□マエストロの婚礼  イタリアに戻ってきた。  空港に着いたときは予想通りボロボロで、一緒に来なかった冷たい婚約者を恨めしく思いながら、到着ロビーに空いているシートを探し、どっかりと腰を下ろした。  ミネラルウォーターを飲み一息つくと、足が地についていることの喜びを噛みしめる。  徐々に身体全体に温かい血液が回ってくるのを感じ、もう大丈夫と安心感に包まれる。  ん? なんだ、この感覚……  飛行機から降りた後にいつも繰り返される行動だが、落ち着いた後の安心感だけではない、何かふわふわした感情に包まれていて、自然と顔がにやけてくるのだ。(かなり恐いです)  プロポーズ効果か?  普段の真一からはありえないほどのにやけ顔で、軽やかに席を立つと、空港をあとにした。 ------------------------------  イタリアでの自分の部屋にまっすぐ向かう。  部屋でさっそく荷物をほどいていると、ドアをノックする音が聞こえた。  返事をすると、ドアノブが回り、開いたドアからジャンの顔と、ジャンの腕にべったりとひっついたゆうこが背後に見える。  「千秋、おかえり〜!」  「た、ただいま……」  「これからお茶にしようと思ってたとこなんだけど、一緒にどう?」  「ああ……、軽く片付けたらいくよ」  「じゃあ、下で待ってるね」  バタンッ。  もう〜、私はジャンだけでいいのに〜!∞はははっ!ゆうこはかわいいなぁ〜  「聞こえてるっつーのっ!」  騒がしく階下に下りていく二人の声が小さくなっていくの聞きながら、大きく溜息をつき、手早く荷物を片付けていった。 ------------------------------  下におりると、ティールームにはジャンとゆうこの二人だけが、いちゃいちゃとお茶の準備をしているところだった。  ここはお前らの家じゃねーだろっ!≠ニ、心の中でツッコミを入れつつ、空いている席に着く。  「ヴィエラ先生たちは?」  「ああ、先生は奥様とショッピングだよ。僕たちは留守番を任されたんだ」  「私たちだって、乗馬に行くつもりだったのに……」  「ふう〜ん……」  いつものように、自己中なゆうこの愚痴はスルーし、ジャンの入れてくれたエスプレッソに手を伸ばした。  ゆうことジャンから聞かされる、留守中のどうでもいい(ヒドイ)話を軽く受け流しながら、ビスコッティに手を伸ばす。  上の空でかじりつく。  「かたっ!」  「やだぁ〜、千秋ったらかっこわるー。エスプレッソに浸して食べなさいよぉ〜」  「あれ? 千秋がビスコッティ食べるなんてめずらしいね?」  「え?」  「あらぁ〜、なんだか上の空? なんかあった?」  「な、なにもねーよ……」  言いたいような、言いたくないような……。  なになに?∞なんか面白いこと?  面白がってやけにわくわく顔でこちらに顔を向けるバカップルに気付き、やっぱりコイツらには絶対に話すべきではないと悟る。  「あ、そういえばネットの記事見たわよ」  ゆうこが面白くもなさそうに切り出す。  「え?」  「NODAME がヒューストンのフェスティバルで飛び入り演奏ってやつ。のだめ、行ってたんだ? ヒューストン」  「ぶほっ!」  「やだぁ〜、千秋きったな〜い!」  エスプレッソを思わず噴出した千秋に、ジャンがいたずらっ子のような顔で何かを思いついたかのようににやけて見つめている。  「な、なんでそんな記事……」  なんとか、冷静さを取り戻そうと、ゆうこに訊ねる千秋。  「あらぁ〜、私は指揮者の妻として、毎日の音楽関係の記事はデータベースで検索してチェックしているのよ?  まあ、記事っていってもアメリカの地方紙に小っちゃぁーーーーく載ってただけだけどね」  しかも、記事は NODAME メインだしぃ、千秋のことなんか一言だけだしぃ、千秋、もっと頑張んないとヤバイんじゃなぁーい?  「へぇ……、ヒューストンにノダメも行ってたんだぁ。  大丈夫なの? 千秋。ブラジルのエリーゼとかいう女性は……(あいかわらず勘違いしてるジャン)」  うっ……。エリーゼの事、忘れてた。こ、殺される……。  脳内で響き渡る、単価を上げて、稼ぐのよぉ〜!≠ニ勝ち誇るエリーゼの声。  青ざめる千秋に、完全に誤解するジャン。まったく気にしないゆうこ。  くっくっくっ……。と、面白そうに笑いをこらえるジャン。は? エリーゼって何? と、訳が分からないゆうこ。  三者三様、まったく違う思いをそれぞれ抱えたまま、お茶会はお開きとなった。 ------------------------------  部屋に戻って、明日から始まるリハーサルに向け総譜を広げるも、なかなか集中できない。  勉強は中断し、気になっていることを片付けてしまうことにした。  携帯に手を伸ばし、パリに到着しているであろう婚約者のメモリーを呼び出し、発信ボタンを押す。  ……pupu……、……pupu……。  プッ!  「アロー?」  めずらしく、早めのコールでのだめにつながった。  「もう部屋ついた?」  「はい……。  真一くぅん……、早く帰ってきてくだサイ……」  めずらしく、のだめから甘えるような言葉。甘い音色に敏感な耳が刺激されて、心の芯がジーンと熱くなる。  「どうした? 具合でも悪いのか?」  ありえないほど自然に甘い言葉が零れて、驚いている自分がいる。  「……ありえないんデスよ、こんなこと。今まで思ったこともなかったのに……」  「……」  どきどき。(千秋、のだめからの甘えモードに完敗。過度に期待中)  「清潔なホテル暮らしが続きすぎたせいなんでショウか……。  慣れたはずの汚い部屋に我慢できないんデスよ!」  「なっ!」  「お土産で買ったものは多すぎてベッドの上で山になってるし、バッグから出した洗濯物は、出かける前の洗濯物とあわせて、かなりの量で異臭を放ってるし、部屋のそこらじゅうに五ミリくらい埃が積もってるし、帰ってきてからくしゃみが止まらないんデスよ!」  「オイ……」  「のだめ、いつからこんな弱い女に成り下がったのでショウか? 悲しいデス……」  だから、真一クン、早く帰ってきて、この状況をなんとかしてくだサイ?  「死ね……」  もう、いっそのこと携帯を切ってしまいたい気持ちを精一杯抑え、先ほどから気になっていた事柄について、切り出してみた。  「なぁ……、ヒューストンでお前が飛び入りで演奏したこと。エリーゼに報告とかすべきか?」  「へ? ……ああ、そのことだったら、さっきエリーゼから連絡ありまシタよ?」  「え、や、やけに早くねーか……。で、なんだって?」  「なんだか、ヒューストン交響楽団サイドから、お礼の連絡があったらしいデスよ? ぜひ、近いうちに共演をって依頼があったそうデス」  「え……。そ、それって……」  「エリーゼからは、『いい営業活動してきたわねっ! 千秋も役に立つことあるんじゃないっ!』って、褒められまシタ。よかったデスね、先輩」  殺されるかと思ってたのに……。よ、よかった……。  「ん……、共演ってさ、もしかして俺とお前と……、てこと?」  「イイエ? NODAME だけオファー貰っちゃいまシタ! ぎゃはぁ!」  「……」  もういやだ。こんな婚約者。今だったら引き返せるかもしれない……。  「あ、でも、千秋先輩の評判もよくって(特にオケの女性)、また来年のフェスもお願いしたいって事らしいデスよ?」  ま、そうだよな。そんなに早く、俺とのだめの共演、しかもメジャーでなんてあるはずないか……。  「そっか……。とにかくエリーゼが納得してれば大丈夫だな。飛び入り演奏の事しか、ばれてないよな?」  「むきゃ? 飛び入り演奏の事以外ってなんデスか?」  マジか……、この天然がっ!  「その……、ぷ、プロポーズの事とか……」  「ぎゃはぁ! プロポズっ!」  だめだ……理解不能な奇声しか聞こえてこねぇ!  「と、とにかく、俺しばらくはイタリアから離れる予定ないし、お前は適当に部屋片付けて、早くこっち来いよな」  「……適当に片付け……」  「ほ、ほら、得意のダンボールにとりあえず突っ込んどけ。洗濯くらいは少しずつしろ。ベッド周りとピアノ周り、飯食うスペースくらい掃除できるだろ?」  「はい……。わかりました」  「お、おう……」  電話の向こうののだめが、素直に返事をしたかと思うと、急に大人しくなった。  やっぱり一人は寂しいのだろう。部屋の片付けの為になんて冗談めかして言って、俺に負担をかけたくないと思っているのだろう。  「これからだって、こんな風に長い時間離れなくちゃいけないことが幾らだってあるんだ。お前も一人でも片付けくらいできるようになれよ」  「……」  「でも、絶対に俺はお前のところに帰るから。帰ったら幾らでも、掃除でも洗濯でも料理でもやってやるんだから……。  とにかくイタリアで待ってるから。早く来いよ、な?」  「の、のだめ……」  「ん? どうした?」  「お腹空いて、死にそうデス……」  「……缶詰でも食って寝ろ……」  プッ! ばたりっ!  やっぱり俺、もっと冷静になって考え直すべきか?  ぐったりと疲れ切って、そのままベッドに横になったまま、迫ってくる睡魔の波にのまれて、意識を手放した。  二  リハーサルが始まった。  のだめは相変わらず、のらり、くらりとイタリアにいつ来るのか答えない。  なんとなく苛立ち、もやもやして気分が晴れない。  そんな中で、思い出すのはヒューストンの夜。  心地よい音楽の洪水にのまれて、アメリカのノリのいいオケと観客たちに囲まれ、のだめと二人、一つに解け合ってしまったかのような、最高に気持ちいい夜だった。  「ふっ……」  惚けてぼんやりしている千秋は、使い物にならないからとジャンに客席に置かれていて、ヴィエラがオケピから声を掛けているのにも気付かない。  「おい……、真一なんかあったのか?」  真一の代わりに呼びつけられたジャンにヴィエラが訊ねる。(ああ、一番訊ねてはいけない人なのに)  「それがですねぇ、ヒューストンで演奏会があって……」  ジャンは意気揚々とヴィエラに聞かれるまま、事実無根の妄想話を耳打ちするのだった。 ------------------------------  客席の真一のもとに、仕事を終えたヴィエラが近づいてきた。  「真一……、おい」  「あ……、ヴィエラ先生。今日はもう終りですか?」  「ああ、俺はちゃんと仕事してたからな」  あれ? 俺、今まで何やってたんだ?  今日の仕事を思い出そうとしても、何も浮かんでこない事実に唖然とする。  「それよりお前、ブラジル人女性と日本人女性の三角関係に悩んでるって聞いたけど、大丈夫か?」  突然、理解不可能な質問を投げかけられ、意識が覚醒する。  「はぁ?! そ、それ俺のことじゃないんじゃ……」  心配しているのか面白がってるのか、きっと半分半分なのだろう、『俺でよければ話きくぞ?』と、真一の隣のシートに腰を下ろし話しを続ける。  「いやぁ、かなり確かな筋(ジャン)から聞いた話だけど……。違うのか?」  「全然違いますよ……」  「じゃあ、どう違うんだ?  日本人女性じゃなくて、中国人女性なのか?」  「い、いや、そーゆうことじゃなくて……。  あの、お話したい事が……」  ここではなんですので、と場所を移動してほしいと頼み、席を立つ。  「ちっ! もう少しで核心に触れるとこだったのに……」  こっそり聞き耳をたてていたジャンにも気付かず、千秋はヴィエラに肩を抱かれ、劇場をあとにした。 ------------------------------  「け、結婚?!   そうか……、あんなに小さかった真一がなぁ……」  カジュアルなリストランテに腰を落ち着けた二人は、赤ワインを飲みながら、ゆっくり食事を進めていた。  だから、真一の頬が赤いのは、ワインのせいではないはずである。  