□ピアニストの休日  香港国際空港。  快適なシャトルに乗り、イミグレを通過。一人分のコンパクトなバゲージをピックアップすれば、明るく開放的なレベル五、到着ロビーへ。  「ふいー。この匂い、たまりまセン」  のだめはまず、だだっぴろい到着ロビーの片隅で、大きく深呼吸をした。  香港に入国したからといって、途端に匂いが変わるわけではないはずなのに、なぜかこの場所にたどり着いたとたん、香港独特の匂いに包まれるような気がするのは、彼女が人間離れした臭覚の持ち主だからだけではないはず。  ほかの都市にはない、香港独特のエネルギーが、この近代的な空港内にも押し寄せてきているような気がするのだ。  のだめは、満足げな微笑みを、その実年齢より幼く見える顔に浮かべると、ゴロゴロと荷物を引いてエアポートエクスプレスに向った。  プロローグ  三週間前、中国の北京で開催された音楽祭にピアニストの一人として参加した。  初めての北京は、想像していたより都会的で、アーティストとしてののだめに予想外の刺激をもたらした。  観客たちは東京人よりも無邪気で、ストレートに感情を表し、熱狂的に NODAME の演奏を受け容れた。その反面、中国4〇〇〇年の歴史を思い知らされる深みと、複雑に入り組んだ文化の重厚な空気に『お前の演奏など、まだまだ』と思い知らされた。  「ノダメサン、この後のスケジュールは?」  のだめと同じようにピアニストの一人として音楽祭に参加していたRui。  自国のスターとして熱狂的な支持を受けた彼女は、終演後、半ば誇らしくも半ば恥ずかしげに高揚した表情で、舞台裏で帰り支度をするのだめに声をかけた。  「この後は一ヶ月ほどオフなんデスが、とくに予定もないので、明日にはパリに戻る予定デス」  立て続けに有名どころのオケとのコンチェルトに出演し、この音楽祭に出演したあと、のだめは演奏活動の谷間になり、比較的長いオフが取れた。  しかし、折角のオフに関わらず、愛しい恋人は北米での大売出中。ここ一年は拠点であるフランスに戻ってもとんぼ返りで、イタリアでの勉強以外はひたすら客演を振り続けている。恋人であるのだめをほっぽらかしのまま。  「ふうーん。千秋は? 会いに行かないの?」  「千秋先輩はアメリカのどこかにいるはずデス。のだめ、ロサンゼルスにだったら、行きたいと思ってるんデスが……。ディズニーランド行きたいし」  「え? ディズニーランドだったらパリにもあるんじゃ……」  パリのディズニーランドなんて、ミッキーがフランス語でしゃべるんですヨ? そんなのおかしいじゃないデスか? とか、のだめの話は相変わらず理解に苦しむ。  「いや、ミッキーじゃなくて! 千秋ダヨ!  恋人には時間があれば会いたいものデショ?」  のだめの大きな瞳が一瞬、ちらちらと揺れ動く。    「千秋先輩はいま、自分のキャリアアップのために必死なんデス。  のだめが逢いになんて行ったら、蹴り飛ばされマスヨ」  け、蹴り飛ばすって……。   Rui はまさか、そんなね、と常識で否定しつつ、この常識的ではないピアニストと鬼指揮者のカップルを脳内に思い浮かべ、あながちありえないことでもないのかと、引きつった笑顔を浮かべる。  「そ、そうなの? それは寂しいネ」  寂しい、という言葉に弾かれたように、のだめの瞳がもう一度揺れる。  その一瞬の揺らぎを Rui は見逃さなかった。    「ねぇ、もし急いでパリに戻る必要がないんだったら、少し私に付き合わない?」  「え?」  「実は私、最近香港にハマッてて。時間がとれると遊びに行ってるんダヨ。  北京からだったら三時間半だし、どう? 私がノダメサンを案内するヨ?」  「ホン、コン……」  のだめは、Ruiからの意外な誘いと、聞き慣れない地名に戸惑う。  そんなのだめの様子に、Ruiはここぞとばかり、香港の魅力を熱く語る。  食べることが大好きなノダメサンなら、絶対に気に入ると思うヨ、香港。  香港人の食に対する貪欲さってフランス人に並ぶと思うし、おいしいものいっぱいだし。  中国は自分のルーツだから、こうやって本土に演奏にくれば温かく迎え入れてくれるのがとてもうれしい。  でも、小さいころから育って慣れ親しんだのはニューヨークだから、なんだかやっぱり雰囲気に馴染めなくて、中国本土ではお客様気分が抜けない。  「それに比べると香港って、ごちゃまぜの雑多感とか、エネルギッシュなところとか、ニューヨークに似てて。  それでいて街を行きかう人たちは私と同じルーツの人たちだから、すごく落ち着くっていうか」  幼い頃から演奏活動で世界中を回り、ひとつところに落ち着いていたことのないRuiにとって、香港は初めて見つけた自分の居場所のような気がするのだという。  「中国に返還されて中国人の一員のくせに、香港人って自分たちは本土の人間とは違う、特別だって思ってるんだよネ。その感覚がなんだか自分に似てる。英語も通じるしね」  のだめは、先ほどRuiに伝えた予定を思い浮かべてみた。  一人で戻る、パリのアパルトマン。恋人は長期不在で、部屋は散かり放題でも怒られることもない。  乱雑に散かった自室で毎日ピアノを弾く。たまには友人に連絡をして、ランチやディナーを取るだろう。もし、ヨーダの都合さえつけば、レッスンしてもらえるかもしれない。  休暇の後半からは、次の演奏活動に向けて、またピアノを弾いて……。一人、アパルトマンで……。  「Rui、のだめ連れて行ってもらってもいいデスか?」  のだめは、寂しそうな瞳をゆらしながら、Ruiに訊ねる。  「無問題ダヨ!」  笑顔で答えるRui。  「もーまんたい?」  「あ、広東語でノープロブレムの意味ネ!」  「むきゃっ! よろしくお願いしマス!」  のだめは、すちゃっと敬礼ポーズをとって真剣な表情でお願いをすると、久しぶりに晴れやかな笑顔を浮かべた。  一.旺角・下午  翌日、遅いブランチを取り、北京から空路香港へ。  数年前までは、仕事もプライベートもママがベッタリで、身の回りのことなど一人ではできなかったのではないかと思われたRuiが、のだめのパリ行きのチケットのキャンセルから、香港行きのチケット、滞在先の手配まで、すべて面倒をみてくれた。  「Rui、助かりました。すっかり大人な女デスね」  「あはは、香港にハマってからダヨ。行きたいっていう気持ちが強くなると自然と出来るようになるもんダネ」  三時間半で香港に到着。広大だが機能的な空港で、スムーズに到着ロビーへたどり着く。  「これからどうするんデスか?」  「まずはホテルにチェックインするヨ。  今回のホテルは私も初めてのところだから、ちょっと楽しみ」  音楽業界では若いころからスターであったRuiも、香港に入った途端、一般の若い女性のツーリストとして楽しむようにしているのだという。  「移動もね、できるだけ公共の交通機関を利用するんダヨ。そのほうが香港人っぽいでショ?」  香港国際空港の到着ロビーを出ると、目の前に直結してエアポートエクスプレスのプラットホームがある。  「ノダメサン、ここで八達通《バッタットン》を買うネ?」  八達通、別名オクトパスカードは、日本で言うところの Suica とか PASMO と同じ、ICカードらしい。  「これがあれば、 MTR もトラムもフェリーもバスも、香港の公共交通機関の乗り物ほとんどの清算ができるし、コンビニでも使えて便利なんダヨ」  八達通を使えば、通常料金より割引もあるらしい。Ruiに勧められるまま購入。  「チャージもしておくヨ。これは私からおごりネ。」  モダンでシンプルなデザインの車両が静かに到着して、二人は乗り込んだ。  「今回は九龍の旺角に泊まるから、九龍《ガウロン》駅まで行って、ホテルまでタクシーに乗るヨ」  「がうろん?」  「うん。九龍は大陸と陸続きの半島。どちらかというと香港の下町かな?  九龍とヴィクトリア湾をはさんで向かい側に位置するのが香港島。こちらがどちらかといえば山の手。実際、街中は坂が多くて、山登りしているみたいなんだヨネ。  あとは、空港のあるランタオ島。香港ディズニーランドがあったり、リゾート地っぽいかな。そのほかにも小さな離島がいっぱいあって香港って島国なんだヨ」  なるほど、いわれてみれば、空港を出てからの車窓の眺めは、しばらく薄いエメラルドグリーンの海が続く。漁船が浮かんでいたり、リゾート地というより素朴な印象だ。  のだめの乏しい香港への知識というかイメージでは、百万ドルの夜景などと言われた、高層ビルが建ち並ぶ景色や、色とりどりのネオンに装飾された大小さまざまの大きさの看板が大通りにずらっと並ぶ景色など、新宿の超高層や歌舞伎町のような派手な夜の街といったものしかなかった。  「ちょっと楽しみになってきまシタね」  のだめは久しぶりに音楽やパリ、遠く離れた恋人のことも忘れ、新しく訪れた街に期待を膨らませた。 ------------------------------  エアポートエクスプレスを九龍駅で下車。ここは空港に向うエアポートエクスプレスのほか、香港の中心部を走る MTR も乗り入れている。  街中で搭乗手続きが行える、インタウン・チェックインの機能も持ち、巨大ショッピングモールも併設した巨大な駅だ。  「ここからホテルまではタクシーですぐダヨ」  タクシーに乗り込む。真っ赤なボディーがかわいい。的士≠ニかかれており、これは taxi の英語読みをそのまま漢字にあてたもの。覚えやすいかも。  タクシーで二十分程度に乗っていただろうか。到着したランガムプレイス−モンコックホンコンは、香港の九龍にある『旺角《モンコク》』という賑やかな下町に建つ四十二階建ての高層ホテル。  ここが香港での宿泊先。庶民的な街並みにガラスを全面に使用したピカピカかの高層ビルの対比が面白い。   MTR の駅から直結したショッピングモールやシネコンとつながっているものの、ホテルの内部に一歩足を踏み込めば、外の喧騒が嘘のように静かで、優雅な雰囲気に驚かされる。  「ほわぉー。素敵デス……」  フロントでチェックインをし、ベルボーイに案内され、客室にむかうエレベーターに乗り込む。とても静かだ。  「なんか、意外でしたヨ」  「ん? 何が?」  「香港デス。北京もそうでしたが、とってもモダンで機能的で……。もっとごちゃごちゃっと騒がしいイメージだったカラ」  「あはは! そうだねぇ。いままでのところはそうかもネ。でも、ノダメサンの香港に対するイメージ、ある意味間違ってないと思うヨ。これから行くところは、まさにそんな所だからネ」  Ruiは大切な宝物をみせびらかす子供のように楽しそうだ。  対してのだめは、先の読めないゲームに巻き込まれたような。Ruiは何を考えてるんでショウ?  とにかく楽しんだもの勝ちデスかね? ------------------------------  高層階のエグゼクティブルームへ。  「いつもは、ほとんど街の中にいて、部屋には寝に帰るだけだからあんまりホテルの部屋のグレードにはこだわらないんだけど、今回は香港バージンのノダメサンが一緒だからね、景色の綺麗な部屋にしてもらったヨ」  シックで落ち着いた室内。部屋の壁一面を占める窓から広がる景色はヴィクトリア湾をはさんで百八十度広がる、香港島の高層ビル群。  「夜景がとっても綺麗ダヨ〜。でも、街で美味しいもの食べたり、遊び回って帰ると、いつも夜景なんかどうでもよくなっちゃうんだけどネ」  「美味しいものといえば、のだめ、お腹すきまシタ……」  なにを食べさせてくれるんデスか?  今だに普段はすっぴんで貫いているのだめには、化粧直しも必要なくすでに出かける準備万端。  「今日はちょっと街中から離れて、美味しい海鮮を食べるヨ」  「ムッキャー! 海鮮デスか?! 街中から離れるって、いきなり離島とか?」  「うーん、離島の海鮮も美味しいんだけど、今日はそんなに時間ないから、もうちょっと近場でネ」  二.小巴  ホテルの外に出ると、いきなりムワッと強烈な湿気に包まれる。  続いて、なんともいえない複雑な匂いと、しばらく遅れてざわついた街の喧騒がのだめの耳に届き、やっと見知らぬ街に立っている実感が沸く。  街の中は、沢山の人が行き交い、Ruiを見失わないようについて行くのが精一杯。  「これから小巴に乗るヨ」  「しうば?」  ごちゃごちゃとした通り沿いに、ひっそりと小さめ目のバスストップ。  クリーム色のボディに赤い屋根の、二十人乗れるかどうかの小さなバスが止まっている。  バスの前方、屋根の上には、漢字で書かれた目的地が表示されている。  ドライバーは、かなりくだけた服装で、日本でいうところの白タクなんでは? と疑ってしまうような怪しい雰囲気。  Ruiは慣れたようすで『西貢《サイクン》』と行き先の表記されているミニバスに乗り込む。  続いてのだめも乗り込むと、ほかの乗客たちは、学生風の若いカップルだったり、勤め人風であったり、普通の雰囲気だったので少しほっとする。  「小巴はね、走る区間だけが決まっていて、その区間内であれば、乗客は好きなところで声を掛けて降ろしてもらえるんダヨ。  でも、停車禁止のエリアなんかもあるから、そんなところで声をかけると怒られちゃったりするんだけどネ」  「ふぉぉ」  「英語はほぼ通じないからね。広東語がまるっきりできないと厳しいカナ?」  「え? ダイジョブなんデスか?」  「ああ、これから行きたいところは終点だから、このまま黙って乗ってても無問題ダヨ。  別にタクシーで行ってもよかったんだけど、少しでもノダメサンにローカルな香港に触れてもらいたいと思って。」  「そだったんデスか。アリガトゴザイマス」  ミニバスが多少荒っぽい運転で走り出す。  途端に映画やTVで見かけたことのある、通りに張り出した大きな看板が並ぶ景色が続く。  「ふぉぉぉ! ホンコンって感じデスね〜!」  車窓からの街並みに子供のように夢中になっているのだめを、Ruiは穏やかな笑顔でみつめる。  「ところで……、質問があるのデスが」  「ん?」  「えと……、Ruiはどうしてのだめの事を誘ってくれたのかなぁと思って。  どうしてデスか?」  「ノダメサンは、どうしてついて来ることにしたの?」  「え?」  それは……。一人でパリに戻るより、面白そうカナと思って……。  ていうか、どうしてのだめが質問したのにのだめが答えてるんデスかね?  のだめは目線を膝の上に組んだ手に落としたまま、ブツブツと呟く。  「私も同じダヨ。一人より、ノダメサンと二人のほうが面白いかと思ったから。食事も、いっぱい食べる人と一緒のほうが、いろいろ味わえて楽しいからネ!」  Ruiはにこやかにのだめをみつめて答える。  「それに……、そのうちノダメサンには、お礼がしたいと思ってたんだよネ」  「お礼デスか? のだめにはRuiに恩返しされるような心当たりはないのデスが……」  Ruiって鶴だったとか? のだめ、鶴助けましたカネ? ご馳走食べに連れてってくれるってことは浦島太郎? 亀? などとブツブツ呟きながら頭をひねるのだめ。  「まぁ、先も長いことだし、これから少しずつネタばらしするよヨ。  たまには女二人、ピアニスト同士で語り合うのも、いいもんデショ?」  むむ、なんか余裕デスね?  Ruiってば少しキャラ変わったような…。でも、もしかして、オールRuiのおごりツアーですか?  のだめはRuiの思わせぶりな発言になんだかすっきりしないが、とにかく美味しいものをお腹いっぱい食べてやろうと気持ちを切り替えることにする。  ミニバスは、賑やかな街中から、こじんまりとしたローカルなエリアに進む。  途中、乗客がドライバーに声を掛け降りて行ったり、道端で合図する乗客をピックアップしたりする。聞き慣れない広東語の響きがのだめには新鮮で面白い。  「Ruiは中国語は話せるンデスか?」  「普通語っていう北京で使う言葉はネ。でも、香港で使う広東語はまた別の言葉だから。広東語はちょっとした日常会話だけネ」  話せたほうが便利だから、マスターしたいんだけどネ。ノダメサン、興味あるの? と聞かれるが、まだ、香港に初めて来て半日も経っていないからなんと答えていいかわからない。微妙なほほえみを浮かべてごまかす。 ------------------------------  街が夕闇に包まれる頃、目的地に到着したようだ。  バスから降りると、潮のかおりがする。  海沿いに少し歩くと、『海鮮街』と書かれた中華風ゲートが現れた。  その先には、人波が見える。  「さ、ノダメサン、食べたいもの、好きなだけ選んでネ」  「むっきゃー!」  のだめは思わず歓声をあげた。  人波の先には、何軒かのレストランが連なり、店先にはいっぱいに大中小の水槽が並べられている。  さまざまな海鮮食材が足元から頭上までのたくさんの水槽の中にひしめき、網をもった店員が、客のリクエストに応じて素材をすくっては目の前に差し出す。  店員は上から下までの水槽をカバーするため、水槽の縁を、とんとんとんっ! と階段を上り下りするかのごとく、器用にバランスよく渡り歩く。  初めて見た者は、曲芸を見せられているように、思わず興奮してしまう光景である。  「な、なんなんデスか?! この光景は……」  「まずここで、食材を選んで、調理法を指定するんダヨ」  「デ、デモ、のだめ、蝦くらいしかわかりマセンよ?」  ぎゃぼっ! あれ、恐ろしいほどでかいけど、カブトガニでは……。なんデスカ? あの腐ったにょろにょろみたいなのは……マテガイ?  「あははは! そうだねぇ、魚も貝も、日本のものとも、パリのものとも見た目が違うかもネ」  うーん、じゃあオススメで私が選んじゃっていいかな? ノダメサン、食べられないものアル?食材は私が選ぶから、ノダメサンは水槽の中から美味しそうなヤツ、選んでヨ?  そう言って、Ruiは店員に食材を指定する。店員が食材の水槽めがけ、とんとんとんっ! と水槽を渡り歩くと、どれにするんだとニヤッとのだめに笑いかける。  