏でられているような、明らかに自分たちとは次元の違う音色を奏でるニナのピアノ。


 リスペクトして、全幅の信頼を寄せる。


 のだめの中で、ニナの存在が大きくなっていくのに時間は必要なかった。


 すべてのレッスンを終了したあと、ニナから請われて何曲か別の曲を弾かされた。


 幸久も付き添いのように同席を許され、ピアノを弾く傍らに寄り添うニナの少しうしろで、のだめのピアノに耳を傾けている。


 この数日のレッスンに刺激を受けて、また音が進化しているような……


 幸久には、ニナがなぜこのようなことをしているのか、ある程度予測がついていた。


 もうニナの気持ちはほぼ決まっているはずで、これはちょっとした確認といったところだろう。


 自分が連れ出すつもりだったけど、その必要はなさそうだ。


 もし……二ナがのだめをパリに連れて行くのであれば、自分もパリに行こう。


 のだめは海外で生活するのは初めてだろうから、自分が近くにいれば助けることもできる。


 のだめの留学をきっかけにして……というのはちょっと、情けない気もするが、今度こそ自分も本気でクラシックの本場で音楽と……自分と向き合おう。


 のだめの演奏に耳を傾けながら、幸久はそんな決心をしていた。


 演奏が終わり、ニナが小さく拍手をして、のだめに微笑む。


 「あなたのピアノがとても気に入りました。
 どう?パリで……私のもとでピアノを学ぶ気はある?」


 「え……」


 のだめは、ニナの言葉は何となく理解できたものの、戸惑いから慎重に確認をするように幸久に顔を向ける。


 「先生は、恵ちゃんのピアノがとても気に入ったから、パリに行って先生の下で勉強しないかって誘ってくださってるんだ」


 「……パリ、デスか……」


 「簡単な話じゃ ないし、今すぐ返事をしなくても大丈夫だよ」


 「はい、あの……」


 のだめは再度、ニナに向き合うと、真っ直ぐに見つめて答える。


 「とても光栄デス。でもお返事は……明日でもいいデスか?」


 幸久がニナに通訳して伝えると、ニナは微笑んで了承の意を伝える。


 では明日……と挨拶を交わし、ニナがレッスンから退室すると、のだめは緊張を一気に解くように、大きく息を吐いた。


 「恵ちゃん、すごいよ。あんな世界的なピアニストに認められるなんて」


 「あ、はい……。のだめはクラシック界のことはよくわかりまセンけど、ニナ先生のピアノがすごいことはわかりマス。先生のピアノ、もっと聴いてみたいデス」


 「そう……じゃあ……」


 お互い、はっきりと言葉にはしなかったが、言わんとしていることは理解できた。


 のだめはピアノに顔を向けたまま小さくうなづくと、ピアノを片付け立ち上がる。


 「松田先輩、今日までいろいろとありがとうございまシタ。先輩がいてくれなかったら、こんなふうに最終日を迎えられたかどうか……」


 「そんなことないよ。演奏のことは、大して言葉なんか交わさなくても先生も君も意思疎通できてたし。すごいね、ピアニスト同士って感じがしたよ。
 少しでも役に立てたなら光栄だな。それに……」


