芒果布甸/Mango pudding



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20.心経簡林



 翌日、真一は幾分テンションは下がったものの、このまま一緒にイタリアへ行って、ヴィエラ先生に紹介しつつ結婚の報告をと、のだめの事を引っ張って行きそうな勢いだった。


 北京から香港、香港からヒューストンと移動の連続で、さすがに疲れもピークに達しているし、荷物だってすごいことになっている。


 「オフ、まだ2週間ありますカラ。一度、パリに帰りマス」


 イタリアへの飛行距離を想像したのか、恋人はその大きな体を一回り小さく縮めて、子犬のように震えている。
 ”大丈夫デスよ”と優しくささやいて抱きしめる。


 「だ、大丈夫じゃねーよ……」


 あんまり恨めしそうに見つめられるから、ついイタリアまで一緒に……と思わないこともなかったが、そうすると何となくズルズルとついて行ってしまうことになりそうで、ここはキッパリと拒否することにした。


 のだめは震える恋人の大きな体を搭乗口に向けさせると、ぱーんっ!と真一の背中を叩き、渇を入れる。


 「いてっ!」


 「行ってらっしゃい、アナタ。おベンキョ、頑張ってくだサイ」


 幾分迫力に欠けるものの、振り返った真一のにらみつける顔にまったく動じることなく、のだめは良妻スマイルを浮かべると、軽やかに手を振り、送り出した。









 パリに戻ってきた。


 一人きりで戻ったアパルトマンは、大量の荷物とか、留守中に溜まった諸々とか、埃が溜まって空気が淀んでいたりとか、うんざりするような状況だったが、今ののだめにはそんなに嫌じゃない。


 2週間前、北京から一人、この部屋に帰ることを考えた時の気持ちからは、想像ができないくらいに。


 きっと、もう少しすれば、疲れた様子で恋人が戻ってきて、部屋のちらかり様に呆れながら、怒りつつも綺麗に片付けてくれるだろうから。


 そして、そんなことがずっと、もうこの先数え切れないくらい、繰り返されるのだと分かったから。


 そんな事だけで、自分の心の中にあったモヤモヤが、すべてすっきりと無くなってしまったのだと分かると、なんだか悔しい気もするけど……。









 ヨーダに会って、音楽祭やヒューストンでの飛び入り演奏などについて報告したり、呼び出されていたニナのもとを訪れ、お茶を飲んだり。(特に何も聞かれたり言われたりしませんでしたケド、本当になんだったんデショ?)
 連絡の取れた友人たちと食事をしたりして数日パリで過ごした。


 真一からは2度連絡があり、『いつ、こっちに来るんだよ?』と催促されている。


 「もうチョット、このフワフワな幸福感を一人で噛みしめたいというか……」


 「はぁぁ?!」


 お前、ほんと訳わかんねーなっ!とイラつかれながらも、


 「真一クン、愛してます。ゲハ」


 と囁けば、電話の向こうで”うっ……”と言葉に詰まって、何も言い返せなくなる愛しい恋人。


 「しょーがねーなー……。待ってるから」


 ”できるだけ早くこいよ”


 ”了解デス!”


 もうちょっとだけ待っててくだサイね?
 のだめは自分の気持ちのおもむくまま、感じるままに行動することにしたんですカラ。








 3週間ぶりに訪れた、2回目の香港。


 プリごろ太広東語版で、簡単な日常会話程度は広東語をマスターしてある。
 空港に到着した途端、洪水のように流れ込む広東語が理解できるのは、ちょっとした快感。3週間前とは大違いだ。


 あれからRuiとは何度かメールのやりとりをして、ヒューストンでの出来事もすべて報告済み。(真一クンには秘密デス)


 だって今回、不器用な私たち二人に、素直になってと背中を押してくれたのはRuiだから。とっても感謝してるんデス。


 それに、ここ香港。美味しいものをたくさん食べて、Ruiと打ち解けて、いろんな話をして……。
 そんな気分にさせてくれたのがこの場所だったから。


 Ruiに報告するのと同じように、香港にもお礼参りデス。


 残念ながら、スケジュールの都合がつかず、Ruiと一緒じゃないのは残念ですケド。メールでいろいろオススメの場所とかレクチャーしてもらっているので、無問題デス!