「おめでとうっ! よかったじゃないか〜!  ……でも、だったらなんで悶々としてるんだ? まさか、マリッジブルーってやつか?」  こんな風にふたりっきりで食事をすることなんて、再会をしてからも初めてのことで、真一はなんだか幼い頃に戻ったようで、素直に胸のうちを打ち明け始めていた。  この一年、自分の時間を犠牲にして、オペラの勉強に集中していたこと。  自分では無理しているつもりはなかったのに、ヒューストンで半年ぶりに会った恋人と、もう離れたくないと素直に思ったこと。  そして、あの演奏会の夜、最高に気持ちのいい演奏のあと、プロポーズをしたこと。  自分としては、今すぐにでも結婚したい気持ちで、彼女もそのはずだと信じてるのに、まっすぐに自分のいるイタリアに来ないのにイラついていること。  真一は一気に話してしまうと、恥ずかしそうにヴィエラを窺った。  「あははは!」  「先生、笑うところじゃありません……」  「ごめん、ごめん……。くくくっ……、あ、あんまり真一がかわいいからさ……ひっ……」  ヴィエラは顔を真っ赤にして、体を腹から二つに折り、本気で笑っている(ほんとヒドイ)  「からかわないでくださいよ……。  これでもいっぱいいっぱいなんですから」  そうだよな……とつぶやくと、ヴィエラは真剣な眼差しで語りだした。  「俺も結婚を決めたときは突然だったな。  あるときふとそう感じて、これしかないって思って。  でも、妻はそうじゃなかったみたいだ」  「え?」  「女性はきっといろいろあるんだよ。  貰うほうと貰われるほうの違いかな? 事前の準備というか、気持ちの整理みたいなものが必要なんだろう。  真一の彼女はかなり個性的みたいだし、真一を一途に思ってくれてるみたいだけど、それでもいろいろあるんだよ、きっと」  「はぁ……」  「まぁ、焦らせないでゆっくり待ってあげなさい。オッケーの返事はもらってるんだろ?」   あの、居場所もわからず、連絡がとれなかった時に比べたら、なんてことないじゃないか。  そんなふうに、ヴィエラから冷静に諭されてみれば、その通りだと思う。あの時に比べれば、なんてことはない。  自分が進みたいスピードと、のだめのペースが少しずれているだけなのだ、きっと。  あの、ノエルの夜のように。  確かに俺、アメリカのテンションにやられたのかもな。  「結婚すること……、もうマサユキには連絡したのか?」  「いや……、まだ具体的なことを決める前にイタリアに来てしまったので、ヴィエラ先生のほかは誰にも……。  それに、あの人は俺の結婚のことなんて、興味ないでしょうし」  「そんなことないと思うぞ。あの時だって、なんだかんだ俺に連絡してきては、その後の真一のこと気にしてたし」  「お、面白がってるだけですよ……」  はははは! 確かに、そういうとこあるよなー。  お前はそういうとこ、全然似てないなぁ。  ヴィエラは目にいたずらっこのような輝きを浮かべて、心底楽しそうに言う。  「まあさ、あんな男でも、それなりにお前のこと気にしてるんだよ。  育ててないからって遠慮してるところもあるし。  まあ、気が向いたら連絡してやれよ、な?」  「……」  それから、のだめがイタリアに到着したら、正式に紹介したいと告げ、是非とヴィエラからも了承をもらうと、二人は時間を忘れて、遥か昔の思い出話に花を咲かせた。  三  翌日、少々飲み過ぎた重い頭で朝食をとるため食堂へ行くと、ヴィエラに手招きされた。  近づくと、無言で手を出すように促され、恐る恐る手のひらを差し出すと、車のキーが乗せられた。  「なんですか? これ……」  「真一、今日は一日オフをやる。気分転換にドライブにでも行って来い」  「え……、でも……」  「いいから。  お前、イタリアに来たって、街をふらつくこともしないじゃないか」  人生に無駄な時間なんてないんだぞ? と、いい大人とは思えないヴィエラの無邪気な笑顔に、抵抗は諦め従うことにした。 ------------------------------  「マジかよ……」  車好きのヴィエラのガレージで、複数の車にキーを向けてみれば、反応したのはシックなブラックのマセラティ グランカブリオ。  「こんな派手な車で、野郎一人でどこに行けっていうんだよ……」  恐る恐るシートに身体を滑り込ませ、エンジンを掛ければ、ぞくぞくするような興奮が沸き起こり、期待が高まる。  真一は子供に返ったような、わくわくした気分を久しぶりに感じながら、マセラティを静かにスタートさせた。  気がつけば夢中になっていた。  ナポリ方面に向かう、アウトストラーダ・デル・ソーレに乗り、走ることだけに集中してマセラティを駆る。  身体全体にGを感じ、シートから伝わってくるのはエンジンの心地よい振動。  アクセルを踏み込み、エンジン回転が上がると、マセラティがいななく。  トップはオープンのまま、サイドウィンドウも思い切って下げてみる。  刺激的な開放感と、全身に打ちつける風が心地よい。  今、真一の頭の中には、音楽はまったく流れていない。無音の状態だ。  こんな時間の過ごし方は、今まであまりなかったのではないかと思う。  真一の趣味は芸術鑑賞や読書など、常に脳を活発に動かしていることが多い。  音楽を奏でていても、このように無心になることはできるが、当然のごとく脳内に音楽が溢れている。  強いて言えばランニングくらいだろうか、頭の中を空っぽにして、無心で身体だけを動かす時間は。  でも、今この感覚はそれともまた違う。スピードを自分で制御しつつ、マセラティの挑発的な動きにも、理性を捨てて身を委ねたくなるような快感。  ヴィエラの与えてくれたこの時間に、喜びを感じ、感謝する気持ちになっていた。 ------------------------------  「げ……」  アウトストラーダでの高速ドライブも楽しかったが、少し景色を楽しみたくなり、思いつくまま最初の出口を降り、気の向くままにハンドルを切ると、突然目の前に海岸線が広がっていた。  焦る気持ちとは裏腹に、なにか懐かしいような、不思議な気持ちに包まれる。  マセラティには不似合いな郊外の田舎道。何かに誘われるように、路肩に停車する。  「俺、もしかして来たことがあるのか……」  思い切って外に出てみる。  少し心配ではあるが、これだけ派手な車、逆に悪さがしづらいだろ……と、思い切ってマセラティは置いたまま、付近を歩いてみることにした。  白い漆喰に塗られた素朴な壁面が続く。  大きめに切り取られた窓には、色、柄、さまざまな日よけがはためいている。  小さな街のようだ。  日差しは強いが、緑が多く、吹き抜ける風が心地よい。  しばらく続いていた住宅がとつぜん途切れ、小さな教会が現れた。  青々とした芝生はうつくしく刈り込まれて、樹木や花々も美しい。街の人たちの信仰に対する熱心さが窺われる。  真一は引き寄せられるように、教会の小さな扉に手をかけた。  「Buon giorno……」  無人の教会。薄暗い内部には、上部に施されたステンドグラスから柔かい光が降り注いでいる。  あ……  真一は、祭壇の前に備え付けられたオルガンを楽しげに弾く、ベールを被ったのだめの幻影を見た。  二人っきりでもいいから、ちゃんと神様の前で誓いたいデス。  駄目デスか?  ヒューストンの演奏会の夜。  野外劇場の舞台袖で、俺のプロポーズをうけたアイツは、披露宴とかしないからな≠ニ宣言した俺に、上目遣いでおねだりした。  アイツのこの攻撃にいまだかつて勝ったことのない俺は、いつものように負けてやったが、だからってこんな展開あるか?  「ありえねぇ……」  でも、それ以外の選択肢はなかった。  のだめがイタリアに到着したらここに連れて来よう。  拒否なんてありえないけどな。  ここ数日のイラつきは嘘のように解消され、真一はすっきりとした気分で教会をあとにした。  四  いい事とは続くもので、突然のドライブオフに、すっかりリフレッシュして部屋に戻ると、携帯に出たのだめは、これからイタリアへ向かう飛行機に乗るところだという。  「まあ、俺の誘いを振って、香港に行ってたのは気に入らないけど……」  これも、ヴィエラのいうところの『貰われるほうに必要な事前準備』というものなのだろう。  千秋真一たるもの、婚約者の小さな我儘くらい、どうってことない。どっしりと受け止められる器の大きな男であるから、余裕で迎えてやるし。  すっかり俺様ぶりを復活させ、久しぶりに勉強のために総譜を広げると、真一は音楽へと没頭していった。 ------------------------------  鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌な真一に、ここ数日の彼の様子を伺っていたジャンは不思議で仕方ない。  夕食後、さっさと部屋に引き上げた千秋の後を追って、真相を確かめるべく真一の部屋を訪ねた。  コンコンッ!  「si!」  返事があってすぐ、部屋の主によってドアが開かれた。  「……ちょっとお邪魔してもいいかな?」  ジャンは、片手にグラス、片手にワインボトルを目の高さに掲げ、アピールする。  「断る」  ゴツッ!  強引に閉じかけられるドア。  半分ドアに挟まれながらも、ジャンはめげない。  「ち、千秋待ってよ。  たまには男二人で飲みながら、音楽の話でもしようよ〜」  胡散臭そうに睨みつけながらも、本当は顔のにやけが抑えられないくらいご機嫌な千秋は、しぶしぶ……といったポーズでジャンを部屋に招きいれた。  ジャンの持ち込んだワインの銘柄をチェックし、及第点を出すと、やっと真一はジャンに椅子を勧めた。  「今日は、ゆうこと一緒にいなくていいのか?」  「うん。僕だってたまにはね。  今日は奥様とサロンパーティーに出かけていったよ」  「ふうん……」  「の、のだめは? 今、どうしてるの?」  「アイツは……。  明日、イタリアに来る予定……」  「ええっ! エリーゼは大丈夫なのか?(千秋のもう一人の女として)」  「はぁ? エリーゼは関係ねーだろ……(マネージャーだから関係なくもないけど)」  「だって……エリーゼだって、のだめがチアキのいるイタリアに行ったって知ったら、気を悪くするんじゃない?」  「……ちょっと待て……。  お前、エリーゼって誰のこと言ってンだ?」  「えー?  だから、ブラジル人女性で、千秋の第二の女?」  「お前か! ヴィエラ先生の言ってた、確かな筋って!」  「え? え? なんの事?(しらばっくれ)」  「お前、もう部屋帰れー!」  結局、ジャンは早々に部屋から放り出され、真実の核心に触れることはできなかった。  「千秋ってば、なかなか口が固いな。でも絶対諦めないんだ」  変な方向にまっすぐ前向きなフランス人指揮者は、決意も新たに自分自身に誓った。 ------------------------------  翌日、のだめがイタリアにやってきた。  ローマ市内のホテルに落ち着いたとメールがあり、仕事が終わってから迎えに行くと返信を入れる。  ヴィエラ先生に仕事の合間に伝えたところ、夕食を一緒にしようと誘ってくださったので、のだめにはドレスアップして待っているようにメールした。  ホテルに迎えに行くと、のだめはロビーで待っていた。  光沢のある鮮やかなブルーのシルク地に、美しいチャイニーズテイストの刺繍が施された大人っぽいドレスを身に纏ったのだめは、いつもとはまったく違う雰囲気。   一流ホテルのロビーでも一際目を引いていて、真一はすぐに声をかけるのを躊躇い、しばらく見入ってしまう。  「あ、真一くーん! こっちデス!」  のだめは俺を見つけると途端に破顔させ、こちらに駆け寄ってくる。  「お、お前うるさい……」  「だって、一週間ぶりデスよ? 