のだめは恐る恐る水槽を覗き込むと、身振り手振りで、大きくて活きの良さそうなものを選んでいった。 ------------------------------  「むんっ! のだめ、ガンバリマシタ!」  食材を選び終わると、涼しげなアウトサイドの席に通される。  「あははは! 十人分くらいできそうだって、本当にお前たちだけで食べられるのか? って、驚かれタヨ」  「どんとこいデスヨ。のだめにまかせてくだサイ!」  「ワタシだって負けないヨ!」  二人は一仕事終えた気持ち良い充実感に、笑顔で乾杯をする。のだめには珍しく、南国ならではのライトなビールを、Ruiに勧められて飲んでみることにした。  「「ぷはぁ〜! おいし〜いっ!」」  思わず揃った感嘆に、顔を見合わせて笑い声をあげた。  「Rui、ありがとデス」  「え? なにが?」  「香港行きに誘ってくれて。すっごく楽しいデス!」  「まだまだ〜。お料理だって食べてないし、本当のお楽しみはこれからダヨ」  Ruiはそういって微笑むと、グラスのビールを呷る。  「何となくネ、必要だとおもったんダヨ、ノダメサンにも」  「?」  「息抜きというか、変化かな。ピアノを弾くことに関係しないところでネ」  だから、香港着いてからは、息つく暇もなく引きずり回しちゃったんだけど、かえってよかったデショ?  Ruiはテーブルにのせた両手に頬杖をつき、首を傾げるとウィンクをおくる。  いつかどこかで見たようなポーズだ。  「ど、どしてそうおもったんデスカ?」  「うーん、ノダメサン、千秋のこと聞いたとき、少し淋しそうだったし」  「……」  「と、とにかく! 美味しいモノいっぱい食べて、楽しもうヨ! ネ!」  そう言うと、Ruiはちょっと失礼? おトイレ行ってくるヨと言い残し、席を立ってしまった。  のだめは手持ち無沙汰に一人テーブルに取り残される。  「ふぅぅ〜」  一つため息をつくと、頬杖をついて辺りを見回す。  遠くに埠頭だろうか、何隻か小ぶりな漁船が停泊しているのが見える。  わずかな潮風が心地よい。  一人まったりしていたところに、突然一人の店員が現れ、なにやら広東語で話しかけている。  「ぎゃぼっ! まずいデス、何を言われているのかワカリマセン……」  思わず浮かべる、良妻スマイル。店員もつられるように苦笑い。  話しかけても無駄だと諦め、店の中へと戻っていく。  「ふぃー。助かりマシタ。でも思い出しますね、パリ初上陸の夜……」  千秋と二人渡仏した夜、ヴィエラのオペラを鑑賞した後、千秋に連れられて訪れたレストランで、のだめは言葉もわからず、エスカルゴを山のように注文したことを思い出す。  「真一くん、今ごろ何してますカネ?」  三.西貢  「ぎゃぼっ! なんデスか? この大量に山と詰まれた茹で蝦わ……」  テーブルにRuiが戻ってきたのと同時に、一品目が運ばれてきた。  ただ、シンプルに茹でられただけの蝦。しかも山のように盛り上げられていて、のだめは先ほどの店員にわけのわからない広東語を投げかけられ、何もいえなかったことを思い出し、やはりパリ上陸初夜、エスカルゴ大量注文の二の舞?! と落ち込む。  「まぁまぁ、ノダメサン。見た目は置いておいて、まず食べてみてヨ」  小皿に注がれたタレにつけて、皮をむいて食べるRuiにならって、のだめも蝦をいただく。  「むっきゃぁぁぁぁぁ!」  なんデス? この旨み、甘み、どこからやってきたんデスか?! はぅん、もうのだめめろめろデス。  蝦というのはやはり、やめられない、とまらない、がお約束なのでショウか? 全部食べちゃってもいいデスか?  「あはははっ! さすがノダメサンだね。まだまだおいしいモノがたくさんくるけど、大丈夫だったら食べちゃってもイイヨ?」  「はぅっ! アリガトデス。のだめの腹は底ナシなので、どうぞお気遣いなく……」  そういい残し、夢中で蝦をむさぼる。  「おいしいデショ? 白灼蝦《ばくちょっは》っていうの。  新鮮な蝦を、さっと、半生に近いようなぷりぷり状態を残しつつ、うまく茹でてあるのが、いつも感激するんだヨネ。  シンプルだけど、究極のおいしさだヨネ」  そんなRuiからもたらされるウンチクなどお構いなしで、のだめは山盛りの蝦を完食した。  そのあとも、石斑魚《せきはんゆ》とよばれる日本でいうところのハタが丸ごと蒸しあげられたものや、巨大な蝦蛄を丸揚げし、ニンニクや胡椒などでスパイシー味付けられたもの、ロブスターのチーズソースがけ、贅沢に蟹と蟹ミソが使われた炒飯など、どれもおいしい海鮮に奇声を上げながら頂き、大満足なのだめであった。  店を出て、夜の海風にあたりながら、ふらふらと歩くと、今度はスイーツを食べると言い出すRui。  「もう二十一時すぎデスヨ? スイーツ屋さんなんてやってるんデスか?」  「ノダメサン、香港人にとって、二十一時なんてまだ宵の口ダヨ? これからご飯食べに出かけようかって人たちだって少なくないし。まあ、店にいけばわかるヨ」  連れて行かれた『満記《むんげい》』というお店は、香港にあるスイーツの有名なチェーン店の本店らしい。  言われたとおり、二十一時過ぎだというのに、お店の中は若い女性たちで満席状態。少し待って、席に通される。  「インテリアもかわいいデスネ。海鮮街のイメージと違う」  「ここはまず、絶対に抑えないといけないスイーツがあるんダヨ。まずはそれを食べてから、あとは好きなモノを注文してヨ」  そういって自信満々にRuiが注文したスイーツが運ばれてきた。  「がぼん……」  マンゴーパンケーキ? パンケーキというより……。なんだか、色が。これ自然な色なんですかね?  ありえないくらいまっ黄色のクレープのような皮。茶巾のように何かが包まれている。 あまり食欲をそそる見た目ではないような……。  「ドウゾ? 食べてみてヨ」  結構な大きさで、一口でかじりつくのも恐かったので、まずはフォークで真ん中から割ってみる。  「ほわぉ……」  半分に切ったブツからは、黄色いクレープの皮に包まれた、大きなマンゴーと真っ白な生クリームが見える。色彩のコントラストが美しい。  「いただきマス……」  おそるおそる、口に入れてみると……。  「むっきゃぁぁーーーーー!」  しっとりとしたクレープ生地に包まれた、ふわっふわの生クリームがまず口の中で主張する。甘すぎない、ほどよい甘さと舌にやさしく絡みつく濃密さ。  その後に訪れるのは、マンゴーのほどよい甘酸っぱさ。口の中はもう、マンゴーのよい香りいっぱいのおいしい果汁と果肉でいっぱい。  のだめはフォークを握り締めたまま、両手を胸の前で絞るようにして、身をくねらせ、うっとり。  「お、おいひぃ〜!」  「デショウ?」  Ruiは、とても得意げな笑顔を浮かべ、マンゴーパンケーキを頬張った。 ------------------------------  マンゴーパンケーキのほか、楊枝甘露やら湯丸という白玉団子のようなもちもちのお餅やら、どれも美味しいスイーツに別腹も満足して西貢を後にする。  タクシーを拾って、のんびりと帰ることにした。  香港に到着してから、ひとつところに留まることなく移動し続けて、さすがに疲れマシタ。  タクシーのシートに身体を預け、ぼんやりと車窓から流れていく街並みを眺める。  「美味しいモノ、いっぱいデシタ。Ruiの言ったとおりでシタね?」  「デショ? でもまだまだダヨ〜! おなかの調子は大丈夫?」  「無問題デスよ!」  のだめは、早速おぼえた広東語で答え、Ruiは楽しそうにくすくすと笑った。  「ところで、ノダメサンはパリにずっと暮らすことにしたの?」  「え?」  「学校も卒業して、パリにいる必要はないと思うけど、まだパリにいるんだヨネ?」  『パリにいる必要はないと思うけど』というRuiの言葉にドキリとした。  三年間、パリのコンセルヴァトワールで学んで、途中いろいろあったけど無事に卒業した。卒業後もピアニストとして順調に演奏活動ができる。日本でのソロコンサートも行うことができたし、世界中のオケからもオファーがある。  たしかにパリ以外に拠点を置いてもおかしくない状況ではある。  パリには三年という長い時間を過ごした楽しい思い出と、そこで出会った大切な友人たち、そして自分を導いてくれる師匠がいる。  でも、自分がパリに残っているのは、それが理由ではない。  千秋がいるから。  千秋は今もパリのマルレオケの常任指揮者であり、拠点はパリになる。  自分はピアニストだから、一つの場所に縛られることはない。だからこそ、恋人の暮らす街に一緒にいることができるのだ。  「千秋がいるから?」  黙り込んだまま、考え込んでいるのだめに、Ruiが沈黙を破るように訊ねる。  考えていたことを、そのまま言い当てられ、のだめは言葉が出ない。  「そうだよネ。ピアニストだったら、暮らす場所は縛られないし、パートナーがいるところについて行けばいいよネ」  羨ましいナァ。早く私もノダメサンと千秋みたいな、仕事もプライベートも最高のパートナーが欲しいヨ! 無邪気にRuiが言う。  「でも……、千秋先輩、パリにいまセンよ?」  「え?」  「もう半年くらい、パリで千秋先輩に会ってません。たまに戻ってくるけど、短い期間だけだし、のだめが仕事で留守のときだったり、行き違いばかりで……」  「ま、まぁ、そういう時もあるよネ。お互い音楽家なんだから、一つ場所に留まっていられない仕事っていうか……」  「のだめは千秋先輩がいるから、パリにいるんです。でも、そのパリには千秋先輩がいなくて……。のだめの居場所って、一体どこなんでショウ?」  タクシーで戻ってきた旺角の街は、二十四時すぎているというのに夕方のラッシュのようにたくさんの人たちが行き交っていた。香港人って、いつ寝るんデスかね?  のだめは純粋な大和撫子ですカラ。夜更かしも限界デス。おやすみなサイ。  Ruiとのあいさつもそこそこに部屋に戻って、ベッドにダイブした。 ------------------------------  目を覚ますと朝の八時。  疲れているはずなのに、一度目が覚めると、眠りの世界に戻ることができなくなった。  昨夜、ホテルに戻るタクシーの中でのRuiとの会話がよみがえる。ふと、真一の声が聞きたくなった。  今、真一がどこにいるのか、目覚めたばかりの鈍い脳で考えても思い出せないし、スケジュールを書き込んだ手帳を探すのも面倒くさい。  北米のどこかなのだから、時差は十二時間から十四時間くらいだろうと想像する。上手くいけば、仕事が終わって部屋に戻ってきている時間かもしれない。  いろいろと思い巡らせているのも面倒になった。繋がらなければ繋がらなかったでいいじゃないか? なぜだか、香港という初めての土地にいることがのだめをいつもより大胆にさせている気がする。  携帯を取り出し、メモリーから真一の番号を呼び出し、発信ボタンを押す。  「もしもし? 千秋先輩?」  四.Miami  「何故に海……」  千秋真一は、コーディネーターに連れられ、マイアミのビーチにいた。  なんだこれ? おもいっきり既視感。  ブラジルのビーチをあの時の焦りとともに思い出し、青ざめる顔、額には嫌な汗が浮かぶ。  最近、いろいろな事を思い出す。  一年前、常任としてのマルレの仕事以外は、無期限でヴィエラのもとで勉強をしたいと宣言。  エリーゼとそれこそ命がけの交渉をして、掴み取ったのはほぼオフの存在しない生活。(結局全敗)  パリで常任の仕事が終わるとイタリアのヴィエラの元へ行ってはオペラの勉強。ヴィエラの仕事がオフになると同時に、ヨーロッパ、北米、アジアと文字通り世界各地に客演へ出かける日々。  のだめとは半年前、マルレの定期公演のためにパリに帰った際、一緒に過ごしたのが最後だ。  追いかけられていたはずが、いつしか追いつかれ、気づいた時には軽く手の届かないところまで追い越されていた。  「俺がウサギで、アイツが亀?」  最近、無意識に語尾が疑問形の独り言を発している。  のだめがシュトレーゼマンと衝撃のデビューをし、その後いなくなってしまった時、自分の将来にはのだめが必要だと思い知らされたし、それ以外の選択肢などありえないのだし、だからこそ一年前に決意した際、『約束』という言葉を口にしたわけで。  だからといって世界の NODAME になったアイツと、今はのんびりと甘い恋人の時間を過ごす気分にはなれない。がむしゃらに音楽に没頭するしかないと焦る。  「また見失ってるか? 俺……」 ------------------------------  やっとホテルの部屋にたどり着き、不快な潮の感触をシャワーで洗い流し、腰にバスタオルを巻いただけでベッドに横たわる。ライトなビールを一気に飲み干すと、携帯が着信を知らせてブルブルと震えた。  「……おぅ、久しぶり」  想い人からの着信。  疲れた身体に一気に入ったアルコールのおかげもあって、想いはあふれてこぼれそうになる。  「千秋先輩、今どこデスか?」  相変わらずの、舌足らずな甘い声に、敏感な指揮者の耳が、感じて、身体が微かに震える。  「さっきマイアミに着いて、やっとホテルで一息ついたとこ」  「むきゃ?! マイアミですか?」  オイ。カノジョのくせに、同じ音楽家のくせに、カレシのスケジュールも把握してないのかよ……。  あぁ? CSI? ホレイショ・ケインって誰だよ!  「お前は? 音楽祭、どうだった? もうパリに帰ってるのか?」  「えと……。なかなか刺激的デシタ。お客さんもすごく盛り上がって……。とっても楽しかったデス」  「ふぅーん」  コイツの生のピアノも、だいぶ聞いてないな……。  「なぁ……、今、部屋にいンの?」  「……のだめ……。部屋……に、いるンですカネ?」  「……はぁ?」  「えとデスネ……、部屋にいることはいるんですが……、部屋は部屋でも、部屋違いというか……」  「はぁ? 何いってんのか相変わらずわかんねーな。ていうか、ちょっとピアノ聞かせてほしかっただけなんだけど……」  いつも自分を救ってくれる、のだめの魔法の鈴の音。  なぁ、ダメ?    真一は、のだめの好きな、低くて、微かに掠れた声で囁く。  「はぅん……。シンイチくんからのカワイイおねだりには、出来ればお応えしたいのデスガ……、何しろこの部屋にはピアノがないデスし」  ゴメンナサイ、と呟く声に、自分を上目遣いで見つめる、大きく揺れるのだめの綺麗な瞳が脳裏に浮かぶ。ヤメテクレ。  「……お前いまどこにいるンだよ?」  できることなら、今すぐこの腕に抱きしめたい。  「せんぱ……のだめ、今どこにいるンでショウ? のだめの居場所ってどこですカネ……」  のだめが消え入りそうなか細い声で呟く。  「オイ……。いい加減にしろよ?」  時折のだめが見せる、儚い、放っておけなくなる、決して打ち勝つことのできない、真一だけに絶対的な存在感を訴える感覚。  マジで迷子とかじゃねーよな? と不安に胸が押しつぶされそうになる。頼むから、また俺の前から消えたりしないでくれよ。  そんな真一のイラつきと焦りが伝わったのか、のだめが声を絞り出して、答える。  「えと……、ホンコン?」  「……はぁぁぁ?! ホ、ホンコンって、それ、国の名前言ってンのか? どこのホンコンの事だよ!」  「はぅっ! 伝わらナイ? のだめ、またなんか間違ってますカネ?  つまりその……東洋の真珠と呼ばれていて、カンフーアクションといえば世間的には李小龍《ブルース・リー》デスけど、のだめ的にはデブゴンこと洪金寳《サモ・ハン・キンポー》で……」  やっぱり、あの身体であのキレはただ者ではないというか、天下一武道会でも大活躍間違いナシですヨネ?  「……国なんだな?」  「えぇ? 国っていうか、香港特別行政地区っていうらしいデスよ?」  「いっぺん死ね!」  前言撤回。今すぐこの手で首を絞めたい。  「音楽祭でRuiと一緒になって……。予定がないなら、遊びにいかないかって誘われたんデス」  「Rui……。オマエらそんなに仲よかったか?」  「……イイエ?」  うっ……。やっぱり変態の行動は理解不能だ。  「Ruiと二人で香港なんか行って、何してんだよ?」  「ゲハ。それがですねぇ、昨日の午後着いたばかりなんデスが、郊外の海鮮街に連れていってもらって、それはそれは美味しいモノをお腹いっぱい食べさせてもらいマシタ!  近くにある有名なスイーツのお店にも連れていってもらって、のだめ、あんなに美味しいマンゴーを食べたの、生まれて初めてデスよ〜!」  今まで食べてたマンゴーってなんだったんですカネ? バッタモン? 今日もこれからいろいろと美味しいもの食べに連れていってもらえるみたいデスよ?  「なんだよそれ。ピアニスト二人で食べ歩きかよ」  「なんだかRuiが言うにはお礼なんだそうデス。  でも、すんごく楽しいデスよ?」  先輩、のだめこれから一ヶ月ほどのオフ、楽しむことにしました、と、のだめがぽつりと呟く。  「あ……、それもいいンじゃねーか、たまには。このところ忙しかったし、大きな仕事も多かったしな」  自分は三日後にマイアミで公演本番、そのあとはヒューストンに移動してまた五日間、そのあとは……。  移動と移動、仕事の合間ちょっとでもいい、時間あったら逢いに来い……。  伝えたい言葉は、気持ちは、今は素直に言葉にすることができない。  「先輩は? 順調デスか? マイアミってビーチの近くなんじゃ……」  ぎゃぼっ! やっぱり海恐怖症も妻の愛タプリな催眠療法で治しておいたほうが…。  夫の真一クンには、世界のマエストロとして七つの海をまたにかけて活躍していただくわけですカラ!  「誰が夫だ。大丈夫だから。  移動にも、だいぶ慣れたし」  久しぶりのボケに定番のツッコミをいれ、こぼれそうな気持ちになんとか蓋をした。  「ほら、俺あした朝早いし、もう寝るぞ」  「ぎゃぼっ! そっちは今何時デスか?」  「もうすぐ二十三時になる」  「はぅぅ、ゴメンナサイ」  「いいけど。あんまり食べすぎンなよ?」  「了解デス!」  「じゃあ、Ruiにもよろしく」  「はいっ。