 ホテルにチェックインし荷物を下ろすと、MTRで東涌(トンチョン)駅へ行き、昴坪(ゴンピン)360と呼ばれるゴンドラに乗る。


 本当はここ、真一クンと一緒に来たかったんですケド、絶対無理デスね。全長5.7kmを結構な高さ、空中散歩ですカラ。
 くっきりと晴れ渡って、眼下にはランタオ島と海が広がる。


 20分ほどでゴンピン・ビレッジ駅に到着。寶蓮寺の東洋一大きな大仏様が見えてきますが、のだめの目的地はここではありまセン。


 トレッキングコースに沿って進むと現れたのが心経簡林と呼ばれる場所。現世とは思えない、不思議な空間。


 山間に沿ってつくられた道に、等間隔で並ぶ38本の木簡。見上げる高さは真一クンの身長の1.5倍くらいでショウか?


 それぞれに般若心経を一行ずつ掘り込まれ、∞を描くように並べられていマス。


 もやの立ち込める山間を、木簡を1本ずつ見つめながら進むと、美味しい空気と美しい景色に、心が洗われるよう。


 その中に、1本だけ何も書かれていない、木簡がありまシタ。


 ”空(クウ)”


 「……色即是空 空即是色……」


 広大な山の背後には、どこまでも広がる空。
 のだめの体が分子レベルで溶け合って、広がっていくのを感じマス。


 これから、のだめと真一クンにもいろんな事があるでショウね。


 でも、どんな時でも、この広い空を見上げて、溶け合わせることができるから、いつも一緒だって思えるカラ。


 ”きっと、大丈夫”









 前回、のだめと電話で話してから1週間。そろそろ、オフの残り日数も数えるほどのはず。
 ヒューストンで気持ちも心もマックスに開放した俺は、照れはあるものの、気持ちを抑えることが難しくなっている。そんな事実がとても恐ろしい。


 あんまり急かすのもかっこ悪いだろと思いつつ、でもこれ以上は待てない気分だ。


 俺、十分待ったよな?と自分自身に問いかけ、うっとうしいくらいイチャイチャするジャンとゆうこにイラつきながら、
 ”今までこんな気持ちになったことなんかなかったのにっ!”
 と自分の気持ちの変化を再確認して、のだめの携帯を呼び出した。


 ……pupu、pupu……。


 「Wai?」


 「……オイ……、それは、どこの星の言語だ……」


 「ぎゃぼっ!千秋センパイじゃないデスか?ホウノイモウギンウォ〜!(お久しぶりデス)」


 「まさか、お前……」


 ありえない。俺の誘いを断って、また香港かよ!
 一人って……、大丈夫なのかよ……。
 あぁ!?ピンクイルカ?なんだよ、それ……。


 「子豚ちゃんのような、それは見事な桃色なんデス。
 クルーザーに乗って、漁船のうしろを泳ぐ十頭近くの群れに会えたんデスよ〜!もう、のだめ感激しちゃって……」


 ぜひセンパイにもあのラブリーなイルカちゃんを見てほしいですカラ、海恐怖症も克服してもらいマス!と、無駄に張り切ってるのだめに溜息がこぼれる。


 フランス語のように、今回もプリごろ太のDVDで言語をマスターしたのだめは、一人でも楽しそうに飯だスイーツだ買い物だと香港一人旅を満喫しているらしい。


 「お前いい加減に……」


 「これから飛行機のりマス!」


 「は?」


 「もうすぐ、イタリアの真一クンのそばに行きマスよ?」


 ”待っててくだサイ。ずっと一緒デスよ”


 のだめのささやく、魔法の鈴の音。


 俺の心にすぅーっと染み込んで、なんだかもう大丈夫だって思えたから、


 ”わかった、待ってる”とだけ伝えて、電話を切った。

















 部屋の窓から空を見上げた。
















 すっきりと晴れ渡った青空に、俺とのだめが溶け合って、一つになった気がした。













------ピアニストの休日 End --

<19.Houston 2