夫に逢えるヨロコビを表現してるんデスよ」  「夫じゃねぇ……、まだ……」  ぎゃはぁ! 新しいツッコミ〜! と大喜びして煩いのだめを引っ張って、待ち合わせのレストランに向かった。 ------------------------------  予想通り、ヴィエラとのだめは紹介が済むと、あっという間に意気投合した。  共通の趣味があるわけでも、話題があるわけでもないのに、テーブルに並ぶ食事のことでも、最近見た映画の話しでも、どんな話題でも感性が近いのか意見が一致するのだ。  やっぱりこの二人、似たもの同士なんだな。  朗らかな笑い声を上げながら楽しそうに会話をする二人を、真一は嬉しいような、ちょっと妬けるような、複雑な心境だ。  和やかに食事が終わり、ゆったりとしたソファー席に移動して、食後のエスプレッソをいただく。  「で? 式はいつにするんだ?」  ヴィエラが真一とのだめを交互に覗き込みながら尋ねる。  「まだ、何も話してなくて……」  「そうか……。真一のイタリアでのスケジュールだったら気にしなくていいぞ? のだめちゃんのスケジュールに合わせればいいんだから」  「のだめは……お休みはちょこちょこあるのデスが……」  のだめはそう切り出すと、言いづらそうに俯いてしまう。  「ん? なんだよ?」  「えっと……。さすがに両親に話す前にあれこれ決めてしまうのは、抵抗があるというか……」  「あ……」  「真一、まだのだめちゃんのご両親に挨拶してないのか?」  やべ……、すっかり忘れてた。  「やっぱり、日本帰るべきか……」  そりゃそうだろー! とヴィエラに呆れられ、脳内で野田家訪問のシミュレーションをしてみる。  う……、かなり体力消耗しそうだ。  今夜にでも電話でご挨拶しなさいと諭され、だから今日はのだめちゃんとホテルに泊まっていけと、ニヤつかれる。  これから先どのくらい、こんなからかいを受けるのだろうかと考え、早く済ませてしまいたいとため息をついた。  五  ホテルに戻り、早速お互いのスケジュールを突き合わせて帰国する日を決めることにする。  「あれ?」  真一は、来月以降のスケジュールをまだ貰っていなかったことに気づき、慌てエリーゼにメールで送ってもらう。  「え?」  「ふぉ……」  パソコンに届いた俺の来月以降のスケジュールをのだめと覗き込み、驚いてエリーゼに折り返し電話をかける。  「千秋です。エリーゼ、このスケジュールって……」  「ご覧のとおりよ」  「……」  エリーゼから届いた来月以降の俺のスケジュールは、この一年間のスケジュールと比較して、客演は半分以下になっている。  「まぁ、千秋もこの一年間頑張ったし、ヒューストンではいい営業活動もしてくれたから、そろそろペースダウンしていいころでしょう。  もちろん、まだまだ名前を売って行かなきゃいけない時期だけど、そろそろ仕事も選んで、どーでもいいのは断っていかないとね」  なに? 不満でも? と面倒臭そうに言い捨てる。  「いや……、すげー助かる。サンキュ」  「まぁね、感謝されて当然ね。そろそろのだめとだって、けり付けるんでしょ」  「ぶっ!」  「やっぱり。で、いつなの?」  「……いや、まだ詳しいことはこれから……。  でも、なるべく早く……」  「そ。それがいいわね。  あ、子供はまだだめよ。二年間は禁止」  「はぁ? それエリーゼが決めんのかよ……」  じゃ、決まったら早めに連絡しなさいよ? と、まくし立てると、電話は一方的に切られた。  「はぁ……、アイツってただ者じゃねーな。  説明する手間省けたけど……」  「そデスね……」 ------------------------------  二週間後に三日間だけだが、なんとか二人揃って帰国できそうだとわかり、お互いの親に電話する。  大川ではのだめから結婚という言葉が出た途端に大騒ぎとなり、とても落ち着いて話しのできるような状況ではなくなった。  とにかく辰男と話をさせろと電話を代わる。  「お父さん千秋です、大変ご無沙汰しております」  「む、息子よっ!」  辰男の一言に、また野田家は収拾のつかない状況になる。  「と、とにかく帰国した際に直接、きちんとご挨拶させていただきますので、よろしくお願いします」  「千秋くんっ! ありがとなっっ!」  うわーん! 大泣きする辰男にこれ以上話を続けることはできず、大きくため息をついて電話を切る。  「ご、ごめんなサイ」  「いや……、なにはともわれ喜んでくれてるみたいでよかった。ほっとした」  いやー、断られたらどうしようかと……。  のだめは思う。この人は本当にかわいい。自信満々の俺様のようでいて、自分が他人に好かれていることについては全然自覚がないのだと。  「そんなわけないじゃないデスかー」  「はー、とにかくよかった」  続いて母親に電話する。  実はこれが一番面倒というか、なんというか……。  ……pupu、pupu……  プッ!  「……真一から電話なんて、何事?」  いきなり、第一声からプレッシャーかかるじゃねーか……。  「あー、どう、最近?」  「なんなのよ、そのとってつけたような挨拶。  いいから、さっさと本題に入りなさい?」  「あ、あのさ。その、俺達そろそろ……」  「俺達って?」  「俺とのだめ……」  「やっと決めたのね。のだめちゃん、そこにいるの?」  「あ、ああ、いるけど……」  「じゃあお話したいから代わってくれる?」  「う、うん……」  こちらもエリーゼ同様察しがよいというか、なんでも分かってます感がなんとも……。  「あ、真一よかったわね、振られなくて。おめでと」  代わり際に、お祝いなんだかよくわからない言葉を言われ、複雑だ。  「征子ママ、おひさしぶりデス」  電話をのだめに代わると、のだめは、はいはい、そうですねーなどと楽しそうに相槌を打っている。  この二人は俺となんかよりよっぽど親しそうだ。  母親のことはのだめに任せて、俺は帰国のエアーの手配をするためPCに向かった。  六  翌日、のだめを連れて、あの教会へ向かった。  今度はのだめと二人だから、もう少し地味な車をヴィエラ先生から借りて。  のだめを連れて車で遠出するなんて久しぶりの事だから、助手席のアイツはご機嫌で。  エリーゼやらお互いの親への報告という一仕事も終えたこともあり、気持ちはとても軽やかだ。  「これで後は、日本に帰って諸々片付けて、式挙げるだけだな」  「真一くん、まだ報告しないといけない人、いるんじゃないデスか?」  「……ジジィとか?」  「まあそれは、のだめもオクレル先生とかいますケド」  そじゃなくて……と、のだめは言いづらそうに俯いてる。  「誰だよ?」  「……真一くんのお父さん、デス……」  「……」  「のだめだって、紹介して欲しいし……」  「……そうだな」 ------------------------------  前回来たときは、気の向くままにハンドルを切ってたどり着いた場所だったから、もう一度来られるか心配だったが、帰るときに気にしていたのでなんとか記憶を辿って、もう一度来ることができた。  やっぱりここ、前に来たことあるかも  着いた途端に、なにか懐かしいような、前回と同じような気持ちになる。  いつ、だれと、何のために訪れたのか。具体的なことは全く思い出せないのだが。  「かわいいところデスねー」  漆喰の白壁が続く素朴な街並みを、のだめもひと目で気に入ったようだ。 ------------------------------  教会に到着し、声を掛けながら扉を開けるも、やはり無人だった。  こじんまりしているが、信者たちから大事にされているのだろう、人の手がかかっている独特のぬくもりが、この教会を温かな雰囲気にしている。  「ほわぉ……。素敵デス」  「だろ?」  真一は、祭壇の上のステンドグラスをうっとりと見つめるのだめの肩をそっと抱き寄せると、頬に優しくキスをする。  次にここでキスをするときは、唇に。永遠の誓いをするときだと心に決めて。 ------------------------------  とにかく、この教会で式を挙げさせてもらう許可を取らなければならないが、教会が無人では為す術もない。  手がかりを探して、とりあえず付近を散策してみることにする。  しばらく行くと、商店が並ぶ通りに出た。  突き当たりまで様子を見ながら進むと、広場のような場所が現れ、この辺りではひときわ大きな、瀟洒な建物がある。  「ホテルか?」  「そみたいデスね?」  広場に向けて、コの字型を描くように建てられた三階建てのホテル。イタリアらしいオレンジがかった黄色い石壁の壁面に、木製の建具のガラス扉。  押し開けてみると、かわいらしい鈴の音が鳴り、客人の到着を知らせる。  フロントの役目を果たすらしい、こじんまりとしたカウンターの奥に、まんまると太った太鼓腹を重そうに突き出し、ソファーに座る男性が一人。  老眼鏡だろうか、鼻にめがねを引っ掛け新聞に読みふけっていたところだったが、突然の日本人観光客の訪問に、新聞をたたむとカウンターに向かって立ち上がった。  「お泊りですか?」  旅行者にしては身軽な日本人に、いくらか警戒する様子でイタリア訛りの英語で話し掛けられる。  真一は警戒心を解いてもらうために、ことさら愛想よく、流暢なイタリア語で答える。  「いえ、申し訳ないのですが泊まり客ではないんです。  実はこの近くにある教会のことで、お聞きしたいのですが」 ------------------------------  真一は、自分は指揮者で、ローマに定期的に滞在して、師匠についてオペラの勉強をしていること、先日ローマからドライブ中、たまたまこの街にたどり着き、あの教会に一目惚れをしたこと、ここにいる婚約者と結婚式を挙げたいと思ったことを正直に伝えた。  ホテルの主人は真一の流暢なイタリア語に一瞬驚き、そのあとは好意的に話を聞いてくれたようだ。  最後にはにこやかにのだめを見つめ、それはめでたいとお祝いの言葉まで掛けてくれた。  そして、教会を管理している人物のいるところを教えてくれ、事前に連絡までとってくれた。  「ありがとうございます」  「いえいえ、どうぞお幸せに」  丁寧にお礼をいい、出口にむかって歩きだすと、主人はわざわざカウンターからでて、見送ってくれる。  「ところで……、お嬢さんも音楽家ですか?」  のだめに向けた、主人からのイタリア語がわからず、真一に代わりに答えてもらう。  「はい、彼女はピアニストです」  「ほぅ、ピアニストですか……。  実は、二十二年ほど前にこのホテルを開業したのですが、その最初の年に、日本人ピアニストの家族がここに宿泊してくれたことがあるのですよ」  「え?」  「男性のピアニストにその奥様と息子さん。とても昔の話ですが、ホテルを開業した年のことだったのと、当時、日本人観光客はめずらしかったので、とてもよく覚えています」  「……」 ------------------------------  外に出て、主人に道を教わると、改めてお礼をいいホテルをあとにする。  教会を管理している人物のところに行き、挙式の許可を得て申込をするためだ。  ホテルの主人に教わった方向へ足をすすめるも、真一はホテルを出てから何か考え込んでいるようで様子がおかしい。  「先輩、さっきご主人は何の話をしてたんデスか?」  「あ、ああ……。  お前も音楽家なのかって聞かれたから、ピアニストだって答えた」  「それだけデスか?」  「あ……、いや。  昔、あのホテルに日本人ピアニストの家族が泊まったことがあるって」  「ほわぉ……。それは奇遇デスね?  そうだ、先輩。のだめたちもあのホテルに泊まりませんか?」  「え?」  「この街、とっても雰囲気が素敵ですし、教会で挙式するだけっていうのも、ちょっと残念というか……。  