先輩も公演、頑張ってくだサイね!」  「うん、サンキュ」  携帯を切り、ベッドの上で横になったまま伸びをする。  「……逢いてーなぁ……」  さっきまで携帯から聞こえていた、のだめの甘い声に抱かれたまま、千秋はそのまま目を閉じ眠りについた。 五.中環  「真一クン、少し疲れてたみたいデスね……」  のだめは、真一との通話を終わらせ携帯をベッドサイドに置くと、さっとシャワーを浴びるためバスルームに向う。  徐々に覚醒する脳内。  なぜ自分は真一の声が聞きたくなったのか? 電話をして何を確認したかったのか? 自分の居場所はどこなのか?  もやもやは解消されるどころか、のだめの胸に広がり、その濃度を深めてしまった気がする。  バスルームを出て、身支度をしていると、Ruiが部屋まで迎えに来た。  「ノダメサン、おはよう! きょうの調子はどう?」  「バッチリですヨ。今日は何を食べさせてくれるんデスか? のだめ、もうお腹ぺこぺこデス」  「あははは! さすがノダメサンだネ。  今日は香港島に渡るヨ。フェリーにのることもできるけど、ノダメサンのお腹の減り具合だと、最短ルートで行ったほうがよさそうだネ」  「はい。のだめもう限界が近いデス」  あははは! じゃあ、急がないとネ。Ruiは笑って、のだめの背中を押し、二人は部屋を出た。 ------------------------------  ホテルと接続した駅のモールから地下へ降り、 MTR に乗る。早速、昨日空港で購入した八達通を使う。  日本の自動改札と方法は同じだが、一つ一つの改札が狭く、回転式のバーが行く手を阻んでいるタイプが多い。  八達通を改札にかざし、腰でグイっとバーを回転させて通る。  ホームに下りると、広東語の洪水だった。   MTR を待つ人、携帯で会話する人、ホームのアナウンス。ホームから線路側に向かって立つと、向かい側には広告動画が流れるモニターが並んでいる。   MTR がすぐにホームに滑り込んできた。  ぴかぴかのステンレスカラーのボディーに、バーやつり革に赤のアクセントがかわいい。シートもステンレスでツルツルだ。  ドアの上部には、香港中心部を走る MTR の路線図があり、乗っている MTR が現在走っているところ、停車しているところが、ライトが点灯することにより分かるようになっている。  車内に目を移せば、広東語でおしゃべりを楽しむ人たち、携帯プレイヤーで音楽を聴く人、携帯を操作している人などは日本と同じだが、堂々と携帯で会話する人が多く、驚く。  「ぎゃぼっ! 車内で携帯使用、オッケーなんデスか?」  「あー、香港人って日本人以上に携帯ダイスキな人たちなんだよね。完全に依存症?  まぁ、広東語が話し言葉だから、メールするより会話しちゃいたいってところもあるんだろうけど。オッケーな訳ではないんだけどね、悪いと思っている人が少ないというか……」  映画見てても、ガンガン携帯鳴ったりして、ビックリするヨ! とRui。それはすごいですね……。  中環《セントラル》という駅で降りる。地上に出るとすっごい人です!  昨夜、旺角に帰ってきて見た二十四時の人ごみもすごいと思ったケド、そんなものじゃないデスね。さすが、世界トップクラスの人口密度デス。  通りには、狭い歩道を行き交う人々、車道にはバスや車はもちろん、車道の真ん中には、ん? 路面電車?  「むきゃっ!二階建ての路面電車、可愛いデス!」  「あ、 dingding ネ。ちょうどきたところだから、ちょっとだけど乗っちゃおう!」  「あ、Rui、待ってくだサイ!」  ちょうど目の前に停車した路面電車『トラム』に乗り込む。 MTR の改札同様、回転式のバーを腰でグイっと押して乗り込む。慣れてきまシタね。ふんふん。  「八達通はピッ! しなくていいんデスか?」  「うん。 dingding は一律料金だから、降りるときに清算するだけだヨ」  Ruiに促され、入り口付近の狭いらせん状の階段で二階席に上がる。  「むっきゃー! 視界が高いデス。楽しいデスね〜」  窓際の席をゲットして、窓を開けて身を乗り出す。  「あははは! ノダメサン、落っこちないように気をつけてネ」  「ところで、どしてRuiは dingding って言ったんですか? この乗り物のコト」  「この路面電車、トラムっていうんだけど、香港人はみんな dingding って呼ぶんだヨ。ほら、今から停車するから、音を聞いてて」  トラムが停車する。  dingding  「あ! 今、 ディンディンッ! って鳴きまシタ!」  「あははは! 鳴いたって、可愛い表現だネ。ね、この音がするから、 dingding って呼ばれてるらしいヨ?」  「なんだか愛着が沸いて、可愛いデス」  素朴で古めかしい車両のつくりも、ガタガタとのんびり進む速度も、ノスタルジーを感じる。  車窓から見える景色は、香港のビジネスの中心街を主張する、超高層のぴかぴかの建物ばかりなのに、不思議な感覚。  「さ、ノダメサン、美味しいモノ食べに行こうよ!」   dingding を降り少し歩いたところ、通り沿いに面した店は狭い入り口が開放され、入り口脇には腰から上がガラス張りで調理場が覗けるようになっており、大鍋で煮込まれているスープが見える。  狭い店内に通されると、濃厚なスープの匂いに空腹な胃を強烈に刺激された。  「む〜ん……、ステキな匂いデス。何のお店なんデスか?」  周囲のテーブルに目を移せば、麺類のどんぶりのような入れ物が並んでいる。  ん?お皿に乗せられたあのうまい棒≠フようなブツはなんでショウ?  「うん、この店はネ、お粥の専門店なんだヨ」  「お、お粥デスか…?  あのぅ、誠に申しあげにくいのデスが、のだめはとってもお腹が空いているのデス。  そんな精進料理のような、さっぱりとした味もそっけもない代物では、こののだめの底ナシの胃は満たされないというか……」  「あははは! まぁ、ノダメサンが心配する気持ちもわかるけど、このお粥を食べたら、ノダメサンのお粥に対する概念が覆ると思うヨ。騙されたと思って食べてみてヨ。」  テーブルには、漢字で書かれたメニューのようなものがガラスの天板の下に敷かれている。牛とか魚とかは読めますケド、ぎゃぼん、この猪っていうのは、あの猪突猛進なヤツのことですカネ?  「はぅぅ、のだめは何をどしたらいいのか、わかりマセン」  「任せてもらっていいよネ!」  任せるも何も、自分ではどれを選んでいいのか皆目わからないのだから、 Rui に委ねるしかない。  悪いようにはしないからって、はぅっ! 恐ろしいデスね、何食べさせられるんでショウ?  待つこと数分、中くらいの大きさのどんぶりに、なみなみとお粥らしきものが注がれている。  二つのどんぶりには違う具がのっているようだ。  そして、小ぶりのお皿に山のように詰まれたうまい棒のようなブツ。他のテーブルにもちらほらのせてあるものだ。  「とりあえず、ピータンと豚のレバーの二種類を選んでみたヨ。どっちも私がダイスキでオススメのヤツだから、間違いないと思うヨ?」  「あのぅ、そのうまい棒のようなブツは?」  「うまい棒って何? まぁいっか、ヤウティウのコトだね。あげパンみたいなものダヨ。そのまま食べても美味しいし、お粥につけて食べても、ちぎって混ぜる人もいるネ」  まぁ、まずお粥を一口食べてみたら? とRuiに促され、レンゲですくって口に運ぶ。  「むっきゃぁぁぁぁーーー!」  なんデスか? この濃厚な出汁。すきっ腹にも優しい、けどしっかりしたお味。  これがお粥なんデスか? じゃあ、風邪ひいたときに食べてるあれ、あれはなんだったんデスかね?  お口の中がレボリューションですヨ!  豚のレバーだといわれたものも、いわゆる腎臓と肝臓の二種類の肉が入っているようだ。 店のおばちゃんに、肉はタレにつけて食べろといわれる。  「むぅ〜ん、美味しいでしゅ。幸せぇ〜あへぇ〜」  朝からあまりの美味しさに脳がとろけそうデス。  Ruiが食べているピータンも頂いて、おいひ〜い! こっちもいけマスね?  のだめ、あっという間に完食しまシタ。おかわりしたいデス!  「ほ、ほんとに? じゃあ、違う味にスル?」  ちょっと引き気味のRuiに、うまい棒(ヤウティウ)をガツガツかじりながらうなずく。これもなかなか、ジャンクなおやつ感覚でいいっすネ。あ、具はRuiにお任せしマスよ?  うまい棒を平らげ、おかわりに出てきたのは牛筋肉を揚げた具の乗せられたお粥。おいしいっ!  中くらいのどんぶり二杯を平らげ、食いしん坊の香港人のおばちゃんたちにも驚かれマシタ。ゲハ。  店を出て、腹ごなしに歩く。  「ノダメサン、ちょっとお願いがあるんだよネ?」  「なんデスか?」  「今日、香港島に来たのは、さっきのお粥とか、お昼の飲茶とかもあるんだけど、お昼まで時間があるじゃない? 買い物したいんだけど……」  付き合ってもらえるかナ? ね、いいよネ?  絡めた両手をあごにあて、ウィンクをする。Ruiおねだりのお決まりのポーズが出た。  「も、もちろんデスよ? 美味しいモノ、いっぱい頂いてマスからね、のだめもRuiにお返ししないと」  じゃあ決まりネ! Ruiは颯爽とショッピングモールに向かい、歩きだした。  六.湾仔  中環にある、大きなショッピングモールをRuiに引きづられるように歩きまわり、有名ブランドから香港のデザイナーズブランドまで、ショッピングしまくる。  十三時をまわったところで、のだめから、お腹が空いてもう歩けマセン! とギブアップの声があがり、二人は湾仔にある飲茶レストランにやってきた。  ここは香港の有名なレストランチェーン『美心グループ』の経営するお店。ランチ時は大人気で行列ができるが、店内は広くテーブル数も多いので、三十分ほど待つと席に通された。  席についたら、お茶をオーダーして、あとはひたすらワゴンで運ばれてくる飲茶を好きなだけとって食べる。  これならメニューを読む必要はないから、のだめでも食べられマスね。  この透き通るように白い、ウェッティーなクレープ包みみたいなのはなんデスか? 腸粉《チョウファン》? ムハー! このとぅろっとぅろ、ぷりゅんぷりゅんの皮の食感が最高デス。  中に入っている蝦がプリプリでっ、とぅりゅんっ、ぷりんっ、て口の中の緩急がたまりマセン〜!  ふわっふわっ、ジューシーな叉焼包うんまいっ!  もぅっ、ワゴンごと買い取りたいくらいデス!うわ、このワゴン、全部叉焼包? 専用車? シャー様みたいな?  ぎゃぼっ! 鶏さんの手というか足というか、とってもリアルなんですけど……、ってしゃぶりついたら、離せないくらい旨いじゃないデスか?!   このグロさには目をつぶって余りある旨み。はぅん、コラーゲンもタプリで千秋先輩も喜びマスよ、きっと。  のだめはワゴンが通るたび、蒸篭でもお皿でもどんどんピックアップしては、お腹におさめていく。そのたび、見た目も美しく美味しい点心たちに、感嘆の声をあげた。  「ふぃ〜、さすがに満腹デス。もう、食べられマセン」  「ノダメサン、どう? 満足した?」  「大満足デスよ〜! 飲茶って、天国みたいなとこでシタ。あへぇ〜」  二人の座る席は、全面ガラス貼りの窓際で、建物の目の前に広がるヴィクトリア湾を見渡すことができる。  さっぱりとしたポーレイ茶を飲みながら、満足そうにお腹をさするのだめ。  「ぷっ! あはははっ!」  「むきゃ? Ruiどうかしましたか?」  「ノダメサンって、ほんと不思議な女性だネ。黙ってればキュートでチャーミングなのに、こうして喋ったり動き出すと元気いっぱいで、動物的というか、変態っていうか」  「ぎゃぼっ!」  「それであの魅力的なピアノだもん。千秋が夢中になるのもわかるヨ」  「むむ、なにやら照れマスね」  なんの作戦デスか? のだめ、おごったりしマセンよ?  照れながら、茶化すのだめに、Ruiが真剣に語りだす。  「実はワタシ、パリのコンセルヴァトワールに留学したとき、ピアノから離れるつもりだったんだよネ」  「……え?」  「ピアノやママから離れたくって、でも演奏活動休止するには、留学を理由にするしかなくて」  「そうだったんデスか……。」  「それでもやっと認めてもらって、これで普通の女の子として遊んだり、恋愛したりできるって、すごく楽しみにしてたんだけど……。」  Ruiは、当時の気持ちを思い出してるのだろう、窓からのヴィクトリア湾の美しい景色を眺め、ふぅーっと息を吐いた。  「ほらマルレに、チェレスタのトラでのったあと、千秋のこと、ママに誤解されたじゃない?  あの時、二人にとても迷惑をかけちゃったから、翌日、ママに連れ戻される前に、ワタシ謝ろうと思ってアパルトマンまで行ったんだヨ」  そこで聞いちゃったんだよね、ノダメサンのピアノ……。  Ruiが小さく呟く。  のだめは黙って、Ruiの言葉を待つ。  「嫉妬したんだよネ。」  「シット……デスか? Ruiが? のだめに?」  のだめは、Ruiからの意外な告白に、驚いて言葉も出ない。  「そう。ノダメサンのピアノに。  ワタシみたいに、幼い頃から音楽漬けの生活を送ってきたのでもなく、普通にお友達がいて、恋愛もして、楽しんでいて。  そして特別な音を持ってるノダメサンのピアノに」  そこまで話すと、Ruiは視線をのだめに戻し、微笑む。  「でも、そのおかげで今のワタシがあるんだと思う。  もう一回ピアノ頑張らなくちゃって思えたから。  だからね、一度ノダメサンにお礼がしたかったんだヨ」  あははは! ちょっと恥ずかしい話しちゃったヨ〜、と笑うRuiに、のだめは真剣な視線を向ける。  「のだめだって……。のだめだって、Ruiには数え切れないくらい、嫉妬してマスよ?」  「え?」  「最初にRuiに嫉妬したのは、千秋先輩が上海デビューした時の、コンチェルトの相手としてでシタ。あの時、のだめは千秋先輩と距離も立場も遠く離れていて。  Ruiの超絶技巧をDVDやCDで何度も何度も繰り返しチェックしては、コピーしてピアノを叩きまくりました。ヨーダに聞かせたら、『ベーベちゃん、何しに来たの?全然ダメ』っていわれましたケドね」  ふぃ〜、あの時はつらかったデスね。のだめは寂しそうに笑う。  「そもそも、のだめがミルヒーとのコンチェルトでデビューしたのだって、Ruiのおかげなんデスよ?」  「え?」  「のだめ、千秋先輩とRuiのラヴェルのピアノコンチェルトを聴いて、『もう頑張るのやめちゃおう』って思ったんデス。あれも嫉妬でしたね。Ruiに嫉妬して、何もかも嫌になって、やけくそだったんです」  「やけくそで巨匠とデビューって、ちょっとムカツクけど……」  「まぁ、『隣の芝生は青い』ってことですカネ?」  「え、なにそれ?」  「それはデスね〜、隣のご主人は園芸が趣味で、マメに手入れをしているから、芝生が青々して綺麗なのに、うちの旦那ったら休みは寝てばっかりで、家のことなんかなんにもしてくれないのヨ?という、人のご主人は自分の旦那より、ちょっとばかり良く見えるっていう奥様の愚痴?」  「うーん、なんかよく分からないけど、きっととんでもなく間違ってるのよネ」  「むきっ!  Rui ってば、人に聞いておいて失礼デスね!」  ふたりは、お互いの胸の奥にしまい込んでいた、懐かしいような、ちょっと恥ずかしい部分をさらけ出して、すっかりココロが軽くなっている気がした。  それによって、今まで以上に素直に、もっとお互いを奏者としてリスペクトして、友達とはちょっと違うけど、少し深い関係に踏み込んだのかもしれない。 七.尖沙咀  少し日が傾いた頃、二人は店を出ると、すぐ近くにある埠頭に向かった。  「ノダメサンっ! 飲茶も大満足で、ガソリン満タンだよネ?」  「またなんデスか?  そのおねだりポーズ、見飽きまシタよ?」  ここからフェリーに乗って、九龍に渡るというプランには大喜びだが、また買い物に付き合わされるというのにはウンザリする。  「だってぇ、アジア最大の LOUIS VUITTON なんだヨ。行かないで後悔するより、行って後悔しようヨ。」   LOUIS VUITTON なんて、パリでいくらでも見ているはずなのに、Ruiのショッピング熱にも困ったものだ。  フェリーにも八達通で乗ることができる。  ちょっと割高の上層に乗り込む。気持ち良い潮風を受けながら、夕日にきらきら照らされる香港島の高層ビル群が美しい。  「はぅん、気持ちいいデスね」  十五分ほど乗っていただろうか、到着したのは九龍一番の繁華街、尖沙咀《チムサーチョイ》。  Ruiは人混みの中を、慣れた様子ですいすいと進んでいく。  「ちょっ……、Ruiってば、待ってくだサイー!」 ------------------------------  アジア最大の LOUIS VUITTON で、のだめはたっぷり二時間Ruiの買い物に付き合わされた。  午前中に大量購入した荷物の番をさせられ、店内に備えられた良質のソファーに手持ち無沙汰に座っているしかなかった。  「ひゃーーーー! 楽しかったヨ」  Ruiは両手いっぱいに戦利品をぶら下げ、疲れなどまったく見せず上機嫌。  もちろん、一人で持ち切れない荷物はのだめが持つことになる。  香港人っぽい街歩きが聞いて呆れる。  おもいっきり、どこからどうみてもお買い物目当てのツーリストではないか。  ノダメサンも買えばよかったのに。パリの店で買うより安く買えたヨ? ほら、千秋のお土産とかさ。  「千秋先輩はオシャレさんですカラ、身につけるものとかは自分のこだわりのものじゃないとダメで」  「ふうーん、そうなんだ」  「それよか、その大量の荷物、どするんですか? 一度ホテルに戻って置いてきマスか?」  「ん? 無問題!  この近くに、馴染みのお店があって、そこで預かってもらえるから。  夕飯もそこで食べるヨ」  「むきゃっ! 今日の夕飯はどんな美味しいもの食べさせてもらえるんデスか?」  ふかひれ? 燕の巣? 楽しみデスね〜! と、すでによだれを垂らさんばかりののだめを盗み見て、Ruiはいたずらっこのように笑った。 ------------------------------  「ニセモノ トケイ ヤスイヨ?」  「がぼん……、危険な匂いがしマス……」  Ruiに連れて来られた場所は、怪しい雰囲気満載のビルだった。  エントランスを入ると、両脇に何軒か並ぶのは両替商。  ブランド物の買物袋を両手いっぱいに下げたRuiたちは、客引きの格好のターゲットのようで、先ほどからのだめは、インド人のニセモノ時計屋にまとわりつかれ、片言の日本語で話し掛けられ、固まっていた。  「これからローカルなものも食べるから、香港ドルが必要だヨ。カードが使えないからね。ここの両替商はレートが格段にいいんだヨ」  インド人にまとわりつかれたまま、のだめはRuiについていくしかない。  Ruiが両替をしている間、辺りを見回してみる。  ビルの内部は細かく仕切られていて、デジカメやムービーなどが積まれた電化製品を置いている店や、DVDやCDなど、メディア類を扱うお店が目につく。  ローカルの香港人らしい人たちや、外国人旅行客もちらほらいるが、店員やうろついてるのもインド系の人たちばかり。  「……ここはリトル・デリーですカ?」  「あははは! そうかもネ。  ここは重慶《チョンキン》マンションっていって、インド系の人たちのルツボなんだよネ。  今日も、そのうちの一つの美味しいカレー屋さんに行くヨ」  カレー? 何故に香港で、リトル・デリーで、カレー……。  のだめはわけがわからないまま、Ruiに引きずられ、魔窟へと足を踏み入れた。 ------------------------------  今にも止まってしまうのではないか、閉じ込められたらどうしまショウ?  そんな不安を無意識に感じてしまうようなエレベータで上昇。  目的階に到着し、扉が開くと、途端にスパイシーな匂いが鼻につく。  そこはまさしくインドであった。  怪しい通路をすいすいと進むRuiにぴったりと引っ付いてたどり着いたのは、オープンスタイルのカレー店。  Ruiが店内に英語で呼びかけると、気づいた店員がぱぁっと笑顔になり、二人は再会を喜ぶようにハグをする。  店員は、何も言わなくとも、Ruiとのだめの持っている大量の荷物を受け取り、店の奥に引っ込んだ。  「ここはね、店構えこそオープンスタイルでファストフードみたいだけど、味は本格的だからね、期待してくれていいヨ」  店の奥から戻ってきた店員が、Ruiに親しげに話しかける。ひとしきり話したあと、Ruiがのだめを紹介したようだ。  店員は、のだめを見て、  「コニチワー」  と、日本語で挨拶をしたので驚いた。  「ラジョさんは、料理の修行で世界各国を訪れてるんだヨ。  日本でも暮らしてたことがあるんだよネ?」  「ハイー! ニッポンの秋葉原でカレー屋さんしてたことアルネ」  「むきゃっ?! アキハバーラ? ナマステー!」  インド人ラジョさんから、懐かしい日本語が飛び出し、不思議な重慶のインドテイストにもテンションが上がる。  食事は、本場インドのカレーを経験したことのあるのだめも大満足の味で、さくさくのドーサや、ココナッツの甘みが美味しいオリジナルナン、マトンのカレーはトマトの酸味が癖のある匂いをうまく消して、柔かく煮込まれたマトンを引き立てている。  「ラジョさん、とっても美味しいデス!」  むはー。デリーで食べたカレーもおいしかったデスけど、重慶のカレーも負けてマセンね。香港、恐るべしデス。  八.旺角・夜晩  食事を終え、ラジョさんに預かってもらっていた大量の荷物を受け取る。  若い女の子二人じゃ心配ダヨといって、ラジョさんは重慶マンションのエントランスまで送ってくれた。インド人、イイ人デスね。  大通りに出てタクシーを拾い、ホテルに帰る。  尖沙咀からホテルのある旺角までは、賑やかなネイザンロードを進む。派手なネオンの看板がひしめきあう、香港の代表的な景色が車窓を流れてゆく。  「ノダメサン、今日はたくさんショッピングに付き合ってくれてサンキュ!  結構歩きまわって、足パンパンじゃない?」  「そですねー。普段、ここまで歩き回ることってあんまりないカラ。  さすがののだめも疲れまシタ」  「それじゃあ、明日からのためにも疲れとっておこうヨ」  「ほえ? どやってデスか?」 ------------------------------  「ぎゃぼーーーー! ムキャキャキャキャ!」  ホテルに荷物を置いて、旺角の街中に引き返して十分後、のだめは強烈な痛みに悲鳴を上げていた。  Ruiにつれてこられたのは、いわゆる足ツボマッサージ。  旺角の派手で賑やかな夜の雰囲気からは別世界のような、落ち着いた照明の室内に、大きな革張りのふかふかシート。  シートの耳元からは、ゆったりとした音楽が流れている。  最初は、美味しいお茶をいただきながら、漢方薬が入っているという温めのお湯で足湯を。  その後、足の裏に人肌に暖められたオイルをすりこんでもらっていたところまでは良かったのだが……。  ゆるゆると指を滑らせているだけなので、『なぁんだ、足ツボなんて楽勝デスね?』なんて油断していた。  ところが突然、ここぞというツボにグリグリグリッ!≠ニ力を入れられたら最後、全身を突き抜ける強烈な痛みに悲鳴をあげるしかなかった。  しかし、足裏へのツボ押しが終われば、足の甲から足首、すね、ふくらはぎと、膝下までを心地よくマッサージされ、リンパもマッサージしてもらって、すっかり夢見ゴコチ。  「デトックスネ。水、いっぱいトルネ?」  足ツボマッサージには毒だし効果があるから、水分をたくさん取っておくようにとの事。  立ち上がってみると、さっきまでのだるさがすっかりとれ、全身の血行も良くなっている気がする。この効果を実感すると、あの強烈な痛みにも納得せざるを得ないデスね。 ------------------------------  ホテルに戻る途中、Ruiから締めのスイーツを食べようと誘われる。  え? もう二十三時過ぎデスよ? 確かに旺角の街は今も人がいっぱいで、明るい照明で眩しいくらいデスけど……。  連れて来られたのは、赤地に金文字で『許留山《ホイラウサン》』とかかれた中華風の看板のお店。  店はオープンスタイルで、店先にはフルーツなどのジュースだろうか、何種類かのジューサーが回されている。  「こ、これはもしかして、あのハマアユもハマったというスイーツの有名店デスか?」  「ハマアユ? よくわかんないけど、香港ではメジャーなスイーツのチェーン店だヨ」  深夜一時まで営業だから、ホテルの近くにあれば、締めについつい寄っちゃうんだよネ。  この時間でも店内は若い女性たちで満席。  メニューにはカラフルなフルーツスイーツの写真がいっぱいで、はぅん、目移りしちゃってだめデス。オススメはどれデスか?  「マンゴープリンも美味しいけど、マンゴーと黒糯米のココナッツミルクかけは最高ダヨ!」  「じゃあ、それいただきマス」  「オッケー。で、冷たいの? 温かいの?」  「はい?」  「だからさ、どっち?」  え? えええ? スイーツで、マンゴーで、温かいって……。  もう、のだめには何がなにやら……。  Ruiにお任せしますって言ったら、温かいのが出てきた。がぼん……。  「むきゃ? 温かいの、いけマスね?」  あ、あれぇ? すごく美味しいデス!  お口の中がスイーツレボリューションですヨ。  「でしょ? 香港の人は意外と、冷たいのは身体に悪いって言って、温かいスイーツ食べるんだヨ。  その時の体調とか、食事との相性もあるけど。」  「そなんですか。はぅん、適度な温かさがマンゴーの甘みを増しているような……」  これ、クセになりそうデスね。疲れた身体に染み渡りマス。  「ノダメサン、明日なんだけど、ワタシはエステに行きたいと思ってるんだよネ。  ノダメサンって、エステとか興味ある人?」  「むむ。残念ながら、エステとはお付き合いした事がないというか……」  「あははは! 構わないヨ。ノダメサンらしいね。じゃあ、何か希望は?」  「よかったらRuiはエステに行ってくだサイ。  のだめ、そろそろ一人でぶらっとしてみようかと思ってるんデスが……」  「本当に? 大丈夫?」  「だ、大丈夫デスよ。こう見えても大人の女デスからね。  Ruiのおかげで MTRにも乗れるようになったし、すこしアドバイスなどしていただければ……」  「了解! じゃあ、明日は別行動ということで。  朝食は一緒に食べようヨ。その時、ノダメサンが行きたいところとか、アドバイスしてあげるヨ?」  「むきゃ! よろしくお願いシマス」 ------------------------------  ホテルへの帰り道、Ruiはのだめが行きたいところなどをいくつか聞くと、コンビニに寄って、一冊の本を差し出す。  「はい、これ香港街道指南。地図と公共交通機関の路線図が入ってるから」  「ほわぉ……。何から何までアリガトゴザイマス」  「無問題ダヨ!」  ホテルの部屋に戻ったのは〇時過ぎ。  「のだめ、まだホテルの部屋からの夜景、見られてマセン……」  そうつぶやくと、そのままベッドにダイブし、次の瞬間には穏やかな寝息をたてていた。  九.一個人行街一  翌朝、目覚めると時計の針はすでに十時を回っていた。  さっとシャワーを浴び、携帯にRuiからの着信がないかチェックすると、思わぬ人からの着信があった。  「せんぱい?」  千秋とは一昨日電話で話したばかりだ。  二日と空けずに電話してくるなんて、真一クンにしてはめずらしいデスね?  マイアミは今ごろ二十四時過ぎのはず。  もう遅いだろうから、明日の朝にでも早起きして電話してみよう……。 ------------------------------  Ruiと朝食にむかう。  今朝はホテルのビュッフェで簡単にすませて、お茶をしながら街歩きのアドバイスを受ける。  のだめの希望は、香港カルチャーを感じる場所に行きたいというもの。  「まず、オススメは香港歴史博物館だネ。博物館っていっても、ただ展示物を見るだけじゃなくて体感する感じなんだよネ」  香港の太古の時代からスタートして、近代香港までの歴史と文化が再現されているのだという。  「お台場小香港のデラックス版っていう感じかナ。一日いても飽きないと思うヨ?」  昨日行った尖沙咀にあるのだという。まずここを目的地の一つにする。  「あとは、チャイニーズテイストのお買い物なら、裕華《ユウワー》っていうデパートがいいね。  もっとハイセンスな雑貨ならGODとか、上海灘《シャンハイタン》とか」  上海灘はシルクのお店だが、お洋服だけではなく、小物からインテリア、クッションやリネンなどもオシャレでオススメだという。  「モノがいいぶん、ちょっとお高いけどネ」  「あと、旺角には信和中心っていうビルがあるんだけど、ここはオタクビルって言われてて、日本のコミックとか、アニメとか、キャラクターグッズとかを扱うお店がごちゃごちゃ集まってるらしいヨ」  ノダメサンが好きな、あのヘンな人形のキャラクターとか、あるんじゃない?  「ぎゃぼ! ごろ太の広東語版DVDとかありますカネ?」  のだめは、昨日コンビニで購入した『香港街道指南』の地図に、目的地の印をつけ、Ruiがメモしてくれたお店の名前などを挟み込んだ。  「夜ご飯は一緒に食べようヨ。素敵なところを予約してあるから」  そういって、待ち合わせの場所と時間を指定し、こちらもメモに書いてのだめに渡す。  「じゃあ、頑張ってネ。ワタシはホテルのスパにいるつもりだから、なにかあったら電話して」  そういって、二人はホテルのビュッフェで別れた。 ------------------------------  ランガムプレイスモンコックホンコンには、評判のよいスパがある。  エステも受けることができるので、Ruiは夕飯までホテルでのんびり過ごそうと計画していた。  「ん?」  ホテルの部屋を出ようとしたところで、携帯に着信がはいる。相手はめずらしく千秋。  「ハーイ! 千秋、ひさしぶりだネ。どうしたの?」  「久しぶりだな。なんだかのだめがお前に世話になってるって……」  「お世話なんてしてないヨ?  音楽祭で一緒になって、たまたまオフが重なってることがわかって、ノダメサン、特に予定ないっていうから誘っただけだヨ」  ノダメサンのおかげで、美味しいものがいろいろ食べられるから、かえって助かってるし、二人で楽しんでるヨ?  「それより、なんなのよ? ワタシに電話してくるなんて」  「……いや、別になんかってわけじゃねーんだけど、のだめのやつ昨日夜中に電話しても携帯出なかったから。朝も連絡ねーし……」  「ははーん、千秋ってばノダメサンが心配でワタシに電話してきたんだぁ」  「ばっ……! そんなんじゃねーよっ! ちょっと時間あったから、お前も最近どーしてるかと思って、つ、ついでだよっ、ついでっ!」  「あははは! 千秋も素直じゃないネ」  ノダメサンのこと、気になって電話してきたくせにぃー。  「……で? のだめは?」  「昨日は、ホテルに帰ってきたのが一時過ぎてたから、ノダメサン、千秋からの着信、気づかなかったんじゃないかな?  今朝は二人とも十時過ぎまでぐっすり寝てたから、電話するのには時間が遅いと思ったんじゃないの?」  なんでワタシがこんなことまで説明しなくちゃいけないのヨ?  今日は、一人で街歩きに出かけたヨ。  「そっか……。悪かったな。サンキュ」  千秋はホッとしたことをRuiに悟られまいと、小さく返事をする。  しかし、そんなことに気づかないようなRuiではない。  「千秋さ……、もっと素直になったら?  意外に分かりやすいよネ。  まぁ、ノダメサンもだけどさ」  「…なにがだよ」  「だからさぁ〜、逢いたいなら逢いに来てほしいって、言えばすむことじゃない?」  「……」  「ノダメサン言ってたヨ? 千秋はいま、キャリアアップのために必死で頑張ってるから逢いに行けないって」  「……そっか」  「千秋……、ノダメサンはワタシが初めて会ったころから、全然変わってないヨ?」  「え?」  「モチロン、無名のピアノ留学生から、世界の NODAME にはなったけど。  それはあくまでノダメサンの一部分であって、女性としてのノダメサンは今も変わらず千秋だけを見つめてるデショ?」  「……」  「二人とも、いろいろ一緒にしずぎなんだヨ。  幼い頃から世界のRuiやってるワタシから、大好きな二人へアドバイスする。  二人は確かに音楽で深く結ばれていて、お互いの音楽性を認めてリスペクトしてるのはわかるケド、音楽家としての千秋真一や NODAME と、男と女としてのスペースは分けなくちゃ。」  う…。いつか誰かに言われたような台詞だな…。  「……やっぱりお前って大人だよな……。  分かったよ。サンキュ、Rui」  「まったく世話がやけるネ。夜、ノダメサンに会ったら、千秋に連絡するように言っておくヨ」  通話を切り、マイアミの千秋は、今の電話で少しは安心したかと思うと、 Rui はなんだか複雑な気持ちになる。  「このワタシが潔く身を引いたんだから、しっかりして欲しいヨ……」  Ruiは誰に言うのでもなく、ひとりごち、ホテルのスパへとむかった。  十.一個人行街二  のだめはホテルを出ると、 MTR で尖沙咀にむかった。最初の目的地は香港歴史博物館。  「ほわぉ、たった十ドルって百円ってことデスか?」  破格に安い入場料を支払い、順路にそって地下へ降りると、  「がぼん……四億年前からスタート……」  四億年前の香港から、歴史はスタートする。今日中に見終わることができるのか一抹の不安を覚えつつ進む。  入り口付近には、香港の自然生態環境を紹介する、地層の模型や化石の標本。  いかにも博物館ぽいが、そこをすぎると突然、目の前にジャングルが現れた。  吹き抜けの広い空間に、小鳥のさえずりが聞こえる。  キツネを狙うトラ。木の上の蛇を狙うクマ。  はぅん、ぜひ虎柄の腰布だけ巻いた、真一クン人形も展示して欲しいデス。  ジャングルを抜けると、海辺で生活する原始人たち。六千年前の石器時代の人々の生活が再現されている。  むきっ、真一クン人形は、海辺には置けませんネ。残念。  民俗文化を紹介するエリアは、古い時代の住居や水上生活者のジャンク船、お寺などが実物大で再現されている。  各地のお祭りの様子や、京劇の風景、当時の婚礼の様子など、建物だけではなく、当時の着物を着たマネキンが実際に小物をもってポーズをとっていて、今にも動き出しそうだ。  圧巻だったのは近代香港の街をそのまま再現したエリア。  古き良き時代の街並みには、銀行、郵便局、薬局、テーラー、喫茶店に写真館、果物屋のおじさんが怒鳴りながら飛び出してきたり、通りにはもちろん実物のトラムも走っている。  レトロな街並みプラス、音声による演出もされていてなかなかニクイ。小物にも当時の実物が使われていて、タイムスリップした気分になる。  「ふぃ〜、やっと現代に帰ってきました。楽しかったデスね」  大満足で博物館を出れば、入館から三時間も経過していた。さすがにお腹が空きまシタ。 ------------------------------  とりあえず、駅の方角を目指し、ぶらぶらと歩きだす。  ここは繁華街で、食事を提供する店はいくらでもある。  しかし、たくさんあるからこそ、どこに入ったらいいのか悩むところでもある。  食事する店をきめかねて、ふらふらと歩くうち、ふと覗いた路地の先に市場のようなものが見える。  なにやら食欲をそそる匂いもするようだ。のだめは自分の動物的直感にしたがって、細い路地を進んだ。  路地の先には、薄暗い中に、オレンジ色の柔かい照明が並ぶ、市場がひろがっていた。  びっしりと食材を売る店が連なっている。野菜、果物、魚、肉。乾物や、得体の知れない瓶詰めが並べられた、怪しげな店もある。  しかし、そのほとんどは、人のよさそうな店主が主婦たちを相手に商いを行う見慣れた風景であった。  