 幸久は立ち上がったのだめの顔を正面に見据えると言った。


 「これから先も恵ちゃんのピアノ、どんな風に進化していくのか、近くで見届けさせてもらうよ?」


 「へ?」


 不思議そうに首をかしげるのだめに、幸久はそれ以上の説明はせず、ただ笑って退室を促した。









 千秋先輩と話をしなくちゃ。


 のだめは、携帯に手を伸ばす。


 時刻は二十三時を回っていた。


 遅いけど、まだ眠るには早い時間。


 明日、返事をする前に話ができるとすれば、今が最後のチャンス。


 真一のメモリーを呼び出し、発信ボタンを押す。


 コール音が繰り返しならされ、留守電に繋がる。


 時間を空け、何度か繰り返すも真一が電話に出ることはなく……。


 「先輩のバカ。何やってんデスか……」


 のだめは携帯を握り締めたまま、ベッドの上で意識を手放した。









 話をしたかった相手とは連絡がつかないまま、のだめは翌日、ニナの申出に了承の意を伝えた。


 「よろしくお願いしマス」


 「こちらこそ。さっそく今夜のパーティーで、知り合いに紹介するわ。一緒に来て頂戴」


 華やかな人々で溢れかえったパーティー会場を、ニナはすいすいと挨拶を交わしながら進む。


 のだめは二ナに言われるがまま、紹介された人物に挨拶を繰り返す。


 繰り返される行為の続く中、のだめは時間の感覚を失い、そのうち自分がどこで何をしているのか、目的すら見失いそうになっていた。


 「シンイチ!」


 ニナの呼びかけた聞き覚えのある名前に、のだめの意識が覚醒する。


 千秋先輩……やっと会えた。


 のだめは今すぐ抱きついて、思いの丈をぶつけたい気持ちをぐっとこらえ、ニナと真一のやりとりを見守る。


 真一を部屋まで送るようにとのニナの言葉に、のだめは真一と二人きりになれると知ると、やっと気持ちを落ち着けることができた。


 ニナの後ろ姿を見送り、若干青ざめた顔の真一に向き直ると、待ち望んでいた相手に声をかける。


 「先輩……突然こんな形で伝えることになってしまってごめんなサイ。
 本当は昨夜、返事をする前に先輩と話がしたくて、何度か電話したんデスけど……」


 「そっか……昨日ジジイの世話で遅くなって疲れてたから……。気付かなくって寝ちゃってた、俺こそごめん」


 「あの……先輩のお部屋で、お話できマスか?」


 「うん……俺も話聞きたいし」


 無言のまま、のだめは真一の半歩後ろをついて行く。


 どんなふうに話を進めればいいのか、全く見当もつかないけど。


 俯いたまま、頭の中でシミュレーションを繰り返していると、立ち止まった真一の背中にぶつかって動きが止まる。


 「ついたぞ?」


 真一に促されて部屋の中に進む。


 どこに落ち着けばいいのか、狭いシングルルームにはベッドと、壁際に設置されたデスクとチェアが一脚。


 「のだめ、ここ」


 真一が先にベッドに腰掛け、のだめに座るようにと隣をぽんぽんと叩く。


 「あ、はい……」


 言われるがまま、真一の隣に腰を落とすと、ふわりと真一の両腕で包み込まれ、固まっていると頭をぐっと真一の胸に押し付けられた。


 久しぶりに真一の匂いに包まれて、自分は少し緊張していたようだと気づく。


 「先輩、あの……」


 「うん……」


 「ニナ先生とお知り合いだったんデスね?」


 「うん……父親の関係で……子供のころはよく会ってた……」


 「そだったんデスか……」


 真一は自分からは何も言わず、顔もあげずにただのだめの身体を優しく抱きしめている。


 「先輩、のだめピアノ頑張りまシタ。ニナ先生のピアノも聴かせてもらって、音がすごくて……。ニナ先生はのだめのピアノが気に入ったって、だからパリで、先生のもとでピアノを学ばないかって……」


 「うん……」


 真一ののだめを抱きしめる腕が、少し強くなった気がする。


 「先輩……のだめと一緒にパリに行きまセンか?」


 「え……」


 「指揮者を目指すなら、やっぱりクラシックの本場のヨーロッパで音楽を学んで……」


 のだめに回されていた真一の腕が徐々に緩まり、真一はやっと顔を上げ、のだめを見つめた。


 指揮者を目指すならクラシックの本場、ヨーロッパで……≠サの通りだと思う。


 ヨーロッパに行けばいいってものではないけれど、指揮者を目指すならいつかは……でもいつ行くのかというような問題ではなく、俺は行けないのだ。


 だからこそ、ここ日本でできることをするしかなくて……。


 のだめに誘われて改めて思う。


 俺はヨーロッパに行きたい!


 今まで、考えても仕方の無いことだからと、無意識に押さえ付けていた。


 言ってしまいたい。行きたいけど、すごく行きたいけれど、俺はここから出ていくことができないのだと。


 でも、もしのだめにこの事実を伝えたら……コイツは折角のチャンスを俺のために棒に振ってしまうのではないか?


 そんな不安が過ぎって、俺は自分の気持ちにブレーキをかける。


 「は? 何言ってんだ?
 俺の事とお前のことは別の話だろ? 一緒にすんな……」


 「べ、別に一緒になんか……」


 「俺は俺でちゃんと考えてんだ。その時期が来たら、言われなくたって行くつもりだし」


 精一杯強がって、背けられた真一の横顔が見える。


 のだめは……期待してた。


 身も心も一つになった二人だからこそ、今なら真一も告白してくれるのではないかと。


 なぜ自分が日本から出ることができない≠フかを。


 それが知りたくて、真一から直接聞きたくて、口にした誘いだった。


 もちろん、ニナのピアノは魅力的で、ニナについて行って、もっと新しい世界を知りたいと思う。


 その時、そばに真一が一緒にいてくれたら、こんなに心強いことはない。


 今だって、二人の気持ちは繋がっていると信じているけれど。


 簡単には逢うことができない、物理的に二人を遮る距離と時間。


 それがこれから、どんな風に自分たちの関係を変えていくのかなんて、想像もつかないから……。


 「……わかりまシタ。のだめ、余計なお世話でシタ、ごめんなサイ」


 「いや、そんな、余計なお世話だなんて……。
 ただ、お前には、折角のチャンスだから、自分のことだけ考えてほしくて……」


 お互いが、お互いのことを思う気持ちは、すれ違うばかりで……。


 「……いつから行くんだ?」


 「とりあえず、のだめのパスポートが取れたらすぐ。
 でもそれは、短期的にどんな様子か見てくるだけで……。
 夏休みが終わったら戻ってきマス」


 「そっか……。じゃあ、学園祭の演奏は聴いてもらえるよな?」


 「はい、たぶん。
 でも、その後は留学に必要な書類が準備できたら、すぐに来て欲しいって、ニナ先生が。
 演奏旅行に連れて行ってくださるって……」


 「……大学は……」


 「とりあえず、休学することになると思いマス」


 「……そっか」


 「先輩、あの……ぎゃぼっ!」


 「ごめん……今日は帰せない」


 真一の強い腕に押し付けられ、噛みつくようなキスを受ける。


 お互いを思う気持ちは同じなのに、何故か焦りばかり感じて。


 でもとにかく、今だけは先のことは考えたくない。


 目の前のただ一人の大切な人のことだけ感じていたいから。








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