あのホテルのご主人にも、突然こんなお願いしたのに、とっても気持ちよく助けていただきまシタし」  「……そうだな。じゃあ、挙式の予約が取れたら、ホテルに戻ってみるか?」  「はいっ!」  真一は、この街に来るたびに感じる不思議な感覚と、先ほどの主人の話をもう少し聞いてみたいと、思いがけないのだめの提案に乗ることにした。  七  教会を管理する人物は、イタリアの明るい太陽がよく似合う、ひまわりのような笑顔の五十代くらいの女性、名前はシモーナといった。  聖歌隊で歌を指導しているという音楽好きの女性は、NODAMEのことを知っており、思わぬ大歓迎を受ける。  真一のことは知らなかったが、セバスチャーノ・ヴィエラのもとでオペラを学んでいると聞くと、その大柄の身体を震わせ、力いっぱい真一のことをハグする。  「ぐえっ!」  「すばらしいわっ! 大好きなマエストロのお弟子さんと NODAME の結婚式がこの街の教会で行われるなんてっ!」  シモーナは感激のあまり、真一の次にのだめのことも力いっぱいハグし、その温かな両手でのだめの頬を包み込むと、当日は心をこめて歌うので、期待してほしいと意気込みを伝えてきた。  「あ、あの……。とてもうれしいお申出なのですが、私たちは二人だけで挙式したいと考えているんです……」  「まぁ……そうなの?  まぁ、若い人たちにはそれぞれ考え方があるものね」  ちょっと残念ね、と呟いたあと、女性はのだめに耳打ちした。  「NODAME はそれでいいの? 彼は照れ屋さんなのかしら?」  イタリア語のわからないのだめは、ただぎこちなく微笑むしかなかった。 ------------------------------  大歓迎は受けたものの、挙式の許可をもらうための条件は厳しく、まずは二人揃って牧師の面談を受け許可をもらい、真一はイタリア滞在中、仕事でやむをえない場合を除き、毎週礼拝に通う。のだめも式までの間に最低四回は礼拝に来るというものであった。  「結構厳しいな……」  「そデスね……」  そこまでしてこの教会にこだわる必要があるのか、疑問に思わなくもなかったが、真一は最初に訪れた際に見たのだめの幻影が忘れられなかったし、この街に来るたびに感じる、懐かしいような不思議な感覚も無視することができない。  真一にしてはめずらしい、音楽以外への執着に、のだめは驚きつつも叶えてあげたいと思うようになっていた。  「真一クン、これも何かの縁デスよ、きっと。できるだけやってみまショウ?  なによりのだめ、この街がとっても気に入りまシタ」  そんな風にのだめに背中を押してもらい、シモーナに承諾の意を伝え、改めて挙式の申込をした。 ------------------------------  シモーナから提示された条件により、真一とのだめの挙式日は三ヵ月後となった。  「もっと早くしたかったな……」  「ええっ! 先輩ってそういうこと言うんデスか?  もう、のだめにめろめろ?」  うるさいっ! お前かわいくないっ! 痛いっ! 先輩、痛いデスー! と、いつものようにじゃれ合いながらシモーナの家からホテルへと戻る。  「Buon giorno……」  ホテルの主人は、カウンターの中で、先ほどと同じポーズで新聞を読んでいた。  「先ほどはありがとうございました。  無事、挙式をお願いすることができました」  真一は丁寧にお礼を言うと、三ヵ月後の挙式日を伝え、部屋を予約したいと伝える。  「それはそれは、お役に立ててよかったです。  あれでもシモーナはなかなか手強いんですよ? よほどお二人のことを気に入ったのでしょう。  部屋は……、お取りできますよ。  でも、せっかくの結婚式の日なのに、こんな古びたホテルでよろしいんですか?」  「ええ、ぜひ。この街にも、このホテルにも教会にも、なにかとても縁を感じるんです。  それに、このホテルもとても雰囲気があって、素敵ですよ」  「ありがとうございます。  では、お若い二人の門出にふさわしい、当ホテル一番の部屋をお取りしておきます」  「ありがとうございます」  のだめにも、部屋がとれたことを伝え、 少し主人と話がしたいんだけど構わないか? と了承を得ると、先ほどから気になっていた事を尋ねる。  「すこしお話したいことがあるのですが……」  主人は了承すると、それでは移動しましょうといって、どこかに電話をかけフロントの代わりを頼むと、こちらへどうぞと真一とのだめを事務所へと呼び入れた。  小さなホテルの小さな事務所の奥にある、ソファーをすすめられる。  「お仕事中なのに、すみません」  「あはは、仕事中っていったって、さっきから新聞読んでるだけですから。気にしないでください」  そういって主人はコーヒーメーカーから三人分のコーヒーを入れて真一たちの前に置いた。  「で、お聞きになりたいこととは?」  「はい。先ほどお話されていた、二十二年前の開業当時に滞在したという、日本人ピアニストの家族についてなのですが……」    「ああ。あのことですね。  実は、私も先ほどあなたがたにお話したあと、すこし思い返していたところです」  主人は、このことは、しばらく思い出しもしなかったんだけど、真一たちがやってきて、のだめがピアニストだと聞いたとたん、ひさしぶりに思い出したのだと言った。  「名前……、なんてわかりませんよね?」  「そうですねぇ。あいにく三年ほど前に事務所でぼやさわぎがあって、それまでの宿帳もだめにしてしまったのです」  「そうですか……」  「お知り合いかなんかですか?」  「実は、私の父はピアニストなんです。  記憶はないのですが、もしかしたら二十二年前に滞在した家族は自分なのではないかと思って」  「なるほど……。二十二年前の男の子は五、六才くらいでしたから、成長していればあなたくらいでしょうね」  「……」  しかし主人は、それ以上覚えていることがなく、真一が子供時代に父親と母親と三人でこのホテルを訪れていたのかどうか、確証を掴むことはできなかった。 ------------------------------  ホテルを出て、ローマに戻る。  帰りの車の中で、真一はホテルの主人とのやりとりをのだめにも話した。  「むきゃっ! もしかしたら、幼い真一クンが、何かを伝えたくて、大人になった真一クンを呼び寄せたのかもしれまセンね?」  「なんだよ、それ……」  「過去からの招待状?」  また訳のわからないことを……と、ためいきをつく。  「あ! そうだ、征子ママに聞けばいいじゃないデスか!  どうせ挙式の日取りとか場所とか決まったことを報告しなくちゃデスから」  むーん! これで解決デス! と胸を張るのだめ。  なるほど……。そうだよな、母さんだったら知ってるはずだよな。  真一は気をとりなおすと、アクセルを踏み込み、ギアをシフトさせると車を加速させ、ローマへと急いだ。  八  のだめの宿泊しているホテルに戻り、さっそく母親に電話する。  「だめだ……。留守電になって繋がらない」  意地になって三善の家にも電話するが、やはり母は仕事でヨーロッパだと言われ、連絡はとれない。  「今日はあきらめるか……」  「そデスね、急ぐことでもないデスし」  続いて、報告のために電話した野田家では、ちょっとした騒ぎになった。  のだめから、ローマの郊外に素敵な教会を見つけたから、そこで二人っきりで式を挙げたいと聞いたからだ。  「じーちゃんも、ばーちゃんも、冥土の土産に恵の花嫁姿ば、見たいにきまっとろーが!」  「そ、そんな冥土の土産ち、縁起の悪か……」  辰男もヨーコもよっくんまでもが、口々に地元に帰って盛大な披露宴をしろとまくし立てた。  「で、でも……」  口ごもるのだめに味方してくれたのは静代だったようだ。  「私らは写真だけでも見せてもらえれば幸せたい。恵と千秋さんの結婚式やけん、二人がおもたごつ、したらよかろーもん?」  そんなふうに静代から諭されて、辰男たちも渋々了承してくれたようだ。  ただ、衣装だけはヨーコの手作りにすることが条件となったが、それはのだめにしても願ったりで、断る必要などない。  「ふぃー、疲れまシタね」  「ゴメン……。  もし、お前が……」  「いいんですよー。  真一クンはそんなこと気にしなくて」  のだめは、真一クンのお嫁さんになって、ずっと一緒にいられるだけで幸せなんデスから……。  そんなのだめからの可愛い告白に、やられっぱなしでは悔しいので、  「俺も……」  と、のだめの耳元で低く囁けば、のだめの身体から甘い香りが立ち上ってくるのを感じる。  俺はきっと、今最高に緩んだ甘い表情をしているのだろうな。  もう、そんなことに抵抗する気もないけど。 ------------------------------  のだめの短いイタリアでの滞在が終わった。  次に逢えるのは二週間後。  フィウミチーノ空港のターミナル一まで一緒に行き、パリへ向かうエールフランスの搭乗口でのだめを見送る。  「部屋、あんまり散らかすなよ?」  「ふぁい」  「ピアノに夢中になっても、メシもちゃんと食えよ?」  「ふぁい」  「それから……」  真一クン、お母さんみたいデスと、可愛くないことを言うのだめにゲンコツをお見舞いする。  「痛いデスよー」  「お前が悪い! 俺がどんだけお前のこと心配してるか……」  「分かってマスよー。  真一くん、愛してマス」  「……」  こんなところでそんなこと言われても、なにもできねーし。  「ばかのだめ!」  「酷い夫です……」  俯きかげんののだめの表情がちょっと淋しそうだったから、俺は周囲に人目がないか見渡すと、あっという間にのだめの唇を掠める軽いキスをして、  「じゃ、気をつけて帰れよっ!」  と、アイツに背をむけて歩きだした。  背中にいつもの奇声を聞きながら。  自分の部屋に戻って、ふと思いついて携帯を取り出す。  何年も前、母親に無理やり登録させられてから、一度も呼び出したことの無いメモリー。  真一は、胸がざわつくのを感じながら、思い切って番号を選択し、発信ボタンを押す。  ……pupu、pupu……  プッ!  ただ今、演奏旅行に出かけて留守にしております。お急ぎの方はメッセージを残してください。気が向いたらこちらからご連絡するかもしれません  プッ!  「ふざけたメッセージ入れやがってっ!」  いらつきをぶつけるように、携帯をベッドへと放り投げる。  アイツ、やっぱり子供だろ……。  繋がらない携帯は、遥か遠い、幼い頃の父と息子の、一方通行の関係をそのまま表しているようだと思う。  真一は、空しくなる思考にストップをかけ、そろそろ始まるマルレのリハに向けて、総譜を広げると、音楽の世界へと没頭していった。  九  なんで俺、こんな目に遭ってるんだ……。  前回、のだめと訪れてから一週間。  真一は、シモーナとの約束を果たすため、初めて教会の日曜礼拝に出席した。  初めてのことに気が重かったが、快晴の空が若い二人の輝かしい未来を祝福しているようで、背中を押されるようにアウトストラーダ・デル・ソーレをナポリ方面に南下する。  いつもの出口を降り、なんとか覚えた道を進めば、とつぜん海岸線が現れる。  快晴の空の下、きらきらと光り輝く水面は、見る人が見れば魅力的であろうが、真一にとっては恐怖感を煽る以外のなにものでもない。  ダッシュボードの上のサングラスをかけると、海岸線から意識を切り離して教会へとむかった。 ------------------------------  教会に到着すると、開け放たれた扉の前に牧師が立ち、次々に訪れる信者たちとにこやかに挨拶を交わしているのが見えた。  真一はどうしたらよいのかわからず、離れた場所から様子を窺っていたが、突然背後から、聞き覚えのある、よく通るソプラノに声をかけられた。  「シンイチ! よく来てくれたわねっ!」  