「ほわぉ……。パリのマルシェを思い出しマスね」  日本の商店とは違い、むき出しの食材が色とりどりに並べられ、肉屋の店先には、美味しそうな鶏の丸焼きがずらっと吊るされている。  「パリのチキンも美味しいデスが、香港のチキンも負けてまセンね」  のだめは口元に溢れてきたよだれをぬぐった。  「思い出しマスね、祝サロンコンサトで、千秋先輩衝撃の独立で、ノクターン……」  はぅっ! のだめはなにやら思い出し、顔を真っ赤に染め、足早に肉屋を通りすぎた。  「むきっ! なにやら美味しそうな匂いがしマス!」  食材を売る店と店の間に、麺だろうか、美味しそうなスープの匂いを漂わせる屋台があった。  休憩をとる店員や、買い物途中の主婦などが、店先のテーブルで美味しそうな麺をすすっている。  「ココデス!」  のだめは、店主に身振り手振りで他の客と同じものを注文し、遅い昼食にありつく。  シコシコの細めんに、ぷりっぷりの肉団子。とても大きな肉団子で、五つ麺の上にのっているが、大きな器を塞ぐほど。  ひとくち噛りつけば、ぷりぷりの弾力にジューシーな肉汁が溢れ出る。  「むっきゃぁーーーー!」  奇声をあげてうれしそうにかき込むのだめに、最初は冷ややかな反応だった周囲の香港人たちも、あまりののだめの喜びように、うれしそうに微笑む。  言葉はわからないが、『旨いか?』と聞かれた気がして、『美味しいデス!』とにこやかに答える。  「オイシイ〜!」  「むきゃ? オイシイ〜? わかるんデスかね?」  香港人にも日本語の『おいしい』という言葉が浸透していることを知ったのは、だいぶ後になってからだったが。  麺を二杯たいらげ、サービスで『ヤウチョイ』という青菜の油炒めも頂き、(めちゃウマでシタ!)、さらに市場を進んで、『ガーイダンジャイ』というカステラボールのような焼き菓子もゲットして、袋を抱えて頬張りながら探索を続け、市場の店が途切れるころにはお菓子も完食して、満腹になった。  駅に向かう大きな通りに戻りつつ、途中のジューススタンドで喉を潤し、今度はチャイニーズテイストのショッピングにむかう。 ------------------------------  尖沙咀から MTRに乗り一駅、佐敦駅《ジョーダン》で下車。  Ruiから聞いた、裕華國産百貨という中国系デパートへむかう。  定番のシルク製品や漢方薬、茶器や小物売り場をスルーして、最上階へ。  ここは、チャイニーズ不思議ワールドが売り場いっぱいに広がっていた。  京劇グッズやカンフーグッズにもかなり惹かれたが、やはり目をひきつけたのは東洋医学用品売り場。  昨夜の『足ツボ初体験』で東洋医学の神秘を実感したのだめは、ツボおしグッズにひきつけられる。  「ぷっ! ぎゃはぁーーー!」  驚いた。ソフビ製のツボ模型。人体ならまだしも、犬猫から豚、馬まである……。  動物たちの体には、ツボの位置と、その名称が書き込まれている。  「ほ、ほしいデス……」  しかし、パリのアパルトマンに持ち帰っても、真一に見つかって叱られるのが関の山だと物欲にストップをかけ、無難に手と足(もちろん人用)のソフビつぼ模型を購入する。  「これで真一クンをメロメロにしちゃいマス。ゲハ」  キッチュなチャイナグッズを手に入れ、ご満悦で次の目的地へとむかった。  十一.一個人行街三  もう一度 MTRに乗り、香港島に渡る。中環駅で下車。チャイニーズテイストのハイセンスな雑貨とシルク製品を見に行くことにする。  駅をでて、大通りから少し入ったところに『上海灘』はあった。店に入ると、表の喧騒とはうって変わった、ゆったりとした時間が流れているようだった。  「ほわぉー、太極拳みたいデス(意味不明)」  最初のフロアには、シルクを使用した、小物やインテリア。  ウォレットや手帳カバー、キーホルダー、カードケース、手鏡などの小物には、中華テイストのモチーフが型押しされたシルク生地が使われてはいるが、若葉色、韓紅、ブラックなどのカラーバリエーションで、手持ちのバッグなどと合わせても違和感なく使えそう。  かえってアクセントになるカモ。  同じような素材、カラーで、ファブリックも用意されている。  チャイナテイストの部屋履き、可愛いデス!  のだめ用にレッド、真一用にブラックを購入。  上質なシルク地に美しい刺繍が施されたナイティやガウンも豊富だ。  試しに羽織らせてもらうと、その肌触りのすべらかさにメロメロ。  美しい象牙色のシルク地に花鳥風月の刺繍が施されたガウンを購入。真一にもお揃いでブラックを購入した。  ベッド廻りも一式購入したかったが、サイズがわからないので断念。  次回は採寸してから来ようと決意する。  二階に上がると、色とりどり、さまざまな柄、デザインの洋服が並ぶ。  店の奥では、本格的なチャイナ服のオーダーメイドができるようだ。  洋服のデザインはモダンだが、色も刺繍もプリントも中華テイストが意識されていて、ため息がでるほど美しい。  伝統的なものも取り入れつつ、現代のテイストがうまく融合されていて、オリジナリティーにあふれている。このようなお洋服を着てパリの街を歩いたなら、さぞや注目されることだろう。  「がぼん……、とってもよいお値段デスね……」  手が込んだ仕立ての洋服たちは、さすがにそれなりのお値段ではあったが、ちょっとしたパーティーやサロンで使えそうなドレスを一着購入しようと決める。  鮮やかな藍色のワンピースに目がとまる。  ボディーラインにフィットするシンプルなデザイン。胸元は深くV字にカットされた、セクシーなスタイル。  生地と同系色、ブラウン、緋色などの絹糸をつかって、南国の植物と小鳥をモチーフにした美しい刺繍が胸元から裾にかけて繊細に差し込まれている。  フィッテングをぜひと勧められ、身につけてみれば、鮮やかな藍色がのだめの白い肌によく映える。  「ホウレンアー!(とても綺麗ですよ)」  言葉はわからないが、褒められているようだ。  サイズもぴったりで、なにより軽さと肌触りがよく、身体にしっとりとなじむのが心地よい。  「これくだサイ!」  それなりによい値段ではあったが、大満足の買い物であった。 ------------------------------  気づいてみれば、Ruiとの待ち合わせ時間が迫っていた。  もう一つ行ってみたい雑貨屋があったのだが、また明日以降のお楽しみにしようと諦め、待ち合わせ場所にむかう。   MTRにのって三つめの駅なのだが、大通りに出たところでトラムが停車したため、思い切って乗ってみることにした。  前回と同じように二階に上がる。  しかし、トラムが動き出してから気づいたのだが、トラムには MTRのように現在地を確認できる案内もなければ、停車場に駅の名前などが表示されているわけでもないのだ。  「ぎゃぼっ!」  慌てて、香港街道指南をめくる。地図の中に自分が今いるだろうところを必死でさがし、そこから、トラムの走行ルートを待ち合わせ場所まで辿る。  そこからは、地図と車窓の景色を必死で目で追い、現在地を常に確認しながらやっとの思いでトラムから降りる。  「まったく楽しめませんデシタ……」 ------------------------------  Ruiとの待ち合わせ場所は、銅鑼湾にある日系デパート、そごう前。  「がぼん、人だらけデス……」  こんな人混みで、Ruiに会うことができるのか不安でいっぱいになるも、すぐにRuiから携帯に着信が入り、誘導されて無事に会うことができた。  「Ruiひどいデス、あんな人混みで待ち合わせさせるなんて。のだめ、遭難するかと思いまシタ」  「あははは! ごめんねぇ、わかってたんだけど、ここが一番わかりやすいかなぁと思って」  お詫びにとっても美味しいものご馳走するから、許してヨ。  「そういえばお腹がすきまシタね。今日は何を食べさせてくれるんデスか?」  食事に釣られて、あっという間にご機嫌を直すのだめであった。 ------------------------------  Ruiに連れて来られたのは、大通りから二筋ほど引っ込んだ通りにある、ごく普通のマンションのような建物だった。  エントランスの壁面に並ぶ部屋番号ごとにわかれたインターフォンをおし、 Rui が名前を告げると、ブーっという電子音とともに、エントランスのドアが開錠される。  狭いドアを入り、五人も乗ればいっぱいになりそうな小さなエレベータに乗り込む。  「あのう……、また異国的な食事デスか?」  重慶のインドカレーを思い出し、のだめが恐る恐る尋ねる。  「ううん、今日はね、ふたりっきりのプライベートレストランだヨ」  「プライベート……デスか?」  「うん。これから行くのは、カーリンっていう女性シェフがやってるお店。  完全予約制で、お客は一組のみ。  カーリンはワタシタチだけのために料理をつくってくれるんダヨ。  お料理は家庭的な広東料理でとっても美味しいヨ」  だから期待して無問題だよ。そういってRuiは微笑むと、一つの部屋にむかった。  カーリンの部屋のドアで、もう一度インターフォンをおし、名前を告げる。  ドアが開き、中国系の女性が顔を覗かせた。  「Bonsoir!」  「へ? フランス語? フランス人なんですか?」  「カーリンはね、フランスで料理を学んで、向こうの有名レストランで修業をして、香港に帰ってきたんだヨ。  こっちの一流ホテルのレストランでシェフをしていたんだけど、オリジナルの自分らしい料理をお客さんに楽しんでもらいたいって、プライベートレストランを始めたんだよネ?」  「ええ。ホテル時代からRuiさんには贔屓にしていただいてて。  辞めてしまってから、こちらを始めたことを噂でお知りになって。  ご連絡をいただいた時は、とっても驚きました」  「ワタシ、カーリンのお料理の大ファンだったからネ。」  カーリンは、白のシンプルなカットソーに黒のサブリナパンツ、ベリーショートの髪に人懐っこそうなまん丸の目が魅力的な美しい女性だった。  Ruiの賛辞にすこし恥ずかしそうにお礼を言うと、  「さ、準備万端ですよ。いつでもどうぞ」  と、のだめとRuiをダイニングに招きいれた。  元は普通の住居タイプの部屋なのだろう。  真っ白のペイントがされたシンプルな部屋。  中華風の美しい彫り物がされた木製のスクリーンの向こうには、八人くらいは一度に座れそうな、大きな円卓が置かれている。  部屋の隅には、紫檀の美しい花台、乗せられた大きな陶器に南国の花が美しく彩りを添えている。  「コレ、お願いしますネ」  Ruiが事前に用意しておいたのだろう、持ち込んだ白ワインをカーリンに手渡し、二人っきりの晩餐が始まった。  十二.私房菜一  テーブルにつくと、Ruiが持ち込んだ白ワインがグラスに注がれる。  「まず乾杯しようヨ」  「はいっ!」  二人はにこやかに、グラスを気持ち掲げると、  「香港に!」「二人旅に!」  と、それぞれ口にした。 ------------------------------  「ノダメサン、初めての香港一人歩きはどうだった?」  「Ruiのおかげで、大成功でシタ!  博物館には三時間もいたんデスよ?驚くことばっかりで、すっごく楽しかったデス。  そのあと、偶然通りかかった尖沙咀の市場を探索して、おいしい肉団子麺を食べマシタ!  麺も美味しかったけど、市場もなかなか楽しかったデスね〜!  そうそう、裕華でソフビのツボ模型を買ったんですヨ?ホテルに戻ったら、この模型を見ながら、Ruiのツボも押してあげますヨ?」  いや、いいから! 丁重にお断りするRui。  「最後に上海灘に行ったんですが、もぉ〜店ごと欲しくなっちゃいまシタよ!  部屋履きとガウンを買って、自分にもご褒美でドレスを一着買っちゃいまシタ!」  え、どんなの? あとで見せて! と、ショッピング話で盛り上がっていると、さっそくカーリンからの一品目が運ばれる。  美しいガラスの器はほんのりと冷やされている。  器の底には色とりどりの野菜がさいの目にカットされて宝石のよう。黄金色で透き通っているのは、なにかのゼラチンのようだ。  その上に、半透明で黒っぽい麺状のものが、葱の千切りと和えられて乗せられている。  ひとくちすくって食べてみると、麺状のものは、ぷりぷりとほどよい弾力と、こりこりとした歯ごたえもある不思議な食感。ごま油風味のソースがかけられていて、葱との相性がとてもよい。  「これ、ナンデスカ? 食感が面白くて、とてもおいしいデス!」  「これは生魚皮《さんゆーぺい》だね。  普通はこんなふうに麺状にはカットしないけど、カーリンの手にかかるとさすがだネ、とっても美しい」  「はい? さんゆーぺいって、ナンデスカ?」  「ああ、ごめんごめん。魚の皮だヨ。  白身魚の皮をうすーくはいで、さっと湯通ししただけのシンプルな料理だけど、めちゃめちゃ美味しい」  「ぎゃぼっ! 想定外の素材でシタ……」  でも、とっても美味しいデス。カーリン、なかなかやりマスね?  「炸魚皮《ざーゆーぺい》っていう、魚の皮に衣をつけて揚げたのもあるんだけど、これがまた美味しいんだよねぇ〜!  スナック菓子みたいにそのまま食べるのもいいし、麺のスープにつけて食べるのも……」  「はぅん……それも美味しそうデスね。今度はそっちをお願いしマス」  続いて、出されたのは白いシンプルな器に、レースのような被いがかぶせられたスープ。  「むむ、これはナンデスカね?」  サクサクとした被いを、もったいない気もするが、スプーンで壊して口に運んでみる。  「うん、ジャガイモだネ。ほそーく切ったものを編んだように成形して揚げてあるんだネ」  被いの下には、黄金色に澄んだ美しいスープ。  さらりとしたスープは鶏と野菜のうまみがしっかり溶け出していて優しいお味。  控えめに沈められたキヌガサ茸の食感と一緒に楽しむ。  「ほわぉ。シンプルだけど、口に入れるといろいろな素材の味がして、アンサンブルのようデスね。包み込むような優しい美味しさデス!」  ふたりは、ひとくち、ひとくち、大事そうにゆっくりと口に運んでいった。 ------------------------------  「そうそう、今日ノダメサンとホテルで分かれてすぐ、千秋から電話があったんだヨ」  「ぎゃぼ、千秋先輩。そういえば電話があったんでシタ。忘れてました……」  「あははは! 冷たい恋人だネ。  昨日の夜、遅くに電話したのに出ないし、朝も連絡がないからって、千秋とっても心配そうだったヨ。今日は電話してあげたら?」  「心配……、デスかね?」  「心配っていうか……、だって半年も逢ってないんでしょ?  久しぶりに電話があったら、恋人はワタシなんかと香港にいるっていうし、いろいろ思うところがあるンじゃない?」  「いろいろ……、のだめのことで思い悩む千秋先輩って、のだめには想像つきまセン」  Ruiはへぇ? という表情で、面白そうに片方の眉をあげた。  「ワタシには想像つくな。  だって、ノダメサンがロンドンから突然いなくなった時のこと、ターニャーとか、フランクから色々聞いたし……」  気のせいか、『フランク』と言ったRuiの顔が赤らんだ気がする。  「ほぇ? どんな事デスか?」  「それはさぁ、ノダメサンがいなくなって、身持ちを崩すほど悩んだ千秋とか、みんなに毎日のようにメールや電話をしてきて、ノダメサンからなにか連絡はないかって、そりゃーしつこかったって」  あははは! 黒木クンあてのメール、誤字がひどかったって聞いたヨ。あの千秋がねぇ。    「そうそう、この前、ニナと一緒だったマサユキ・チアキに初めて紹介されたんだけど、『NODAMEってどんなヤツだ?』って興味津々だったよ。  やっぱりノダメサンが失踪中に千秋からいろいろ相談されたらしいヨ。千秋とマサユキ・チアキって、和解したの?」  「え? 先輩がお父さんに?」  失踪中って……。  のだめはちょっと旅に出てただけデスよ。  でも思い起こしてみれば、あのころのことを、千秋からまったく聞いていなかったことに気付く。  真一クン、血迷って雅之さんに相談しちゃうくらい、のだめとっても心配かけちゃったんデスね…。 ------------------------------  スープ皿が下げられ、新しい料理が運ばれてくる。  「うわぁーーー! ガチョウのロースト! これが食べたかったんだよねぇ〜」  大きなお皿に、堂々と乗せられて出てきたのは、ツヤツヤの照りで眩しいくらいのガチョウのロースト。  「ノダメサンも、とにかく食べてよ! いただきまーす!」  「むきゃぁーーーーーー!」  はぅはぅ。のだめにこんなに美味しいモノを食べさせて、どうしようっていうんデスか?  このテリテリで甘ーい皮はぱりっぱりで美味しいし、そのくせ皮の下の身はすぐにほぐれてなくなりそうなくらい柔らかくて、じゅわっと出てくる旨みがたまりマセン!  ガチョウのローストと一緒に、小さな木製のお櫃があり、ご飯が炊きあがっている。  小さな器に入れられた液体が二種類、Ruiにより注がれ、さっと混ぜ込んでお碗に盛られたものが添えられる。  「あの……。これは?」  「猪油撈飯《じゅーやうろうふぁん》っていって、ご飯に猪油《ラード》と老抽《しょうゆ》をかけただけなんだけど、まぁ食べてみてよ」  そういって、Ruiはお碗にガチョウのローストもひときれのせ、ご飯と一緒に口に運び、満足そうな笑みを浮かべた。  のだめはまず、ご飯だけ食べてみる。    「む〜ん、う、うまいデス……」  香港のご飯は、日本の白米と違いぱさぱさなので炒飯にはよいが、そのまま食べるのは日本人的にはイマイチ。  でも、このラードかけご飯は、ぱさぱさのおコメとうまく絡み合って、絶妙である。  素朴な美味しさで、峰パパの裏軒マーボを思い出しマスね。  ふたりは、にこにこしながら、美味しい、美味しいと夢中で食べる。  満足したRuiがワインを飲みながら、夢中で食べ続けるのだめを楽しそうに見つめる。  