芒果布甸/Mango pudding



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プロローグ



 香港国際空港。


 快適なシャトルに乗り、イミグレを通過。一人分のコンパクトなバゲージをピックアップすれば、明るく開放的なレベル5、到着ロビーへ。


 「ふいー。この匂い、たまりまセン」


 のだめはまず、だだっぴろい到着ロビーの片隅で、大きく深呼吸をした。


 香港に入国したからといって、途端に匂いが変わるわけではないはずなのに、なぜかこの場所にたどり着いたとたん、香港独特の匂いに包まれるような気がするのは、彼女が人間離れした臭覚の持ち主だからだけではないはず。


 ほかの都市にはない、香港独特のエネルギーが、この近代的な空港内にも押し寄せてきているような気がするのだ。


 のだめは、満足げな微笑みを、その実年齢より幼く見える顔に浮かべると、ゴロゴロと荷物を引いてエアポートエクスプレスに向った。








 『ピアニストの休日』









 3週間前、中国の北京で開催された音楽祭にピアニストの一人として参加した。


 初めての北京は、想像していたより都会的で、アーティストとしてののだめに予想外の刺激をもたらした。


 観客たちは東京人よりも無邪気で、ストレートに感情を表し、熱狂的にNODAMEの演奏を受け容れた。その反面、中国4000年の歴史を思い知らされる深みと、複雑に入り組んだ文化の重厚な空気に『お前の演奏など、まだまだ』と思い知らされた。


 「ノダメサン、この後のスケジュールは?」


 のだめと同じようにピアニストの一人として音楽祭に参加していたRui。


 自国のスターとして熱狂的な支持を受けた彼女は、終演後、半ば誇らしくも半ば恥ずかしげに高揚した表情で、舞台裏で帰り支度をするのだめに声をかけた。


 「この後は1ヶ月ほどオフなんデスが、とくに予定もないので、明日にはパリに戻る予定デス」


 立て続けに有名どころのオケとのコンチェルトに出演し、この音楽祭に出演したあと、のだめは演奏活動の谷間になり、比較的長いオフが取れた。


 しかし、折角のオフに関わらず、愛しい恋人は北米での大売出中。ここ1年は拠点であるフランスに戻ってもとんぼ返りで、イタリアでの勉強以外はひたすら客演を振り続けている。恋人であるのだめをほっぽらかしのまま。


 「ふうーん。千秋は?会いに行かないの?」


 「千秋先輩はアメリカのどこかにいるはずデス。のだめ、ロサンゼルスにだったら、行きたいと思ってるんデスが……。ディズニーランド行きたいし」


 「え?ディズニーランドだったらパリにもあるんじゃ……」


 パリのディズニーランドなんて、ミッキーがフランス語でしゃべるんですヨ?そんなのおかしいじゃないデスか?とか、のだめの話は相変わらず理解に苦しむ。
 

 「いや、ミッキーじゃなくて!千秋ダヨ!
 恋人には時間があれば会いたいものデショ?」


 のだめの大きな瞳が一瞬、ちらちらと揺れ動く。
 

 「千秋先輩はいま、自分のキャリアアップのために必死なんデス。
 のだめが逢いになんて行ったら、蹴り飛ばされマスヨ」


 け、蹴り飛ばすって……。
 Ruiはまさか、そんなね、と常識で否定しつつ、この常識的ではないピアニストと鬼指揮者のカップルを脳内に思い浮かべ、あながちありえないことでもないのかと、引きつった笑顔を浮かべる。


 「そ、そうなの?それは寂しいネ」


 寂しい、という言葉に弾かれたように、のだめの瞳がもう一度揺れる。
 その一瞬の揺らぎをRuiは見逃さなかった。


 「ねぇ、もし急いでパリに戻る必要がないんだったら、少し私に付き合わない?」


 「え?」


 「実は私、最近香港にハマッてて。時間がとれると遊びに行ってるんダヨ。
 北京からだったら3時間半だし、どう?私がノダメサンを案内するヨ?」


 「ホン、コン……」


 のだめは、Ruiからの意外な誘いと、聞き慣れない地名に戸惑う。
 そんなのだめの様子に、Ruiはここぞとばかり、香港の魅力を熱く語る。


 食べることが大好きなノダメサンなら、絶対に気に入ると思うヨ、香港。
 香港人の食に対する貪欲さってフランス人に並ぶと思うし、おいしいものいっぱいだし。


 中国は自分のルーツだから、こうやって本土に演奏にくれば温かく迎え入れてくれるのがとてもうれしい。
 でも、小さいころから育って慣れ親しんだのはNYだから、なんだかやっぱり雰囲気に馴染めなくて、中国本土ではお客様気分が抜けない。


 「それに比べると香港って、ごちゃまぜの雑多感とか、エネルギッシュなところとか、NYに似てて。
 それでいて街を行きかう人たちは私と同じルーツの人たちだから、すごく落ち着くっていうか」


 幼い頃から演奏活動で世界中を回り、ひとつところに落ち着いていたことのないRuiにとって、香港は初めて見つけた自分の居場所のような気がするのだという。


 「中国に返還されて中国人の一員のくせに、香港人って自分たちは本土の人間とは違う、特別だって思ってるんだよネ。その感覚がなんだか自分に似てる。英語も通じるしね」


 のだめは、先ほどRuiに伝えた予定を思い浮かべてみた。


 一人で戻る、パリのアパルトマン。恋人は長期不在で、部屋は散かり放題でも怒られることもない。
 乱雑に散かった自室で毎日ピアノを弾く。たまには友人に連絡をして、ランチやディナーを取るだろう。もし、ヨーダの都合さえつけば、レッスンしてもらえるかもしれない。


 休暇の後半からは、次の演奏活動に向けて、またピアノを弾いて……。一人、アパルトマンで……。


 「Rui、のだめ連れて行ってもらってもいいデスか?」


 のだめは、寂しそうな瞳をゆらしながら、Ruiに訊ねる。


 「無問題ダヨ!」


 笑顔で答えるRui。


 「もーまんたい?」


 「あ、広東語でノープロブレムの意味ネ!」


 「むきゃっ!よろしくお願いしマス!」


 のだめは、すちゃっと敬礼ポーズをとって真剣な表情でお願いをすると、久しぶりに晴れやかな笑顔を浮かべた。





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