夫であろう、よく日に焼けたたくましいイタリア男性と一緒に、シモーナが近づいてくる。  「先日はありがとうございました」  前回同様、シモーナに熱烈なハグの歓迎をされ、夫とも握手をかわし、簡単に紹介される。  「牧師さんにもシンイチを紹介するわ。  さ、一緒に来て」  牧師は驚くことにまだ三十代に入りたての若さで、真一より少し高いすらっとした長身に、彫りの深い甘いマスク。  イタリアの明るい太陽をあびて小麦色に焼けていて、男性の真一から見ても美しかった。  よくよく周囲に視線を移せば、挨拶をすませた者、これからの者も含め、結構な数の若い女性たちが牧師の近くにいて、熱い視線を送っている。  「アラン牧師、こちらが先日お話した日本人指揮者のチアキです。  シンイチ、こちらがアラン牧師よ。若くて美しいから驚いたでしょう!」  「はい……、はじめましてシンイチ チアキです」  「はじめまして、牧師のアランです。  ようこそおいでくださいました」  「この度は突然のお願いで申し訳ありません。よろしくお願いします」  簡単に挨拶をかわすと、シモーナについて教会の中へと進んだ。  信者たちがいつもの席につくと、真一は後方の空いている席に腰を下ろした。  シモーナからは一緒に座ろうと誘われたのだが、自分はあくまで部外者だからと遠慮する。  賛美歌が信者たちにより歌われた後、アラン牧師の説教が始まった。  声まで完璧だな  祭服を身に纏った若く美しい牧師。  美しいバリトンが優しく教会本堂に響き渡る。  若い女性だけではなく、老若男女、すべての信者たちがうっとりと牧師の声に耳を傾けていた。  もう一度、賛美歌が歌われ、お開きになるかと思われていた礼拝であったが、突然、牧師から意外な言葉が聞こえてきた。  「今日は、私たちの教会に新しい仲間がいらっしゃいました。最後にこの方からお話をしていただきたいと思います。  チアキ、こちらへ」  そんな話、聞いてねぇ!  驚きととまどいにどうしたらいいのか思考は停止する。  全信者の視線が自分へと向けられているのを感じる。  そして、視界に飛び込んできたシモーナの優しく温かい視線がんばって!≠ニ動いた口許に背中を押され、真一は初舞台に上がったときの事を思い出し、口の中がカラカラに渇くのを感じた。  牧師のところまで何とかたどり着き、  「あの……、何をお話すれば……」と尋ねる。  「そうですね、あなたの今までの人生についてお話していただけますか?」  「じ、人生……」  救いを求めるように牧師の目を見つめ返すも、美しいほほえみを浮かべるだけで、救いの手は差し延べられない。  真一はもうどうにでもなれと開き直り、信者たちに向き合い、話しはじめた。  「私は二十七年前にフランスで生まれました。  幼い頃から音楽に親しんで育ち、セバスチャーノ・ヴィエラの指揮するベートーヴェンを聞いて指揮者になろうと決意しました。  十二才のとき、家庭の事情で母と日本に帰国したのですが、それ以来、私はあるアクシデントにより国外に出ることができなくなってしまったのです」  水を打ったように静まり返った本堂。  午後の優しい光りが、上部に備えられたステンドグラスから降り注ぎ、真一は生まれて初めて、神の存在を身近に感じながら、自分のまだ短い半生について語りはじめた。  「ヨーロッパに住む皆さんには想像出来ないかもしれませんが、指揮者になりたいと願いながら、国外に出られないのは大変辛いものです。  日本にいながら音楽の勉強を続けていても、ここから動けないのであれば、いっそのこと音楽など辞めてしまおうかと、自分の人生を恨みました。  もう辞めてしまおうかと自暴自棄になっていたとき、ある一人の女性に出会いました。  彼女は優れた音楽の才能を持ちながらも、私のような夢を持つことなく、ただ音楽を奏でることを楽しんでいました。  ある日、彼女とピアノを連弾する機会を得たのですが、そのとき私は身震いするような感動を味わい、音楽を楽しむ喜び、その大切さに気づいたのです。  その後、私は無事ヨーロッパに渡ることができ、指揮者になりましたが、今から思えば、あの苦しかった時期は、私が音楽の真髄に気づくために、神様が与えてくださった試練だったのかもしれません」 ------------------------------  礼拝が終わり、建物の外に出ると、何人かの信者たちににこやかに挨拶され、自分がこの場所で受け入れられたことを知る。  シモーナがアラン牧師とともににこやかにやってくる。  「とても良いお話でした。チアキは牧師にもなれますよ」  「このような経験ははじめてのことで。  無我夢中でよく覚えていません。不思議な体験でした……」  牧師は、すべて理解しているような深いまなざしで真一を見つめ、静かにうなづいた。  「来週はパリに戻って公演があるのでこちらに伺えないのですが……」  「来られる範囲で結構です。無理していただく必要はありません」  「わかりました」  「ところで……、お話されていたピアノを連弾したという女性、彼女があなたの婚約者なのですか?」  「はい……、その通りです」  「まぁー! NODAME は真一を救ってくれた恩人でもあるのね」  静かに隣で微笑んでいたシモーナが声をあげる。素敵なパートナーね!  自分とのだめの関係をあらためて客観的に考えたことはなかったが、こうして第三者から言われてみると確かにその通りだと思う。  のだめのロンドンデビューのときは、俺がアイツを連れて来るための天使だったんじゃないかと思ったものだけど……。  「運命のお相手なのでしょうね」  牧師に言われたその一言は、真一の胸の奥、温かく柔かい塊の中にじんわりとしみ込み、優しくひろがっていくのだった。  十  パリのアパルトマンでは、のだめが一人、部屋で大量のゴミやら、洗濯物やら、がらくたと格闘していた。  「げほげほっ!」  ヒューストンから帰ってきた当初は我慢できないと思っていた汚部屋も、ほんの一瞬の気の迷いみたいなものだったようで、その後はイタリアから戻っても、日々の仕事やレッスンに忙しく、アパルトマンはいつもどおりの散らかり放題にすっかり戻っていた。  「さすがにこの状態はまずいデスよね?」  今日は真一がパリに戻ってくる。  マルレの演奏会での真一が見れるのはひさしぶりのことなので気分も弾んでおり、のだめはそのテンションのまま、部屋の大掃除にとりかかっていた。  ……pururu、pururu……  「アロー?」  「のだめちゃん? 征子です」  「ふぉ! 征子ママ、こんにちは!」  「のだめちゃん、これからちょっと時間あるかしら?」 ------------------------------  征子はパリにやってきていた。  仕事でヨーロッパに滞在していたため、息子とのだめの結婚の決意を知り、いてもたってもいられなくなったのだ。  なんとか仕事の都合をつけ、パリにいるであろうのだめに連絡をし、食事に呼び出した。  「のだめちゃん、こっち!」  待ち合わせのレストランで、きょろきょろと自分を探す様子は、初めて会った数年前と変わらない。  きっと、何年たってもこの雰囲気は変わらないのだろう。  「征子ママ、おひさしぶりですー!」  のだめと征子が会うのは、のだめがソロコンサートを日本で行った時、もう一年以上前になる。  「のだめちゃん、元気そうね」  「征子ママも、相変わらず綺麗デス」  食前酒をオーダーし、再会に乾杯する。  「今日、真一は?」  「先輩は、明後日がマルレの本番なので、今日パリに戻って早速リハーサルです」  今頃ごろネチネチやってるんじゃないデスかね?  「まぁ、本番二日前に戻ってくるなんて、ずいぶん余裕じゃない?」  「この一年、ずっとそんな調子でしたから、先輩もマルレの皆さんもすっかり慣れたみたいデスよ?」  近況報告が終わると、征子は急に改まって姿勢を正し、のだめに向き合うと、神妙な面持ちで切り出す。  「のだめちゃん、この度は真一のプロポーズ受けてくれて、本当にありがとう」  そういうと、座ったままではあるが深々とお辞儀をする。  「あわわ、征子ママ、やめてくださいー。のだめこそ、ふつつか者ですが、よろしくお願いします」  のだめは慌てて征子のお辞儀を止めると、自分も姿勢を正し、あらためてお辞儀を返す。  「私ね、のだめちゃんがお嫁さんに来てくれて、本当にうれしいのよ」  「征子ママ……」  「もしかしたら、あの子は結婚しないかもって思ってたから。  そんなことになったら、のだめちゃんにも、のだめちゃんのご両親にも申し訳なくて……」  そういって、征子は涙ぐんだ瞳でうれしそうに微笑んだ。  食事を進めながら、のだめは先日のイタリアでのことを征子に報告する。  初めて会ったヴィエラとはすぐに意気投合して、大好きになったこと、そしてイタリアの郊外に真一がみつけた教会に連れていってもらい、挙式の許可を得たことを話す。  「え? 二人だけで挙式って、のだめちゃんはいいの?  ご両親はちゃんと納得して頂いているの?」  「はい。最初は実家に戻って披露宴もしてって思ってたみたいデスけど、のだめの気持ちを伝えたらちゃんとわかってくれましたから、大丈夫デス」  「のだめちゃんの気持ちって?」  「先輩とずっと一緒にいることを、神様の前で誓いたいって。  それができればふたりっきりでいいって……」  食事がおわり、デザートに舌鼓を打ち、大満足でカフェを飲んでいると、のだめが突然切り出した。  「あ、そうデス! 征子ママに聞きたいことがあるんデス!」  「なぁに? 聞きたいことって」  のだめは、真一が見つけてきた教会のあるイタリア郊外の街の名前を伝え、その街に心当たりはないか、征子に尋ねる。  「え? その街ってもしかして……」  十一  久しぶりにパリに戻ってきた。  気心の知れた仲間と挨拶を交わし、いつものようにリハーサルが始まると、自分のホームに帰ってきたのだと実感できる。テオのアホ顔さえ、なんだか懐かしく思えるから不思議だ。  この一年ほどマルレでは、常任指揮者のハードなスケジュールにあわせて、短い時間で仕上げなければならないため、プログラムもマンネリ気味。  コンマスや首席たちも、口には出さないが物足りなさを感じているはずで、団員たちのモチベーションを維持するためにも、このままでは駄目なことはわかってる。  今後はエリーゼの計らいで十分な時間も取れそうだし、オペラの勉強はもちろん続けるが、マルレの演奏会でも挑戦的なプログラムや、新しいことにもチャレンジしてみたい。  黒木くんや、ポールがいないのは、ちょっと寂しいけど……  それでも、まずまずのオケの仕上がりに満足すると、めずらしく予定時間どおりにリハーサルを終え、団員たちとの挨拶も早々に真一は練習場をあとにした。  運転席に乗り込み、自分の部屋に帰るか、のだめのアパルトマンに行こうか、悩む。  今日、自分がパリに帰ってくることは伝えてあるが、あいかわらずのだめからは何の連絡もないし、約束もしていない。  マルレでのリハということがわかっているからだとは思うが、のだめは仕事の邪魔になると思うと、遠慮するところがある。  俺にしてみれば、少しくらいのわがままは可愛いもんだと思えるのだが。  そんな風に時間を無駄にしているのも馬鹿馬鹿しくなり、携帯を手にするとメモリーを呼び出し発信ボタンを押す。  ……pupu、pupu……、pu!  アロー! のだめはただ今電話に出ることができません。発信音のあとにメッセージを……  「アイツ、何やってんだ?」  相変わらず、なかなか繋がることのないのだめの携帯。  繋がらない携帯にイラつきながら、家デンにも電話するが、やはり留守電のメッセージになり、のだめには繋がらない。  「……」  めずらしく時間通りにリハが終わったから、ひさしぶりにアイツの言うところの呪文料理でも作ってやろうと思ってたのに!  