「ノダメサン、ワタシね、千秋に恋してたんだヨ?」  十三.私房菜二  「ぶほっ!げほげほっ!」  「んもー、汚いヨ、ノダメサン」  「だ、だって、Ruiが突然へんな事言うカラ……」  のだめはグラスに注がれた水を一気に飲み干し、なんとか喉元につまったものを押し込んだ。  「昨日は、ノダメサンのピアノを聴いて、もう一度がんばろうって思った話したデショ?  だからノダメサンに感謝してるって」  「はい」  Ruiはもう一口、ワインを飲み、頬杖をついて、思い出すように宙を見つめる。  「ワタシはノダメサンみたいに、普通の女の子としての生活とか、楽しみを経験してないって、ちょっと嫉妬してたんだけど……。  音楽ばっかりだった私でも、いろいろな経験とか、喜びを味わっていたっていうこと、千秋が気付かせてくれたんだよネ。」 Ruiは、両手をすぅっと体の前に伸ばすと、その長くて美しい両手を、愛しそうにじっと見つめている。  「だから、パリで千秋の指揮で、オーケストラとやってみたいって思って。  あのラヴェルは千秋に恋した大切な思い出なの」  ちょっぴり辛かったケド、とっても楽しかったヨ。  Ruiはまっすぐな瞳で、のだめを微笑みながら見つめた。  のだめはあの、素晴らしくも切ない、ラヴェルのピアノコンチェルトの夜を思い出した。  嫉妬、羨望。自分がちっぽけで、世界に一人きり取り残されたような孤独感を思い出し、胸の奥がチクンと痛んだ。  「そ、だったんデスか……」  「ノダメサンにはピアノをもう一度がんばることを、千秋には音楽を楽しむ喜びを気付かせてもらって、だから二人には感謝の気持ちでいっぱいなんだよネ」  だから、ノダメサンにお礼がしたかったの。かといって、こんな話、千秋にするわけにはいかないデショ? ワタシにだって、女の意地があるからネ。  ウィンクを送るRuiは、すっきりとした表情だ。  それに対して、自分の恋人に恋をしていたと告白されたのだめは、なんとなく感じていたことではあったが、複雑な心境には間違いなく、どんな顔をしてよいのか困ってしまう。  「ああ! ノダメサン、安心してね?  千秋への思いはもうスッキリ、サッパリないんだヨ!」  のだめの複雑な表情に、Ruiはあわてて続ける。  「てゆーか……、今は別の人に、人を愛する喜びを教えてもらっているというか……」  さっきまでの余裕の表情から、照れて赤らめた頬を両手で押さえて、うつむき加減でつぶやくRui。  「ぎゃぼっ! そ、そなんデスか?」  それは誰? のだめも知ってる人デスか? いや、まさかね? 同郷のよしみのユンロンとかないデスよね?  「そ、それは……。きゃー! 恥ずかしいヨ、ノダメサンったら!」  さっきまでの年下だが余裕だったRuiとはうって変わって、小娘のように照れて、落ち着きをなくしたRui。  い、痛いデスよ、背中おもいっきりぶたないでくだサイよ?  でも、ちょっと面白くなってきまシタね? ------------------------------  カーリンからの次の料理が運ばれてきた。  大皿にいっぱいに乗せられたのは、色とりどりの点心たち。  「むっきゃーーーー! とっても綺麗デス、はぅん……」  翡翠色の蒸し餃子はカエルの形。可愛らしい桃色の桃饅頭。  真っ白でうさぎの形をしたのはココナッツパウダーをまぶしたカスタード餅。  はりねずみの形をした、甘い叉焼の入ったパイ。  黄金色のぱりぱりの薄皮を花びらのように纏った春巻き。  彩りはもちろん、その形まで大変なこだわりで作られている。  「うわっ! カーリンすごいヨ。また腕を上げたネ?」  「ありがとうございます。点心の職人がみたら、笑われるような代物だと思いますが、自己流で見よう見まねで作ってみました。  このような点心は、女性にはとても喜んでいただけるので」  「本当に食べるのがもったいないくらいデス。しっかり味わっていただきマスね?」  テーブルにはお茶が運ばれてきた。ジャスミンの花茶だ。  ガラスのポットの中で、ゆっくりと花が開く様子を楽しみながら、点心を味わう。  「はうー。のだめ大満足デスよ。  カーリンにもRuiにも感謝デス!」  「喜んでもらえてよかったヨ。  ワタシも一人旅では、ここまでいろんなもの食べられないから、ノダメサンのおかげで大満足だよ」  いろんな話も聞いてもらえたし、あのとき思い切って誘ってよかったヨ。  「ん? まだ肝心の、Ruiのお相手を聞けてないデスよ?」  「え? またそこに戻る?」  「もー誰なんですか? 正直に白状してくだサイ?」  「えー?! 恥ずかしいよ、困るヨ、勘弁してよぉ〜」 ------------------------------  ジャスミン茶を飲みながら、点心を完食。最後のデザートが運ばれてきた。  真っ白の、何も飾り気のないシンプルな器に、真っ黒な液体が注がれている。  「うぅ、これは……」  そっと鼻先を近づけてみると、甘い黒ゴマの香り。  スプーンですくってみれば、濃厚なとろみに期待が高まる。  「はぅん……黒ゴマのお汁デスね?」  その中には、真っ白でぷるぷるの白玉餅。餅を一口で頬張れば、餅の中にはさっぱりとしたしょうが味の餡が入っている。  「うん、黒ゴマの汁の濃厚で優しい甘さに、しょうがの味がさっぱり。  最後まで手抜きなしだね、カーリンは」  「本当に。これを一人で作ってくれただなんて、のだめ本当に感激デス。  カーリン、ありがとうございました」  「こうして、お客様が喜んでくださって、それを直接伺える喜びがあるから。  私こそ、このように喜んでいただいて、綺麗に召し上がっていただいて、ありがとうございました」  カーリンは、にこやかに微笑み、二人の若い音楽家に心からの感謝を伝えた。  「カーリン、もしできれば、滞在中にもう一度、軽くランチでいいからお願いできないカナ?」  「ごめんなさい、無理なんです。明日にはフランスに行かなければならなくて」  「え? お仕事かなにかデスか?」  「ああ、カーリンはフランスにご主人がいるんだヨ」  「ええっ! フランスと香港に分かれて、結婚生活を送ってるんデスか?」  カーリンはフランスで料理を学んでいるときに知り合ったフランス人男性と交際を始め、その後、香港に戻ってからも遠距離で交際を続けていたが、このプライベートレストランを始めた時、彼との結婚をきめたのだという。  「フランスでとか、香港でとか、どちらかの国で一緒に暮らすことは考えなかったのデスか?」  「お互い仕事の都合で、彼はフランス、私は香港にいることに意味があったの。  人間って、すごく弱くて、あっという間に流されちゃうでしょ?  距離とか、時間とか、物理的なことを理由に、自分たちの本当の気持ちには目をつぶって、大切なことを二の次にしてしまうから。  でも、私にはどうしても彼が必要で、彼も私のことを同じように思ってくれたから。  流されないように、遠く離れてる私たちを留めておく、碇みたいなものかな、結婚って」 ------------------------------  プライベートレストランで濃厚な時間を過ごした二人は、いつもより早めにお互いの部屋に分かれた。  のだめは、最後にカーリンから聞かされた結婚についての話をずっと考えていた。  なかなか一緒にいられない二人。時間や距離を理由に逢えない時間が増えていくこと。  まさに自分と真一にもあてはめられる話であった。  結婚はいつかするのだろうけど、そのタイミングがわからない。  左手薬指には、真一からもらった約束がしっかりと残されている。  いつか自分からしたプロポーズは冗談と軽く流されてしまったけど、あのプロポーズは、音楽と真剣に向き合い続けることに嫌気がさした、自分の現実逃避だった。  あの時、真一が真に受けなくってよかったと、今なら言える。  なにより、真一の音楽が大好きで、そばにいられないことを覚悟してでも、彼が飛び立てるように背中を押したあの日。  結果的には、その後もずっと一緒にいられたのだけれど……。  だからこそ、絶対に彼の邪魔だけはしたくないのだ。  真一の勉強とかキャリアアップとか、それとのだめとの結婚のタイミングを彼がどう思っているのか、まったく見当がつかない。  そもそも約束なんて、かなえられる保証はあるのだろうか?  逢えない時間と、離れた距離に、このまま流されていくことだって……。  ネガティブな思考の渦に巻き込まれそうで、そんな思いを振り払うかのように、力いっぱい頭をぶんぶんと振る。  とにかく明日の朝、千秋先輩に電話しなくちゃ……。  繰り返す思考を強制的にストップさせて、ベッドに潜り込んだ。  十四.打電話  「もしもし、先輩?」  無理やりベッドに潜り込んだものの、明け方まで熟睡することもできず、早朝に諦めて起き上がることにした。  朝の六時、真一のいるマイアミは二十時くらいだろうか?  「おう。元気か?」  「今、大丈夫ですか?」  「ああ、さっき夕飯たべて、部屋に帰ってきたところだから。  そっちはどう?」  「昨日はのだめ一人で香港の街をいろいろ歩いてみたんデス。  博物館に行ったり、市場を探索したり、お買い物もたくさんしまシタ。  夜はRuiにプライベートレストランに連れて行ってもらって、それはもう美味しいものをたくさん頂きました!  すっごく楽しんでマスよ?」  「そっか……楽しんでンだな」  「……先輩はどうデスか? 順調ですか?」  「うん。明日午後からゲネプロで、明後日は本番」  淡々と会話が進む。  お互い、言いたい事を胸のうちに秘めたまま。  電話でなんか話しているのではなくて、顔が見たい、触れたい、抱きしめたいという思いでいっぱいになって、次第に言葉は出てこなくなる。  「……」  「……」  沈黙を破ったのは真一だった。  「……あのさ、昨日Ruiに言われた」  「なんてデスか?」  「俺が素直じゃないって……。  お前に逢いに来てほしければ、逢いに来て欲しいって、素直に言えばいいのにって……」  「……そデスか……」  「……うん……」  「……(だから?)……」  「……(だからって……うぅ、言えねぇ)……」  重い沈黙に、昨日から脳内を占める事柄について、のだめは思い切って口にした。  「……昨日行ったプライベートレストランのオーナーシェフは、カーリンさんという女性なんデスが、香港で仕事をしながら、フランスに住むご主人と遠距離結婚をしているんデス」  「……それはすごいな……」  「……はい。  カーリンさん言ってまシタ。人間は弱いからあっという間に流されてしまう。  だから大切な人との関係を続けるためには、流されないように碇《いかり》が必要なんだって……」  「……碇……」  「のだめと真一クンにも必要なんでしょうか?碇」  「……」  「今だって真一クン、のだめに逢いに来いって言えないんデショ?」  「……うっ……。そ、そんな事……ねえよ……」  「ちゃんと言ってくだサイ?  言ってもらわないと、のだめ、わかんないデスよ?」  「……そ、その……。あ、逢いにくれ……ば?……」  「もぉーーーーー、なんで疑問系ね?!   俺様なら俺様らしく、貫き通したらよかろーもんっ!」  真一のあまりのヘタレぶりに、ひさびさに大川弁でキレまくるのだめ。  そんなのだめに、逆ギレしながらも、まんまと言葉を引き出される真一。  「あぁぁぁーーーー! わかったよ、言えばいいんだろっ!  逢いに来いって言ってんだよ! これで満足かよっ!」  「あへぇ〜、久々の俺様で破壊力バツグンでシタ。今日はぐっすり眠れそうデス」  今回も、まんまとのだめにやられてしまったと気付くも、時すでに遅し。(連敗記録更新中)  「……お、おい。それでこっち来るのかよ? どうなんだよ?」  「えとデスね、明日まではホテルを押さえてあるので、明後日まで香港にいマス。  先輩だって、明後日の本番終わったら、翌日には移動なんデショ?  のだめ、到着早々移動とかヤですモン。  先輩の移動先で逢いまショ?」  「はぁぁぁっ?!   なんだよ、人が恥ずかしい思いして言ってやったのに!  本番はどうでもいいのかよ……。  ……はぁ……、お前ってそういうヤツだよな……」  「そのかわり、移動先にはずっと一緒にいてもいいデスよね?」  「……え……、仕事中、かまってやれねーけど、いいの?」  「しょうがないデスね。  寂しがりやの夫のためデスから、妻は一人で待っててあげマスよ? ゲハ」  「……誰が夫だ……」  「がぼん……ツッコミに威力がありマセン。  はぅん、やっぱり今すぐ駆けつけなくちゃだめデスかね?」  「ち、ちげーよ。いいよ、ヒューストンからで……」  実はうれしすぎて、ツッコミが弱くなってしまったとは意地でも言えない。  でもなんだろうか。  しばらくのだめが自分のそばにいてくれると分かった時の、この安心感は。  「そういえば先輩、ヒューストンって、ヒューストン交響楽団ですか?」  「そうだけど?(フェスティバルのかなりカジュアルな演奏会だけど)」  「ぎゃぼっ! メジャーじゃないデスかっ?! 大丈夫なんデスか?」  「……お前……。俺をなんだと思ってンだよ……」  「えと、むっつりのメジャーリーガー?」  「おいっ! お前、こっち来たら覚えてろよ?」  「ぎゃぼっ!」  こうやって、いつものように軽口を叩いて……。  なにが『おっぱい星人としてNASAに捕まえられないデスかね?』だ!  お前こそ、地球外生物だろうが!  なかなか素直になれない俺を、いつものペースに戻してくれるのはアイツだったりする。  ヒューストンでの再開を約束して、俺たちにしては長い電話を切った。  十五.半島酒店  真一との電話を切り、久しぶりにゆっくりと湯船につかる。  旅に行くときには必ず持参するバスオイルの中から、クール系をチョイス。すこし寝不足気味の頭をスッキリさせる。  もやもやはまだあるけれど、とにかく次の行動は決まった。  あとは、今日一日、香港での休日を精一杯楽しもう。  「Rui〜! のだめ、お腹空きまシタ!早く朝ごはん食べにいきまショウ!」  「うぅ……、昨日あれだけ食べたのに、ほんと底なし胃袋ダネ……」 ------------------------------  ピーピーと煩いのだめを連れて、 MTR で中環へ。  香港独特の茶餐廰《チャーチャーテン》と言われるローカルなお店へ。  茶餐廰とは、中華、洋食、お粥、麺、ご飯と、ファミレスのような品揃えの便利なレストランらしい。  「この『檀島』はすごいヨ。喫茶メニューから、定食やら、ご飯モノ、麺モノ、夜は本格的なお鍋やら、ここで出せない料理はきっとないと思うヨ」  間口は狭いが、うなぎの寝床のように奥行きがあり、よく言えばレトロ風(正直に言えば古臭い食堂風)カフェスタイルの席が並べられているが、壁面に『いけす』も兼ねた水槽が並んでいる風景は異様だ。  店先にはベーカリーもあって、外買《オイマイ》(テイクアウト)をして出勤していくOLやサラリーマン風の人たちも見える。  「むきゃー! メニュー多すぎデス。オススメはなんデスか?」  「そうだねぇ〜。オススメはやっぱり蛋撻《だんたっ》かな?  せっかくベーカリーがあるんだから、ほかにもパイナップルパンとか、芒果包(マンゴーパウ)とか叉焼包(ちゃーしゅーぱう)とか、焼きたてを食べたいネ。  あと、香港の喫茶メニューっていったら、[女乃]茶《ないちゃ》だよね。ミルクティーなんだけど、とにかく紅茶もミルクも濃くってクセになる美味しさなんだよネ。  檀島名物の珈琲も、エバミルクが入った、カフェオレとはまた違った味で美味しいンだよネ」  Ruiのアドバイスにしたがって、ふたりはパイナップルパンと卵料理の朝定食を選ぶ。  Ruiはバターを挟んだパイナップルパンに目玉焼きに檀島珈琲のセット。  のだめはパイナップルパンにスクランブルエッグを挟んだものに[女乃]茶のセット、そのほか、蛋撻に芒果包も注文する。  蛋撻とは、一時日本でも流行ったエッグタルト。芒果包とは、マンゴーを練り込んで焼いたパンの事らしい。  「パイナップルパンって、パイナップルが使われているんデスか?」  「うぅん、パイナップルは一切入ってなくて、単純に見た目だけのネーミングみたいよ。ていうか、日本に行ったときに食べた、メロンパンにとっても似てると思うヨ」  おそろいの制服を着た店員が食事を運んでくる。  「む〜ん、[女乃]茶って濃厚で美味しいデスね〜!  パイナップルパンも、表面はパリパリで、中はふんわり、ほのかな甘みが美味しいデス!  ん? でも一番はこの蛋撻デスね! 卵の濃厚なカスタードクリームがぷるぷるで、パイがサクサクで絶品デス! むきゃぁ! 幾らでも食べれそうデス」  実際、のだめは蛋撻を二つおかわりし、きれいに平らげた。 ------------------------------  「ノダメサン、相変わらずすごい食欲ダネ。ちょっと腹ごなしに散歩しようヨ」  檀島を出て、やってきたのは上り坂に出来たエスカレーター。  「これ、なんデスか?」  「ヒルサイド・エスカレーターっていって、世界最長のエスカレーターらしいヨ。  ミッドレベルっていう高級住宅街まで、ずっと上り坂だから、住民のための足ダネ。でも、一方通行だから、時間で朝十時までは下り、その後は上りだけなんだけど」  ヒルサイド・エスカレーターに乗って、眼下の街並みを見渡す。ごちゃごちゃとした商店や、老朽化したアパート郡が終わると、オシャレなショップが多くなってくる。  途中下車して、また少し坂道を登り、昨日行きそびれたGODという雑貨屋さんに連れて行ってもらう。  中華テイストを取り入れた、シンプルモダンなインテリア雑貨が多い。遊び心いっぱいのキッチュな雑貨もある。 [喜喜]という文字をモチーフにした、箸や箸置き、ナプキンホルダーなどに引かれる。  「Double Happiness<_ネ。幸福が訪れてくれるヨ、きっと」  「ほわぉ……。そですね、ぜひ家で使いマス」  このあたりはソーホー・ノーホーと呼ばれるエリアで、GODのほかにもインテリア、雑貨、洋服などを扱う、趣味がよくてこじんまりとした店が多い。  オシャレなカフェやレストランも多く、イタリアン、フレンチ、メキシカンなど多国籍な雰囲気。  「うわっ! レニー・Kがあるよぉ! ノダメサン、ちょっと覗いてもいいよネ?」  Ruiのおねだりが出る。  香港の若手女性デザイナーのお店らしい。中には、一つとして同じデザインがみつからないほど、さまざまな色、形、デザインの斬新なお洋服が並ぶ。  カジュアルなものもあるが、多くはゴージャスなデザインで、パーティーに来ていけるようなお洋服ばかり。  モダンな素材に、ビンテージだろうか、美しい中華風の刺繍の生地を大胆に組み合わせてたものが見事だ。  「Ruiが着たら似合うでショウね」  「そおぉ? やっぱり? フランス人男性もこういうの好きかナ?」  「え? フランス人デスか? そですねぇ、フランス人男性といっても、いろいろデスけど、Ruiの美しさを引き立てるようなお洋服であれば、どんなものでもいいんじゃないデスか?」  なんでフランス人男性? 鈍いのだめにはまったくピンと来ないようだ。  Ruiはあまり役に立たない連れに、そっとタメイキをついた。 ------------------------------  買い物をしながら、中環駅まで下りてきた。ちょうどやってきたトラムに乗り込み、移動。  Ruiに連れて来られたのは、古い商店が続く、乾物街だった。蝦、貝柱など、中華料理には欠かせない美味しいだしをとってくれる乾物が並べられ、量り売りされている。  「安くて質のよい乾物が買えるヨ。ノダメサンも買っていって、千秋においしいスープでも作ってあげたら?」  「イエ。のだめは千秋先輩から料理禁止令が出ているので。でも、これで美味しい中華を先輩につくってもらえマスね?」  香港で使われている斤(ガン)という単位は、グラムでいえば一斤が六百グラムくらい。ふたりはあれこれ一斤づつ購入し、シェアすることにした。  乾物街の中には、高級な干しアワビ、燕の巣などだけ取り扱うおみせもあり、一つずつ箱に収められ、ガラスケースに並べられている様子は、さながら宝石店のようだ。  Ruiが「香港に来たら必ず寄る」というお店は、古臭い乾物街にはめずらしく清潔でシックな店構えで、ガラスのとびらを開け中に入ると、カラフルな色と、甘い香りが広がった。  「むきゃーーー! フルーツパラダイス!」  ドライフルーツの専門店で、梅や杏、マンゴー、レモンなど、さまざまなフルーツが色とりどりに並ぶ。  量り売りもあるが、食べやすくキャンディーのように個包装され袋詰めになったものもある。  「この、ホシウメのハチミツ漬けが美味しいんダヨ! 大きくて一度口に入れると長持ちするから、麻雀してるときにいいんだよネ!」  「え、Rui、麻雀するんデスか?」  「当たり前ダヨ! 麻雀は中国人の魂ダヨ!」  「……」  「このレモンの皮の砂糖漬けもオススメだよー。意外な美味しさでクセになるんだよネ」  いろいろと試食をして、いくつか気に入った物を袋で購入し、店をあとにする。 ------------------------------  「ノダメサン、小腹が減らない?」  「小腹どころか、お腹ペッコペコデス」   MTR に乗り、尖沙咀へ。  世界でもトップランクに入る、香港を代表する五つ星ホテル、ペニンシュラホテルへ。  「ほわぉ……、なんか空気が違いマスね……」  有名ホテルだが、エントランスやホテル内ですれ違うスタッフたちは、みな人懐こい笑顔で声をかけてくれる。  格式は高く最高のサービスが受けられるが、けっして敷居は高くない。これが一流にして真の一流たらしめるペニンシュラのポスピタリティなのだろう。  「ここが有名なザ・ロビー<_ヨ」  プリンセスになったような気分でテーブルまで案内され席につくと、店内を見渡す。  「ほわぉ……天井が高いです……」  ふかふかの絨毯、程よい空調とわずかに鼻腔をつくフレッシュな香り。クラシックで重厚な空間が、不快なものはすべて吸い取って浄化してくれているような雰囲気。  ボーイは静かに近づき、二人の邪魔にならない程よい距離で、静かに微笑みこちらをうかがう。  Ruiが二人分のハイティーを注文すると、また静かな微笑みをうかべ、準備のために下がった。 美しく盛り付けられたスリーティアーズ、銀のティーセット、適度に暖められたカップがセッティングされる。  まずはほんのり温かいスコーンにクロテッドクリームをたっぷり。  「はぅん……、言葉がありまセン……」  中段にはサーモンサンド、キッシュ。上段にはチョコと季節のフルーツのプチケーキ。  そして、ペニンシュラのハイティーでは特別に、デミタスカップ入りのティラミスが別に運ばれてくる。  「ほどよい苦味のシャーベットに、濃厚マスカルポーネのティラミス。最高デス……」  ザ・ロビーストリングスの奏でる『Love is a Many-Splendored Thing』が心地よい。  「この曲、香港となにか関係があるんデスか?」  「香港を舞台にした『慕情』っていう映画の主題歌ダヨ。中国系ハーフの女医の自伝をもとにした映画なんだよね。  まぁ、悲恋のお話なんだけど、ワタシなんかは主人公の女性の複雑なアイデンティティーに興味を持ったカナ?  第二次大戦後のお話だから、時代背景とか女性の考え方とか、ちょっと理解困難な部分もあるんだけどね」  「悲恋デスか……」  「でも、主演のジェニファー・ジョーンズの身につけるチャイナが美しいンダヨね。香港の景色は、今とはまったく違うけど」  「いつか機会があったら見てみたいデス。とってもステキな音楽だし」  さりげなくカップに注がれた紅茶を味わいながら、もう一度心地よい生演奏に身を委ねる。  「明日、千秋先輩のところに行こうと思ってマス」  「へぇぇ……」  「Rui、いろいろアリガトゴザイマス」  「ワタシは別に何もしてないヨ?」  「千秋先輩が、Ruiに『素直じゃない』って言われたって……」  「ふふふ……。千秋ってば、ワタシをダシに気持ちを打ち明けたんダネ?」  やっぱり素直じゃないネー。  Ruiはトレイに一つ残っていたストロベリーマカロンを一口で頬張り、くっくっくっと笑うと、いたずらっ子のような目でのだめを見つめた。  十六.廟街  香港での最後の夜は、尖沙咀からネイザンロードを油麻地《ヤウマーデイ》まで進み、ローカルな麺屋やスイーツ屋を梯子して胃袋を満たす。  廟街《ミウガイ》のナイトマーケットをひやかし、チープな小物、アクセサリーなどを店主を相手に値切ったりしてショッピングを楽しんだ。  「ノダメサン、占いとか興味ある?」  「占い……デスカ? 興味あるようなないような……」  「廟街にはすんごく当たる占い師がいるんだよネ。  どう? 千秋とノダメサンのこと、占ってもらったら?」  ええ? のだめはいいデスよー! と抵抗も空しく、半ば強引にRuiにひっぱられるように連れてこられた露店。  座らされた前には、どこにでもいそうな人のよさげなおじさん。ふわっと微笑まれた途端、すべてを悟られたような、包み込まれたような気分になり、その場から動けなくなった。 ------------------------------  Ruiはぼそぼそと広東語でおじさんと会話しながら、生年月日を書くようにとのだめに小さな紙切れを渡し、またおじさんと会話を続ける。  おじさんは一瞬、のだめと目を合わせ、促すように微笑むと、すっと真剣な表情にもどって、Ruiの顔や手を覗き込んでは、何かしらRuiに話しかけている。  のだめは言われるがまま、生年月日を書き込むと手持ち無沙汰になり、 Rui とおじさんを交互に眺める。  おじさんは穏やかながらも真剣な表情で、ぼそぼそとRuiに声をかける。だんだんとRuiの表情が惚けたように緩み、顔は熱を出したように赤らんでいくのがわかる。  「Rui、どしたんデスか?」  「……なんでもないヨ……」  Ruiは恥ずかしそうに、それでも満足げにおじさんにお礼らしき言葉を言うと、のだめの生年月日が書かれた紙切れをおじさんに渡し、席をのだめと替わる。  おじさんは紙切れを覗き込みながら、手元の中国語の分厚い本をぱらぱらとめくり、なにやら紙に字や数字を書き込んだりしている。  しばらくして顔を上げると、先ほどの穏やかな微笑みを浮かべながら、のだめの瞳を覗き込む。手のひらを上にし、のだめの前に差し出す。  何も言われなかったが、自分の手のひらを乗せろということだろうと理解し、恐る恐る手を差し出した。  おじさんは、「ホゥ……」と呟くと、のだめの手のひらを真剣に覗き込み、感心した様子で顔をあげ、Ruiに広東語で話しかける。  Ruiは相槌をうちながらしばらくおじさんの話しに耳を傾ける。のだめはドキドキしながら、Ruiからの言葉を待った。  「まず……、よく頑張りましたねって」  「え……」  「自分のこともそうだけど……、あなたはたくさんの人にとても影響を与える運命を持ってるって……」  「……のだめが、デスか?」  のだめはそこで、おじさんの顔を覗き込む。おじさんは満足げな表情で、大きくうなずく。  「その中でも、何人かの人にとっては、運命を切り開く重要な役割を持っていて……、その大きな宿命というか、仕事をすでにやり終えたところだって」  想像もしていなかった話に、心から驚いてしまい、のだめは言葉が出てこない。  「あのぅ……、のだめの人生はもう終りってことデスか?」  Ruiはちょっと呆れたような表情を見せつつ、おじさんと少しだけ言葉を交わすと、のだめに優しい笑顔を向け、話し続ける。  「人のために頑張ってあげる役割はひと段落ってことらしいヨ。これからは少し休息して、自分の楽しみとか、人生とか、伴侶とか子供について時間を使うことになるって」  「……伴侶……子供……」  「要するに、結婚?」  「がぼん……」  のだめは昨夜、もんもんとループしていた言葉をはっきりと告げられ、顔を真っ赤にしてもじもじと手元のバッグの取手を弄ぶ。  「でも……、のだめ、人のために頑張ったなんてつもり、全然ナッシングですヨ?  今だって楽しんでるし、音楽だってとっても楽しみまシタし……。  それに……、結婚しろって言われても、自分一人じゃできないことデスし……。こ、子供だって……」  はぅん……、こ、子供って……。  おじさんが、いたずらっ子のように微笑んだかと思うと、Ruiにまた話かける。  Ruiはうん、うんと頷いていたかと思うと、何かを思い出したようにクスっと笑うと、のだめに向き合う。  「まぁとにかく、ノダメサンがどう感じていようが、人生のターニングポイントに立っているって事らしいヨ。  それから、結婚相手についても、ノダメサンは一人じゃないでしょ?」  ほら、その左手薬指のカワイイ系のハートダイヤモンドにルビーのリングとか。しっかり決まってるジャン?  そういってRuiはのだめの身体をからかうように肘でつつく。  「あとね、ノダメサンの大切なお相手については、決してあなたが振り回したりなんかしていないから、安心して、堂々としていなさいって」  「はぅぅ……」  おじさんからは、最後に『とにかく自分の思うように、気持ちのまま進みなさい』と、強く背中を押されるように、かといって押し付けがましくもなく、あの穏やかで優しい笑顔がやっぱり太極拳のようだと思いながら、熱に浮かされたように廟街をあとにした。 ------------------------------  ホテルのある旺角にもどる途中、念願のオタクビル『信和中心』に入る。  プリごろ太グッズを漁っていても、なんだか結婚という言葉がちらついてしまい、いつものように夢中になれない。  それでも、今後のために広東語をマスターしようとプリごろ太の広東語版DVDと、昼間ペニンシュラで聞いた音楽が気に入ったので、映画『慕情』の廉価版DVDを購入し、ホテルまで戻った。  十七.機場  一週間ぶりに香港国際空港へ戻ってきた。  すでにチェックインは九龍駅で済ませていたので、Ruiものだめもお互いの搭乗時間ぎりぎりまでのんびりと過ごす。  すっかりお気に入りになった、空港の許留山で念願のマンゴープリン(燕の巣とココナッツアイスの乗った豪華版)を頬張る。  「ノダメサン、香港の休日はどうだった?」  「ふがふが……。最高デシたよ!  Rui、本当に誘ってくれてアリガトゴザイマシタ!」  のだめは、口いっぱいのマンゴープリンをあわてて飲み込むと、改まって Rui にぴょこんとお辞儀をする。  才能溢れる世界的なピアニストで、鬼だけどイイ男をフィアンセに持つ妙齢の女性とはとても思えない、そんなのだめの仕草に温かいものを感じながら、Ruiはクスリと笑ってこたえる。  「こちらこそ、ノダメサンのおかげで大好きな香港をたっぷり楽しめたし、念願のお礼も、ほろ苦い思い出話もできて、私こそ最高だったヨ! ありがとう」  「絶対、また近いうちに香港にキマス。ごろ太広東語版も手に入れたんで、次回は広東語マスターして、怖いものなしデスよ!」  またいろいろ教えてくだサイね? と、無邪気な笑顔を向けられ、心地よい優越感と満足感に包まれた。  なぜこの女性がこんなにも魅力的で、たくさんの友人や音楽界の重鎮たち、そしてあの男の心を捉えるのか、やっと理解できた気がする。  「ノダメサン、今度はおなじピアニスト仲間っていうだけじゃなくて、一人の友人として香港で逢いまショ?」  「はいっ!」  今度会ったときは、Ruiの恋人のこと、教えてくだサイね? といたずらっ子のような笑顔を向けられ、『そのうち……』と照れながら、先に搭乗時間が迫ったRuiが席を立つ。  「じゃあ、また」  「はい、またパリで」  こうして、ピアニストたちの香港での休日は幕を閉じた。 ------------------------------  そのころ、少しでも長く、恋人と一緒の時間を過ごしたいと考えていた千秋真一は、苦手の飛行機で恐怖に震えながら、ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港に到着した。  いつまでたっても慣れない自分にイラつきながら、もう数時間でひさしぶりに愛しい恋人に逢えると思うと、全身に温かい体温が戻ってくるのを感じる。  一足先にホテルにチェックインし、軽くシャワーを浴びて、体力気力とも回復すると、携帯に手を伸ばす。  "SENPAI! KOREKARA HIKO-KI   NORIMASU.   16JI TO-CHAKU YOTEI DESU.   KU-KO-DE AE MASUKA?"  ベッドサイドに置かれたクロノグラフを身につけ、時計の針が十五時を回ったことを確認すると、緩む頬をそのままに、ホテルの部屋をあとにした。  十八.Houston一  のだめがジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港に到着すると、半年ぶりに逢う恋人は、少し照れたような笑顔で迎えてくれた。  「ほら、荷物……」  「ありがとデス!」  逢えた喜びを満面の微笑みで表現する、一つ年下の恋人。  無言で手を差し出せば、女性にしては大きめの手のひらを素直に自分に委ねてくる。  そんな何でもない事が、とても幸せだと気付く。  空港から劇場近くのダウンタウンにあるホテルまで三十分ほど。荷物を置き、一息つけば夕食の時間だった。  「飯食うか?」  「はいっ! お腹すきまシタ!」 ------------------------------  長距離の移動で疲れているだろうと、ホテル内のダイニングで済ませることにする。  テーブルに案内され、早速よく冷えた白ワインで久しぶりの再会に乾杯する。  前菜が運ばれ、一息ついたところで、真一はのだめが今話したいだろう事について、振ってやることにした。  「香港、どうだった?」  「すっごく楽しかったデスよ! オフのうちにもう一度行こうと思ってるくらい」  「え?」  「Ruiがハマるのもわかりますヨ〜! 食べ物は美味しいし、街歩きも楽しいし」  そだ、真一クンも一緒に行きまショウよ? 真一クンにも食べさせたいもの、いっぱいデスよ。海鮮とか、スイーツとか……。  ホテルのダイニングとはいえ、今食べてるのもそこそこ美味しいヌーヴェル・キュイジーヌなんだが……。  香港で食べた美味しいものを、あれこれと興奮した様子で話す恋人に苦笑いしつつ、よほど楽しかったのだろうと、自分のことのように喜んでしまう。  コロコロと耳に心地よい、鈴の音のような恋人のかわいい声が心地よく、久しぶりにリラックスしていることに気付く。 ------------------------------  部屋に戻っても、土産物を広げながら香港話に夢中の恋人を、やっとのことで黙らせて抱きしめることができたのは一時間後。  「わかったから……、もういい加減にしろ」  「むきゃ? 真一クン、甘えんぼう?」  「うるさい……」  その柔かい身体を腕の中に抱きしめ、誘われるまま桜桃の実に唇を寄せる。  たっぷりと時間をかけて味わえば、恋人はぐったりと力が抜けて、自分にその身体のすべてを委ねてくる。  「もう……真一クンのムッツリ……」  疲れているだろうからと、休ませてやりたいと思う気持ちとは裏腹に、恋人がかわいい寝息をたてたのは、もう明け方近くであった。 ------------------------------  翌日から、オケとの打ち合わせやらリハーサルやらで、真一はのだめを置いて仕事に出かける。  のだめのことが気にならないわけではないので、空いた時間に携帯に連絡をするが、のだめはのだめでダウンタウンの劇場などが集まる周辺を観光したり、楽しんでいるようで。  仕事が終われば一緒に食事をとり、その柔かい身体を腕の中に抱きしめて眠る。  ここ一年間のたっぷり溜まった疲れが、嘘のように消え去り、最近にはないほど、仕事に集中できている気がする。  