「かわいくねー」  ステアリングに両手をかけ、眉間にしわを寄せた不機嫌な顔を乗せ、車内の時計に目をやれば、まだ夕食には早い時間。  「ちょっと出かけてるだけだろ? 部屋で待ってるか……」  そして、部屋に戻ったときに、自分の存在(呪文料理の存在)に驚き、喜ぶのだめの顔を想像しては、おもわず弛む頬を慌てて引き締めて、車を走らせた。 ------------------------------  「ぎゃぼっ!」  のだめが征子との食事から戻ると、片付け途中であったはずの部屋はきれいに片付けられ、キッチンからは美味しそうな匂いが漂っていた。  これが、三時間前ならどんなによかったことだろうか。  時間を戻すことができるのであれば、どんな試練に耐えてもいい。  そんな風に思えるほど、今現在、この部屋のソファーに座り込んでいる元家主は、全身に黒オーラをこれでもかというほど纏って、足元に転がったワインの空き瓶からも、すでにかなり出来上がっていることが想像される。  「真一……クン……?」  「……売れっ子ピアニストの NODAME さん、おかえりなさい」  「た、ただいまデス……」  キッチンのテーブルの上は綺麗にセッティングがされ、その様子は呪文料理が用意されていたことと、真一の気合いの入りようがうかがえる。  「……メシは?」  「……あ、済ませてきまシタ」  どかっ! ズカズカズカッ! がしっ!  よっぱらいとは思えない素早い動きでキッチンに行き、セッティングされた食器をがちゃがちゃと片付けようとする真一。  「むっきゃー! 待ってくだサイーー!  こ、これには、よんどころない事情というモノが……」  がばっ!  黒オーラを全身に纏い、鬼の形相のまま、凄いいきおいで振り返り、のだめを睨みつける真一。  「どんな事情だよっ! 言ってみろよっ!」  「征子さんが来たんデスよ!」  「えっ!」 ------------------------------  「はぁ……、なんだよ母さんのヤツ、急にパリに寄ったりして……」  不必要な怒りやら苛立ちに無駄なエネルギーを使いまくり、せっかくの婚約者との貴重な時間を横取りされた息子は、疲れきってがっくりと肩を落としていた。  「それはモチロン、大事な息子の人生の一大事に、駆けつけたンじゃないデスか……」  「で?  息子には連絡せず、将来の嫁にだけ会って、ひっかきまわすだけひっかきまわして、自分はさっさと帰国したってか?」  「はうん、将来の嫁……。 ていうか、べつに征子サンはひっかきまわしてはいないのデハ?」  がたっ! ばしっっ!  真一は、のだめのもっともなツッコミに二の句が継げられず、キッチンの椅子から乱暴に立ち上がると、手にしていたナプキンを床に叩きつける。  しかし、やはり切り返す言葉は見つからず。  「……寝る……」  「え……」  すきっ腹にワインのボトルを空け、諸々の状況にすっかり悪酔いした真一は、すべてを忘れ去りたい一心で、ベッドへと逃げ込んだ。  「がぼん……。  久しぶりの呪文料理とスペシャルデザートが……(気にするところはそこか)」  へそを曲げた大きな子供を持て余したまま、のだめはキッチンの片付けへと向った。  十二  翌朝、二日酔いの真一は、昨夜の気まずさもあり、ベッドからなかなか起きてこない。  マルレのリハは午後からなので、時間は十分にある。  仕事のためにすでに起きだし、朝食を作ったり、身支度をするのだめの様子を、ブランケットを頭から被ったまま、聞き耳をたてて様子をうかがっていた。  のだめは支度が調い、出掛けられる状態になると、ベッドの真一の枕元まで来てそっと屈み込むと、優しく話しかける。  「真一クン、キッチンにおみそ汁とおにぎりありますカラ。食べられそうなら食べてくだサイね?  のだめは夕方には部屋に戻ってマス。  今日は必ず、誰に誘われたとしても、真一クンのこと待ってますカラ。連絡くだサイ」  「……わかった」  ベッドの中からそっぽを向いたまま返事をする真一がかわいくて、のだめは気づかれないようにクスリと笑って仕事にむかった。 ------------------------------  しばらくして起き上がった真一は、バスタブに浸かってお酒を抜き、午後のリハーサルに向かうため身支度を整えていると、二日酔いの原因である母から携帯に着信がはいる。  「昨日のこと、のだめちゃんから聞いた?」  「会って食事したことは聞いたけど……」  「そう……」  「なんかあった?」  「ううん、母親として息子をお願いしたのよ、お嫁さんに」  「あっそ」  「ねえ……、雅之さんには連絡したの?」  「あー……、今、演奏旅行中みたいだから……」  「そう……、じゃあ連絡する気はあるのね」  「うん……アイツも会いたいって言ってるし……」  「そう……。じゃあ、がんばって。  明日の本番と、明後日は帰国するんでしょ?」  「う、うん……」  必要な書類は揃えておくからと言い残し、母は一足先に日本へ帰って行った。 ------------------------------  のだめは仕事を終え、部屋に戻った。  二日酔いで辛かっただろうに、今朝のだめが用意して行った朝ごはんは、食器も洗ってきれいに片付けられ、部屋も簡単に掃除してある。  「さすがデスね」  部屋着に着替えると、カフェオレを自分のために入れ、ソファーへ腰を下ろし考え込む。  今朝、真一が朝食に起きてこなかったのには、実は少しほっとしていた。  もし、昨夜の征子との話を聞かれたら、どうしようかと悩んでいたからだ。  「どこまで話しますカネ?」  昨夜、征子と二人だけで食事をし、教会のあるローマ郊外の街の名前を告げると、征子は一瞬息をのみ、驚きを隠せなかった。  「あの子、なにも覚えてないのよね?」  「はい……。  でも、初めて訪れた時から、なにか懐かしいような不思議な気持ちになるって、二度目に訪れたときも言ってまシタ」  「そう……」  「あのう……、どういうことなんでショウ?」  のだめは、征子の戸惑っているような態度に、堪え切れずに尋ねる。  征子は手元のカフェを飲み干すと、店を移動しましょうと提案し、店員にチェックを頼むと席を立った。 ------------------------------  こじんまりとした裏通りの地下にあるバーで、のだめと征子はカウンターに横に並んで座っていた。  征子がダイキリを頼んだので、のだめも同じものをと注文すると、征子は私のだけラムをダブルにしてちょうだい≠ニ言う。  いつもと少し様子の違う征子に驚きながら、話の続きをを待った。  征子はカウンターの奥をみつめたまま静かに話し出す。  「とっても幸せな時期だったの」  遠くを見つめるような征子の瞳は、とても優しく澄み切っていて、見つめるものを、奥底へと引き込んでしまうよう。  それはのだめに、真一の瞳を思い出させた。  バーテンからカクテルが二人の目の前に差し出される。  「のだめちゃん、もう一度乾杯しましょ」  そうして、征子はカクテルを美しい指で掴むと目の高さまで持ち上げ、のだめににっこりと微笑みかけた。  カクテルを一口飲み、美味しいと呟くと、もう一度カウンターの奥に視線を戻す。  「雅之さんは結婚した当時、まだ無名のピアニストで、結婚式はもちろん、新婚旅行にもいけなくてね」  「一年ほどすると真一が生まれて、それからかしら、少しずつ仕事が入るようになって。  当時、雅之さんは真一のことを幸運の天使だって言ってたわ」  「天使……、真一クンが天使……」  「真一が五才になったころ、雅之さんはピアニストとして転機になるような大きな仕事が成功して、雅之さんったらめずらしく興奮して、だいぶ遅くなったけど、新婚旅行の代わりに家族旅行に連れてってやるって」  「興奮した千秋雅之……。ハイテンションな千秋真一以上に、めずらしいもののような……」  のだめの呟きにクスリと微笑むと、征子は視線をのだめに戻し言った。  「それで訪れたのがその街よ」  「ほわぉ……」  十三  リハが終わり、これからそっちに行くとのだめにメールを送る。  脳内いっぱいに響くオケの音を抱え込んだまま、練習場から歩いてのだめのアパルトマンに向かうことにした。  途中、マルシェで夕食のための買い物をして、昨夜の仕切り直しのために、シャンパンを買う。  久しぶりにのだめのアパルトマンで過ごすのだから、昨夜のような醜態はさらしたくないし、二人の時間を大切にしたい。  そんなことを考えながら、パリの街を歩いた。  最近の俺、どうかしちまったか?  すこし自分に呆れつつ、甘い気持ちを持て余しながらアパルトマンの中庭に入ると、そんな真一を迎えるかのようにのだめのピアノが聞こえてくる。  今までに何万回繰り返されたかわからないこんなシチュエーションも、最近では本当に久しぶりで、真一は自然と心がふわふわと軽くなっていくのを感じた。  アパルトマンのアールのかかった階段をふわふわと上り、合鍵でそっとドアを開け部屋に入ると、さらにのだめのピアノが色彩も鮮やかに迫ってくる。  ラヴェルの都会的でメランコリックな旋律。  のだめが気づいて演奏をやめないようにそぉーっとドアを閉め、静かにピアノに近づく。  あけっぱなしの寝室とのドアからのぞく、ピアノを弾くのだめの横顔はなんだか上の空で、ピアノを弾きながらも、心ここにあらずといった様子だ。  「ぎゃぼっ!」  突然、背後から回された両手に驚いて、指を止める。  「真一クン、おかえりなサイ」  「ただいま……」  抱きしめたのだめの身体は、ピアノを弾いていたからか、普段より体温は高めで、うっすらと汗をかいた肌が、真一の頬にしっとりと吸いつく。  誘われるまま、鼻先で後ろ髪をかき分けていくと、辿り着いた首筋に優しくくちづけを落とす。  「驚かさないでくだサイよ……」  視線はピアノに向けたまま、振り返ることなくのだめが真一を優しく責める。  「ん? なんか上の空で弾いてるみたいだったから」  「え?」  真一はのだめを抱きしめていた腕をほどき、買い物袋をキッチンへと運びながら、  「考え事しながらでも十分弾けるっていう自慢か?」  と、からかうように笑い、夕食の準備に向かった。  さすが真一クンは鋭いデスね……。  のだめは真一に気づかれないようにそっとため息をつくと、もう一度ピアノへと向き合った。 ------------------------------  二人きり、パリののだめのアパルトマンで、真一の作った料理で食事する。  シャンパンで乾杯をし、テーブルいっぱいに並ぶ呪文料理を、奇声をあげながら口に運ぶ愛しい恋人。  のだめのために食事を作ってやるのも久しぶりだったし、向かい側で奇声をあげながら美味しい、美味しいと喜んで食べてくれるのだめを見るのもひさしぶりだけれど、こんな何度も繰り返された当たり前の光景に、幸福なんてものを感じてしまう自分に真一は半分あきれてしまう。  「そうだ、昨日、母さんにあの街のこと、聞いたのか?」  シャンパンからシフトしたワインを飲みながら、真一が尋ねる。  「え? げほげほっ!」  おい、そんなに慌てて食わなくてもと、真一が水を差し出す。  のだめは水をぐびぐびと飲むと、大きく息を吐き、胸を撫で下ろす。  「だってー、真一クンの呪文料理、久しぶりだったカラ」  のだめがどんだけこの日を待ち望んでいたか……、毎日のように夢にまで見たんデス! と勝ち誇るのだめに、  「わかったから……。それで? どうだった?」  と、先を急がせる。  のだめはもう一度水を一口含み、ふぅーっと息を吐くと、うつむき加減で話し出した。  「はい……、やっぱり真一くんがあの街に行くのは初めてじゃないそうデス」  「え?」  