「今日はヒューストン宇宙センターに行ってきまシタ! ロケットは見れたんですケド、横に寝転がってるだけなんデスよ?  ほかには管制室とか、ああっ! パイロットが訓練してるとこなんかも見られまシタ!」  月の石って、そのへんの石ころっと一緒でしたヨ? と、一人でもすっかり楽しんでいるのだめの話を聞いているのはちょっと複雑だけど、一日仕事で緊張した神経がリラックスしていくのを感じる。  「パイロットの訓練、すごかったデスよ?! 並みの運動量じゃないデスね!」  なんて、興奮気味ののだめをひょいっと横抱きにして、バスルームへ。  「むきゃ? どういう流れデスか?」  「ん? 無重力体験と、適度な運動?」  「ぎゃぼっ! むっつりの大気圏突入?!」  「ぶっ! 意味わかんねーし」  もう黙れよ……と、うるさい恋人の唇をキスで塞げば、あっという間に腕の中でとろけていった。 ------------------------------  五日間の滞在予定も、気が付けば最終日。真一の本番を迎えていた。  ハーマンパーク内にある、野外劇場ミラーシアターでのカジュアルな演奏会。  本番前の少しの時間、真一はのだめと二人、公園内をのんびりと散策して過ごした。  この一年間で、こんなに穏やかな気持ちになれたことってあったか?  俺、いろいろ限界だったのかも……。  結婚≠チてこんな感じかな。  「いいもんだな……」  「むきゃ? 思い出し笑い? さすがむっつり……」  思わず零れた笑みを、その根源である恋人に目ざとく見つけられて、照れくささに力いっぱい抱き込むと、そのまま綺麗に刈り込まれた芝生の上に寝転んだ。  「真一クン……、ここ屋外デスよ?」  「そうだな……」  なんだかテンションおかしくなってンだよ……。  マイアミとか、ヒューストンとか移動してるからじゃねーの? と、自分の日ごろからはありえない行動を場所のせいにしてみる。  「今夜本番終わったら……。俺またイタリアに戻るけど……」  お前どうするんだ? と訊ねる前に、のだめはケロッとした様子で答える。  「はい、おベンキョ頑張ってくだサイね? のだめはこの五日間でしっかり充電できまシタから……」  きっと、しばらく大丈夫デス≠ネんて、うっとり満足気な微笑みを浮かべる。  パリに一度帰って、ヨーダに音楽祭の報告しなくちゃとか、ニナにも呼び出されてるんですケドなんでショウ? とか、無邪気におしゃべりを続ける恋人。  まだオフ続くんだろ? とか、一緒にイタリア行けばいいじゃん? とか、お前のこと、ヴィエラ先生にも紹介したいしとか……。  ぼんやりと浮かんでいた計画は口に出せないまま。  明日にはまた、この柔かいぬくもりを手放すことになる。  「ぎゃぼっ!」  真一はのだめを抱きこんだまま、身体を反転させて、のだめの胸に顔を埋めると、気付かれないようにそっと溜息をついた。  十九.Houston二  心地よい夜風が、ちょっと火照った頬を撫でてゆく。  昼のオレンジと夜のダークブルーが交じり合う、夕闇の美しい地平線をバックに、オーケストラのチューニングが始まる。  ほどなく、愛しい恋人が、普段の公演より幾分カジュアルなスーツで舞台上に現れる。  「はぅん……、燕尾以外も素敵デス……」  舞台上にはピアノがセッティングされていて、自分ではないピアニストと一緒に登場した指揮者の恋人。  そんな光景に動揺しなくなったのはいつからだろう?  音楽の事と割り切っていても、真一が絡むとドロドロとした嫉妬のような自分勝手な感情に心を支配されて、冷静ではいられなかったコンセルヴァトワール時代。  シュトレーゼマンに導かれるまま舞台に上がり、音楽も含めた自分のすべてが真一と一緒に……と求めていた事実に気付く。  その目的を失ったまま、迷子になっていた自分を、もう一度引き戻してくれた先輩。  世界中どこでだって、誰とだって、音楽を楽しむことができるって、素直に認めることができた瞬間。  でもその後は?  純粋に音楽を楽しむ事に気付いたけど、女性としての幸せは?  音楽と切り離した時、自分の居場所は?    のだめはいつだって、真一クンとずっと一緒にいたいんデスよ……  ヒューストンの夜風が、夕闇の空が、素直になれと優しくささやきかけている気がする。 ------------------------------  オーケストラが、真一のタクトが、この土地のオーディエンスに馴染みの深い、ミュージカル音楽のメドレーを奏でる。  楽しげに、軽やかに。  地元のフェスティバルのファイナルを飾る演奏会で、オーディエンスの盛り上がりも最高潮。  野外シアターの開放的な雰囲気に乗って、ただでさえノリのよいアメリカ人の観客の作り出す熱気が音楽に共鳴して、夜空に向かって広がってゆくようだ。  演奏者にすれば、決してやりやすくはないだろう野外という環境にも、例年演奏しているオケは慣れているだろうが、この土地は初めてであろう指揮者である真一も、臆することなくオケを導いてゆく。  その表情には、日ごろの演奏会では決して見ることのできないほどの笑顔を浮かべていて、自らも歌っているのだろう、その美しい口元から、時折白い歯さえ覗かせている。  「千秋先輩もやりマスね?」  モヤモヤは胸の奥に押し込んで、のだめは立ち上がると、周りのオーディエンスたちと一緒に、心のまま音楽に身を委ねた。 ------------------------------  あらかじめ決まっていたアンコール曲も終わったのに、観客席からの拍手は鳴り止まない。  Bravo! と歓声が上がり、指笛が鳴り響く。  こんな場所で、こんな曲やってるからか? 俺のテンションもおかしかったんだ。  舞台上に残されたままのピアノとか、心地よい高揚感の中で見回した観客席の中で、嬉しそうに奇声をあげるアイツを見つけてしまったから。  「のだめーーーーっ!」  思わずあげた声に、アイツは驚きながらも嬉しそうに大きく手を振る。  まわりにいた観客の中に、アイツのことを NODAME だと気付いた数名が、舞台に上がれと煽る。  それに乗っかって、俺も腕を大きく振ってアイツを呼び寄せていた。 ------------------------------  戸惑いながらも、嬉しそうに頬を高揚させて舞台下まで押し出されてきたのだめを、身を乗り出して両手でがっちりと掴むと、舞台上へと引きずりあげる。  観客の大声援に後押しされ、俺はすっかり理性なんてものを放り出して、のだめをピアノの前に座らせる。  いつでもどうぞ  アイツのピアノから流れてきたのは、ガーシュウィンの『I Got Rythm』  思いつくままに自己流にアレンジして奏でられるメロディーに、オケが負けてなるものかとノリノリで合わせていく。  挑発的なピアノとオケの掛け合いに俺も気持ちよく巻き込まれてやる。  コイツに合わせられるのは、俺様だけだから。  いつの間にか、のだめのピアノからは『Rhapsody in Blue』の旋律が流れる。  あふれ出す音楽とアイツとの今まで。  もう分かってるけど。  俺はアイツに振り回されてたわけじゃない。  アイツのピアノが好きで、なんとか引き上げたくて、そのために自分が頑張るしかないと思っていたけど、そうじゃなくて。  もう、そんなことじゃなくて、俺がアイツを必要として、そばにいてほしくて。  アイツのピアノとか、俺のキャリアとか関係なく。  こうやって音楽と、観客の歓声に包まれていると、もうどうだっていい、アイツと今すぐ一緒になるって、素直に思えた。 ------------------------------  「アメリカって恐ろしい国デスね……。ハイテンションな千秋真一……」  「お前うるさい……。もう黙れ……」  エアーコンディショナーの効いたホテルの部屋。  心地よく冷やされたシーツの上で、素肌を合わせて腕の中に抱きしめる恋人は、さっきまで全身を桃色に染めて、快楽に我を忘れていたくせに。  そんな余韻が薄らいでくると、のだめは今夜のステージでの出来事に思いを馳せ、『はぅん……』と奇声を漏らしている。 ------------------------------  ステージ上も観客席も大興奮のまま、舞台袖にのだめを連れて戻り、俺はオケの連中に冷やかされることも気にせず、感情のままのだめを抱きしめた。  「はぅん……、真一クン、どしちゃったんデスか? そりゃー、のだめもノリノリで、めちゃめちゃ気持ちよかったデスけど……」  あ、 NODAME 演奏料高いデスからね? 今夜タプーリお返ししてくだサイね? なんて、小悪魔的な発言を浮かれたように紡ぐアイツを黙らせるように、お決まりのキスをして……。  「……帰ったら、結婚するぞ」  俺は、アイツの耳元で、はっきりと宣言していた。  「えっと……。誰とデスか?」  そんな時までふざけたボケをかますアイツの胸ぐらを掴み、いつものように持ち上げてやると、ギブギブっ! 嘘デスってばっ≠ニ抵抗しながらも、何となくアイツの声が鼻声のように聞こえたから、両肩を掴んで逃げられないようにして顔を覗き込んだ。  「げっ。鼻水出てるし……」  ふえっ……ふえっ……≠ニ静かに涙を流すアイツに、な、なに? 嫌なのか?≠ニ、ありえないほど焦りまくる俺に、やっと微笑んでくれた。 ------------------------------  「ずっと一緒デス……」  「……披露宴とかしないからなっ!」  「……むっつりケチ……」  「なっ! 関係ねーだろ、それ……」  二十.心経簡林  翌日、真一は幾分テンションは下がったものの、このまま一緒にイタリアへ行って、ヴィエラ先生に紹介しつつ結婚の報告をと、のだめの事を引っ張って行きそうな勢いだった。  北京から香港、香港からヒューストンと移動の連続で、さすがに疲れもピークに達しているし、荷物だってすごいことになっている。  「オフ、まだ二週間ありますカラ。一度、パリに帰りマス」  イタリアへの飛行距離を想像したのか、恋人はその大きな体を一回り小さく縮めて、子犬のように震えている。  大丈夫デスよ≠ニ優しくささやいて抱きしめる。  「だ、大丈夫じゃねーよ……」  あんまり恨めしそうに見つめられるから、ついイタリアまで一緒に……と思わないこともなかったが、そうすると何となくズルズルとついて行ってしまうことになりそうで、ここはキッパリと拒否することにした。  のだめは震える恋人の大きな体を搭乗口に向けさせると、ぱーんっ! と真一の背中を叩き、渇を入れる。  「いてっ!」  「行ってらっしゃい、アナタ。おベンキョ、頑張ってくだサイ」  幾分迫力に欠けるものの、振り返った真一のにらみつける顔にまったく動じることなく、のだめは良妻スマイルを浮かべると、軽やかに手を振り、送り出した。 ------------------------------  パリに戻ってきた。  一人きりで戻ったアパルトマンは、大量の荷物とか、留守中に溜まった諸々とか、埃が溜まって空気が淀んでいたりとか、うんざりするような状況だったが、今ののだめにはそんなに嫌じゃない。  二週間前、北京から一人、この部屋に帰ることを考えた時の気持ちからは、想像ができないくらいに。  きっと、もう少しすれば、疲れた様子で恋人が戻ってきて、部屋のちらかり様に呆れながら、怒りつつも綺麗に片付けてくれるだろうから。  そして、そんなことがずっと、もうこの先数え切れないくらい、繰り返されるのだと分かったから。  そんな事だけで、自分の心の中にあったモヤモヤが、すべてすっきりと無くなってしまったのだと分かると、なんだか悔しい気もするけど……。  ヨーダに会って、音楽祭やヒューストンでの飛び入り演奏などについて報告したり、呼び出されていたニナのもとを訪れ、お茶を飲んだり。(特に何も聞かれたり言われたりしませんでしたケド、本当になんだったんデショ?)  連絡の取れた友人たちと食事をしたりして数日パリで過ごした。  真一からは二度連絡があり、『いつ、こっちに来るんだよ?』と催促されている。  「もうチョット、このフワフワな幸福感を一人で噛みしめたいというか……」  「はぁぁ?!」  お前、ほんと訳わかんねーなっ! とイラつかれながらも、  「真一クン、愛してます。ゲハ」  と囁けば、電話の向こうでうっ……≠ニ言葉に詰まって、何も言い返せなくなる愛しい恋人。  「しょーがねーなー……。待ってるから」  できるだけ早くこいよ  了解デス!  もうちょっとだけ待っててくだサイね?  のだめは自分の気持ちのおもむくまま、感じるままに行動することにしたんですカラ。 ------------------------------  三週間ぶりに訪れた、二回目の香港。  プリごろ太広東語版で、簡単な日常会話程度は広東語をマスターしてある。  空港に到着した途端、洪水のように流れ込む広東語が理解できるのは、ちょっとした快感。三週間前とは大違いだ。  あれからRuiとは何度かメールのやりとりをして、ヒューストンでの出来事もすべて報告済み。(真一クンには秘密デス)  だって今回、不器用な私たち二人に、素直になってと背中を押してくれたのはRuiだから。とっても感謝してるんデス。  それに、ここ香港。美味しいものをたくさん食べて、Ruiと打ち解けて、いろんな話をして……。  そんな気分にさせてくれたのがこの場所だったから。  Ruiに報告するのと同じように、香港にもお礼参りデス。  残念ながら、スケジュールの都合がつかず、Ruiと一緒じゃないのは残念ですケド。メールでいろいろオススメの場所とかレクチャーしてもらっているので、無問題デス! ------------------------------  ホテルにチェックインし荷物を下ろすと、 MTRで東涌《トンチョン》駅へ行き、昴坪《ゴンピン》三六〇と呼ばれるゴンドラに乗る。  本当はここ、真一クンと一緒に来たかったんですケド、絶対無理デスね。全長六キロ弱を結構な高さ、空中散歩ですカラ。  くっきりと晴れ渡って、眼下にはランタオ島と海が広がる。  二十分ほどでゴンピン・ビレッジ駅に到着。寶蓮寺の東洋一大きな大仏様が見えてきますが、のだめの目的地はここではありまセン。  トレッキングコースに沿って進むと現れたのが心経簡林と呼ばれる場所。現世とは思えない、不思議な空間。  山間に沿ってつくられた道に、等間隔で並ぶ三十八本の木簡。見上げる高さは真一クンの身長の二倍くらいでショウか?  それぞれに般若心経を一行ずつ掘り込まれ、∞を描くように並べられていマス。  もやの立ち込める山間を、木簡を一本ずつ見つめながら進むと、美味しい空気と美しい景色に、心が洗われるよう。  その中に、一本だけ何も書かれていない、木簡がありまシタ。  空(クウ)  「……色即是空 空即是色……」  広大な山の背後には、どこまでも広がる空。  のだめの体が分子レベルで溶け合って、広がっていくのを感じマス。  これから、のだめと真一クンにもいろんな事があるでショウね。  でも、どんな時でも、この広い空を見上げて、溶け合わせることができるから、いつも一緒だって思えるカラ。  きっと、大丈夫 ------------------------------  前回、のだめと電話で話してから一週間。そろそろ、オフの残り日数も数えるほどのはず。  ヒューストンで気持ちも心もマックスに開放した俺は、照れはあるものの、気持ちを抑えることが難しくなっている。そんな事実がとても恐ろしい。  あんまり急かすのもかっこ悪いだろと思いつつ、でもこれ以上は待てない気分だ。  俺、十分待ったよな? と自分自身に問いかけ、うっとうしいくらいイチャイチャするジャンとゆうこにイラつきながら、今までこんな気持ちになったことなんかなかったのにっ!≠ニ自分の気持ちの変化を再確認して、のだめの携帯を呼び出した。  ……pupu、pupu……。  「Wai?」  「……オイ……、それは、どこの星の言語だ……」  「ぎゃぼっ! 千秋センパイじゃないデスか? ホウノイモウギンウォ〜!(お久しぶりデス)」  「まさか、お前……」  ありえない。俺の誘いを断って、また香港かよ!  一人って……、大丈夫なのかよ……。  あぁ?! ピンクイルカ?なんだよ、それ……。  「子豚ちゃんのような、それは見事な桃色なんデス。  クルーザーに乗って、漁船のうしろを泳ぐ十頭近くの群れに会えたんデスよ〜! もう、のだめ感激しちゃって……」  ぜひセンパイにもあのラブリーなイルカちゃんを見てほしいですカラ、海恐怖症も克服してもらいマス! と、無駄に張り切ってるのだめに溜息がこぼれる。  フランス語のように、今回もプリごろ太のDVDで言語をマスターしたのだめは、一人でも楽しそうに飯だスイーツだ買い物だと香港一人旅を満喫しているらしい。  「お前いい加減に……」  「これから飛行機のりマス!」  「は?」  「もうすぐ、イタリアの真一クンのそばに行きマスよ?」  待っててくだサイ。ずっと一緒デスよ  のだめのささやく、魔法の鈴の音。  俺の心にすぅーっと染み込んで、なんだかもう大丈夫だって思えたから、  わかった、待ってる≠ニだけ伝えて、電話を切った。  部屋の窓から空を見上げた。  すっきりと晴れ渡った青空に、俺とのだめが溶け合って、一つになった気がした。 ------ピアニストの休日 End -- □ピアニストの休日 □香水(ひょんそい) □2011.2.27 □芒果布甸/Mango pudding □http://hongsoi.hannnari.com/ □kyari.sky★orange.zero.jp(★→@に変換) ※このファイルは、のだめファンによる二次創作小説サイト、芒果布甸/Mango puddingにて公開している小説をまとめたものです。 二次創作小説にご理解のある方に個人で楽しんでいただくためのものです。従って、無断で複製、配信、公開、改変等をすること、および第三者への頒布はされないようお願いします。