「真一クンが五才のとき、家族旅行に行ったそうデス、あの街」  「家族旅行……」  あの街に行くのは初めてではないと言われたことは、今まで自分が受けた印象から何となく受け入れられたが、家族旅行という自分には心当たりの無い単語に、真一は戸惑う。  「もちろん、雅之さんも一緒にデスよ?」  「アイツが? 家族旅行?」  のだめは、征子から聞けたのはそれだけだと言った。  あの街へは家族旅行で一度行ったことがある。  あのホテルにも泊まっているから、主人の言っていた日本人のピアニストの家族というのも自分達のことだろうと言っていたという。  「へぇ……。あんなところに、家族で行ってたのか、俺……」  「なぜあの街なのかについては、雅之さんが一人で決めてきたことなので、征子さんも知らないそうデス」  「アイツが?」  全然、覚えてねぇ……。そんなことってあるのか?  「だから真一クンは懐かしい感じがしたんデスね」  「……」  のだめは、考え込む真一の思考を振り切るように、おどけたように明るいトーンで言葉を続ける。  「素敵デス!  子供時代の思い出の場所に、大人になった自分が偶然迷い込んで、ふらっと見つけた教会で、愛しい女性と結婚式を挙げる……、小説みたいデスね」  「はうん……愛しい女性……」  のだめは、自分が口にした言葉に自分でうっとりとしながら、真一クン、また呼んじゃいまシタ? とか、わけのわからないことを言ってはしゃいでいる。  でも、俺にはまったく記憶のないことで、なんだかすっきりしない。  「そんなことより真一クン……、今日は久しぶりに一緒にお風呂に入りまセンか?」  のだめは、いつのまにか立ち上がって真一の背後にまわると、両腕を真一の肩から絡みつかせ、甘えるように囁く。  真一は、焦りながらのだめを振り返った。  「え!  い、いいけど……、突然なんだよ、どういう展開だよ、なんの脈絡もなく……。(たしかに)  だ、だいたい、お前いつも風呂は明るいから恥ずかしいって嫌がるじゃねーか……」  「だってー、真一クンがこの部屋に泊まるのだって久しぶりなんデスよ?  昨日はふて寝されたし……。  一晩中、のだめはお預けでムラムラしてんデスよ!」  「へ、へぇー……」  まじまじとのだめを見つめるも、頬を赤らめてうつむき加減でモジモジはしているが、目そらしはない。  よし、何かのトラップではないようだ。(どんな罠?)  めずらしいのだめからのお誘いに、じゃあ喜んでと、真一はあれこれ悩むのはやめ、バスルームに準備のため、そそくさと向かう。  「明日本番終わって、日本帰国したら、泊まるのお互いの実家だしな」(だからなに?)  鼻歌を歌いながら、入浴の準備をする真一を盗み見るのだめは、ほっと胸をなでおろした。  「真一くんに話せるのはここまでデスね……」  征子から昨夜聞いた話をすべて伝えるわけにはいかないのだめは、この先のことを想像すると少し気が重い。  そっと気づかれないように今日何度目かの、ため息をついた。  十四  昨夜は甘い恋人同士の夜をたっぷり堪能したマルレ常任指揮者。  プライベートの充実ぶりが、どうしても棒に出てしまうのは致し方ないこと。  コンマスの鋭い視線がちょっと痛いが、何事もなかったかのように本番前のゲネプロを終了させた。  一度楽屋に戻り、軽くシャワーで汗を流すと、  KYOUHA TANOSHIMINI SHITEMASU!  と、のだめからのメールが入っていた。  マルレの演奏会、のだめの指定席が埋まるのも久しぶりだ。  学生時代は必ずといっていいほど、真一の公演には、いつもの指定席にのだめがいてくれた。  客席にお辞儀をし、オケに振り向く瞬間、必ずのだめのことを見るのがいつのまにか習慣になって。  のだめだけは絶対に、いつでも自分の音楽を信じていてくれるから。  携帯の画面に頬を弛ませ、惚ける自分に気付き、  「い、いかんいかん……」  と、一人きりの楽屋で頭を左右に振り、甘い気持ちに蓋をした。  本番まで時間があるので、軽くカフェでなにか腹に入れようと思ったが、昨日の母親とのやりとりを思い出し、アイツにもう一度だけ連絡してみようとメモリーを呼び出し、発信ボタンを押す。  ……pupu、pupu……   プッ!  「はい」  まさかいないだろうと思ってかけてみれば、早めのコールで相手が出たので、とっさに声がでない。  「あっ……」  「なんだよ、イタ電かよ?切るぞ?」  「お、おいっ! ちょっとまて……あ、……真一だけど」  せっかちな相手に、せっかく繋がった電話を切られてはかなわないと、慌てて言葉を紡ぐ。  「真一って、千秋真一のことか?」  「……千秋真一だけど……」  なんだよその確認の仕方……。  冒頭からかなりカチンとくる言い草。しかし彼らしい台詞だと納得する自分もいる。  「いきなりなんだ? てゆーか、この番号知ってたのか」  「母親に無理矢理登録された」  「あ、そっか」  「……」  「……」  面と向かってだって、何を話せばいいか困る相手なのに、いきなり電話でなんて難易度高すぎるだろ。  「なんだよ……、用がないなら切るぞ」  「い、いや、ちょっと待て! ……報告することがあって」  本当に今にも切りかねない雅之の勢いに、慌てて用件を切り出す。  「俺、結婚することにした」  「……あの時の NODAME ってやつか?」  「ああ……」  「おめでとうって言っていいんだよな?」  「ああ、ありがとう」  「で? お祝いの催促かなんかか?」  「……アイツが、アンタのこと紹介してほしいって。  ウィーンにいるときにでも、のだめを連れて行きたいんだけど」  「お祝いはいいよな?」  「……いらねーよ……」  雅之は、二ヶ月ほどはウィーンから動く予定はないから、予定が決まったら連絡して来いというと、じゃあもういいよな? とあっけなく息子からの初めての電話を切った。  「……」  ……pu,pu,pu,pu,pu,……、  回線が切れていることを知らせる電子音をしばらく聞きながら、まさに自分と父親の関係を表している音だと思った。 ------------------------------  ……pupu、pupu……   プッ!  「はい」  「征子です。ごぶさたしてます」  はじめての息子からの電話があったかと思ったら、キャッチを取ってみればその母親、元妻からの電話であった。  「今日は俺、モテモテだな」  「あら、何のこと?」  「さっき、真一から電話あったぞ。NODAME とかいうやつと結婚するから、会いにくるってさ」  「そう……。さっそく連絡あったのね。  ねぇ、ほかに何か話した?」  「それだけだ」  「……ねぇ、お願いがあるんだけど」  初めての息子からの電話に、久しぶりの元妻からの電話。  お願いがあると切り出されて、雅之は自分一人の静かな生活に、さざなみがたつような感覚に襲われ、軽くめまいを感じた。 ------------------------------  ルー・マルレ・オーケストラ定期公演。  パリのブラン劇場。  見慣れたはずの光景が、今日はなんだか新鮮に見える。  J.シュトラウス喜歌劇「こうもり」序曲。底抜けに明るくて、馬鹿馬鹿しくて、ドタバタの喜劇をそのまま再現する、華やかで楽しく心踊る旋律。  婚約者との結婚を控えて、周囲に振り回され、からかわれながらも幸せな今の自分にぴったりとあっている気がする。  そして、シュトラウス自身、悲しみから立ち上がるために書いた明るい曲は、自分の中にある父親への複雑な思いまで払拭してくれる気がする。  客席の中央、右端にある指定席へ視線を投げ、オーケストラへと向き合うと、真一はただ音楽に身をゆだね、オケを導いていった。  Bravo!  歓声の中、使い慣れた楽屋に戻る。  二十三時三十五分発の成田行きへ乗らなければならないため、楽屋訪問も断り、急いで帰り支度をする。  「チアキー! 早く早くっ!」  「テオ、ありがとう。じゃあまた」  「気をつけてね、奥さんも」  「はいっ! ありがとデス!」  テオが劇場まで呼んでおいてくれたタクシーに乗り込み、シャルル・ド・ゴール空港へ向かう。  「なんとか間に合うか?」  「そうデスね?  それに、このくらいバタバタしてたほうが、真一クンも余計なこと考えなくて済んで、いいかもデスね」  「うるさい……」  「ぎゃぼっ! 重たいデスよー」  ぐったりと隣ののだめに体重を預けて、腰に両腕をまわし、これから耐えなければならない長時間のフライトにむけ、こっそりと充電する。  「もうー、真一クンのあまえんぼー」  なんとでも言え。  俺は、これから二人っきりの時は、自分に素直になることに決めたんだ。  真一は、嫌いな飛行機に十二時間近く乗らなければならないのに、やけにウキウキしている自分がおかしくて、のだめに気づかれないようにこっそり笑った。  十五  二人を乗せた飛行機は、定刻通り日付が変わった十八時すぎ成田に到着した。  のだめとずっと一緒にいるからなのか。  長時間のフライトも以前に比べてさほど辛くない。  今日一泊三善家に泊まり、明日は大川で一泊、そして翌日には日本を出なければならないという強行スケジュール。  一分たりとも無駄に出来ない貴重な滞在時間ではあるが、これから横浜の三善家に直行しても二十一時過ぎ。  みんな食事を済ませてしまっているだろうから、途中で食事をして帰ろうかと真一が提案する。  「じゃあ裏軒いきまショウよ!  のだめ、一年ぶりのマーボ食べたいデス!」  「完全に寄り道じゃねーか……」  「いいじゃないデスかー。  今回は時間もなくって、峰くんや真澄ちゃんたちにだって会わずに帰らなくちゃいけないんですから、裏軒マーボにだけでも会っておきまショウよ?」  「マーボと同列かよ……」  ふっ。ちょっと峰や真澄が可哀相だな……。(あなたと呪文料理も同列ですよ)  タクシーの運転手に行き先の変更を告げ、どっかりとシートに背中を預け、まぶたを閉じる。  真一は婚約者の左手を握り締めると、薬指のリングをそっと撫でた。 ------------------------------  ガラッ!  「いらっしゃーいっ!」  カウンターの中で、扉の開く音に反応して、いつもどおり声をあげた龍見は、なにげなく客に視線を送り、その二人の客の顔に驚くと、喜びの声をあげた。  「のだめちゃんと……、先生!」  「峰パパー! おひさしぶりデス!」  夕食のピークの時間は過ぎ、閑散とした店の中で、再会の喜びの声が響き渡った。  裏軒も龍見も、二人が日本を出たときと寸分たがわず、そのままの姿でいてくれた。  激動の数年間だったが、今も変わりなく二人を迎え入れてくれる場所と人があることに、とても安心する。  自分たち二人の関係は、出会ったころとは百八十度変わってしまったけれど。  でもそれは、恋人とか婚約者だとか、一般的な定義だけであって、自分たち二人がお互いの心に占める大きさだとか深さなんかは変わっていないのかもしれない。  そんな真一の感慨に浸る様子にはお構いなしで、いつものとおり龍見は、のだめにマーボ炒飯餃子セット、真一にクラブハウスサンドを運ぶと、二人のテーブルの前に立ち、話しかけた。  「今回はどうしたの? 仕事?」  「えっと……、なんて言えばいいデスかね? 先輩」  「えっ!……、そ、そうだな、結婚準備のため?」  ぎゃはぁー! 結婚ーーーー!  奇声をあげて、わけがわからなくなっているのだめに代わり、千秋が龍見に説明をする。  もう、いい加減に慣れろよ……と思いながら。  「結婚することになりまして……、俺の実家とコイツの実家によって、諸々挨拶とか、事務処理とか……」  「そうでしたかー! それはおめでとうございます!  残念だなぁ、龍太郎はねぇ、今、舞台の仕事が本番まもなくで、毎日帰ってくるのは真夜中なんですよ」  「そうなんですか……」  「お二人にも会いたかったでしょうに、残念ですね」  「今回はスケジュール的に、明後日には戻らないといけないので……」  いずれ、落ち着いてからゆっくり時間がとれるときにと告げ、懐かしいクラブハウスサンドを口に運んだ。 ------------------------------  やっと三善の家に着いた。  自分とのだめの荷物をまとめたいつもより大きめのスーツケースをひきずり玄関に立つと、三善家の面々に迎えられる。  「のだめちゃーん!」  「由衣子ちゃーん!」  従姉妹の由衣子がまっさきに飛びつくのは、いまじゃ俺じゃなくて、のだめなのが当たり前で。  嬉しいような、淋しいような、ちょっと複雑な気分だ。  「真兄、とにかく部屋に上がってみてよ」  従兄弟の俊彦がにやつきながら言うと、由衣子や叔父、母までもが意味深な笑顔で俺達を見る。  「な、なんだよ……」  「まあ、私からのちょっとした結婚祝ってとこだ」  「?」  叔父からの言葉の意味がよくわからないまま、二階の自分の部屋にあがり、ドアを開ける。  「な、なんだこれ……」  「ほわお……劇的ビフォーアフター……」  中学から高校までを過ごした俺のなんの飾りもない質素だったはずの部屋は、隣の部屋まで壁をぶち抜いたのだろう、倍の広さになっている。  落ち着いたシックな色ではあるが、男一人の部屋には似つかわしくない、ソファーやテーブル、クッション、ラグやカーテンに迎えられる。  手前がちょっとしたリビングスペースで、その奥にもう一つ壁で仕切られ、ドアがある。  驚いて動けない俺にかわり、のだめがそそくさとドアをあけると、そこにはクイーンサイズのダブルベッドがのぞいており、寝室になっているようだ。  「ファブリックは私と征子ママセレクトよ?」  と、母親と嬉しそうにしてる由衣子。  「簡単なシャワールームもつけておいたから、いろいろ気兼ねしなくていいぞ?」  と叔父。  いろいろ気兼ねって……。  「寝室は部屋の奥だし、二重扉だし、防音は完璧で、照れ屋な真兄にもばっちりだろ!」  俊彦、なんでそんなにテンション高いんだよ……。  「ほらみんな、そろそろおいとましましょ?  若いふたりの大切な時間を邪魔しちゃ悪いし」  「そうね。のだめちゃん、明日ピアノ聞かせてね」  「おお、私もぜひお願いするよ。明日は一日オフにしてあるから」  「父さんは、のだめさんのピアノ好きだなぁ」  「ああ好きだぞ、本人より好きだな」  「パパ、それのだめちゃんに失礼!」  「そうか? 最上級の誉め言葉のつもりなんだが……」  ばたん。  「はぁ……」  三善家の一同が騒がしく階下に降りていく音を背後に聞きながら、真一は大きくため息をついた。  十六  長時間のフライトとか、裏軒への寄り道とか、久しぶりに訪れた実家での衝撃の事実とか、いろんなものが重なって朝遅くまで熟睡してしまった。  うつぶせで、ねぼけ眼なまま、ベッドの左側のスペースを手で探るが、そこには暖かな温もりも柔らかな塊もなく、少しひんやりとしたシーツはそこにいた主が抜け出してから、しばらく経っていることを伝えていた。  「のだめ?」  寝室の扉を開けるがすでに部屋はからっぽでかすかに階下からピアノの音が聞こえる。  「さっそく弾かされてるのか」  部屋着に着替え、サロンへと向かう。  「おはよう、ぐっすり眠れたみたいね?」  「……おかげさまで」  意味深な笑顔を向ける母親の顔は極力見ないように努める。  「のだめちゃんのピアノ、また一段と色鮮やかになって。  今までのふんわりとしたのだめちゃんらしさに、なんだか落ち着きというか、迫力が増したような気がするわ。プロポーズ効果かしらね」  「……」  サロンでのプチ演奏会が終わり、ダイニングでブランチをとりながら、母から事務処理についての報告を受ける。  「入籍のために必要な公的書類はすべて揃えてあるし、婚姻届けも取り寄せてあるわよ」  「えっ!」  「えって真一、入籍はどうするつもりだったの? 挙式すればいいってもんじゃないのよ? あなたたちは日本人なんだから」  「……」  「事実婚ってのもあるかもしれないけど、のだめちゃんのこととか考えたら、ちゃんと籍入れてちょうだいね」  「そ、そうだよな……」  まったくこの子ってば結構気が回らないっていうかなんていうか……と、母にぼやかれる。  最近、母親からこの手の呆れ顔をよくされるような気がする。  「とにかく、のだめちゃんの公的書類も取り寄せてもらってあなたたちがサインさえしておいてくれれば、提出は日取りのいい日にこっちでやっておいたっていいわよ?」  「先輩、日本のことは征子ママにお任せしまショウか? のだめたちもそうそう日本に帰れるわけじゃないですし……」  「そうだな……」  「証人はどうするの?」  「あ……」  こんなこと、電話でお願いすることじゃないけど、とりあえず次にいつ帰国できるかわかんないし、駄目元で電話してみる。  「千秋かっ! 親父から聞いたぞ、いよいよのだめと結婚するのか!」  「あ、ああ……うん」  「ついにかぁー! のだめってすげーなぁ。ドリームズカムトゥルー!」  馬鹿が電話口で叫びまくってる。  俺はこいつに電話してしまったことを早くも後悔していた。  でも、こいつ以外にこんなこと頼める相手、思いつかねーし……。  「あのさ……、明日には日本出るんだけど今日これからちょっと時間とれねーか?」  「そうだなぁ……悪いんだけど、明後日舞台が本番で、マジで時間ねーんだよ。  ちょっとだけでも時間とれれば会いたいのはやまやまなんだけど……」  「いや、こっちが急に頼んだんだし。また、ゆっくり時間がとれるときにでも連絡するよ」  ちなみに清良は日本か? と尋ねるが、清良も演奏活動でヨーロッパらしい。  証人、できれば峰と清良に頼みたかったんだが……。   もう一人の心あたりにも連絡してみる。  「きゃー、千秋様! どうなさったんですの?」  「えーと、今、帰国中なんだ」  「まぁっ! お仕事かなんかですの?」  「いや、えーと……」  はっきり切り出せない俺に、のだめが電話を奪い取る。  「真澄ちゃーん、のだめデス! おひさしぶりデス!」  「なによ、このひょっとこ娘! 私と千秋様の邪魔する気?」  「邪魔だなんて、まったくそんなつもりないデスよ? だって、のだめはもうすぐ、千秋恵になるんデスからー!  それでデスね、ぜひ真澄ちゃんに、のだめと千秋先輩の愛の軌跡とディスティニーラブの証人として婚姻届にサインしてもらえないかと思ってー」  能天気なのだめからの衝撃的な告白を受けて、受話器越しに黒オーラが立ち上がるのを感じる。  「……千秋様に代わってちょうだい」  「ぎゃぼん……。呪いのリスト入り、再び……」  真澄に凄まれ、のだめはしぶしぶ電話を真一に戻す。  「……千秋様、真澄は今日まで、千秋様の幸福だけを思って生きて参りました。  千秋様の人生にあんな変態でものだめが必要だということは十分理解しておりますし、仕方のないことだと思っております。  でも、婚姻届に……、し、証人としてサインをすることだけは、お許しいただけませんか?  ま、真澄だって、恋する乙女なんですのよ?  好きな男が一人の女(しかも変態)の所有物になる……、そんな悲しい出来事の後押しをしろとおっしゃいますの?」  うっ! うわわぁーーーーーん! 殺すわーーー! 電話口で号泣する真澄。  「あ、あのごめん、もういいから……。  じゃ、またな」  「待って! あの、千秋様……」  真澄は思いつめた様子であったが男らしく(乙女らしく)覚悟を決めると、静かに語りだした。  「私も千秋様を心から愛した乙女として、こんな終わり方、嫌なんです。  証人に困ってらっしゃるんでしょ? それなら……」 ------------------------------  大川に向かう途中、東京駅近くのホテルで、証人をお願いするふたりと待ち合わせした。  「千秋君!」  「黒木君、助かったよ……」  「ひさしぶりね、千秋」  「ターニャ、久しぶり。今日はありがとう」  「ほんと、黒木君とターニャがそろって日本にいただなんて、飛んで火に入る夏のかぶとむしデスよ!」  「お前それ、使い方とか、いろいろ間違ってる……」  たまたま日本滞在中だった二人に、急に無理を言って時間をつくってもらった。  「でもふたりとも、どうして揃って日本に?」  「えっ! いや、それはその……。いろいろと……」  なぜか頬を赤らめ、うつむいてモジモジする黒木君とターニャ。  ここで勘のよい人物であれば、しかるべきツッコミなどをするところであるが、あいにく真一はコッチ方面の勘の鈍さはぴか一。のだめに至っては、気にかけてすらいない(千秋以外に勘を働かせない女)。  「そ、そっか(聞いておいてスルー)。とにかく本当に助かったよ。  黒木君とターニャだったら、俺たちの証人になってもらうのにぴったりだし」  「でも、ターニャは外国人デスよ? 日本の婚姻届の証人になってもらえるんデスか?」  「大丈夫なのよ、成人であれば外国人でも」  「へぇー、ターニャ詳しいな」  「う、煩いわね、早くしなさいよ、時間ないんでしょ? あんたたち」  なんだかやけに落ち着いたターニャに促され、ホテルのロビーの低めのガラステーブルに婚姻届を広げると、黒木君とターニャはやや窮屈そうに証人欄にサインしてくれた。  「これで大丈夫かな?」  「そうね」  「ほわぉ……。なんだか黒木君とターニャ、夫婦のような落ち着きと阿吽の呼吸デスね?」  「「えっ!」」  「ま、のだめと千秋先輩の域に達するにはまだまだデスけどね。いたっ! 先輩痛いデスー!」  「黒木君もターニャも突然こんなことお願いして、急だったのに本当にありがとう」  「どういたしまして。僕らにとっても千秋君と恵ちゃんは、大事なカップルだからね。  自分たちののことのようにうれしいよ」  そういって、黒木君とターニャは穏やかな微笑みを浮かべ、お互いを見つめあい、そっとテーブルの下で手を握り合った。  十七  婚姻届って、こんなばたばたと書いちまっていいのか?  そんな疑問が浮かんだりもするが、そんなことを考えている暇もないくらい、パリから成田、成田から東京、東京から横浜、そして横浜から東京へと、移動しつづける身体に思考が追いつかない。  プロポーズだってなんだって、いつもイキオイだったんだ。結婚なんてこんなもんなんだろうと、割り切ってしまうことにした。  それに、今日の今日で、黒木君とターニャという、二人の婚姻届の証人にふさわしい人物が、よくつかまってくれたものだとも思う。  そんな事実を積み重ねてみれば、今日、この時に婚姻届を書くことはあらかじめ決まっていた宇宙の法則みたいなものなのかもしれない。  そんなことを考えながら、福岡行きの新幹線に乗り込んだ。  限られた時間の中で、飛行機を使えばいいのだろうが、明日はまた国際線で長時間のフライトに堪えなければならない。  わがままは承知だが、できるだけ飛行機は使いたくない。  到着するのは夜になってしまうため、のだめの公的書類は、よっくんに代理でとっておいてもらうようお願いしてある。  新幹線で五時間、やっと福岡に着いた。  疲労困憊でタクシーに乗り込み野田家まで向かう。  「いまどき、東京から博多まで新幹線で行く人なんていないデスよ?  先輩って実はてっちゃん?」  「うるせーな! 少しでもお前と二人っきりでいたいんだよ!」  「えっ! 先輩、最近発言がおかしいデスよ……」  はうん……、のだめをこんな気分にさせて、どうしようっていうんデスか? 真一クンてば……。  今夜泊まるのはのだめの実家なんデスよ?  真一の一デレに完全にやられたのだめに、一矢報いていい気分の真一。  俺も簡単だけど、コイツも簡単なんだな。  二人っきりのタクシーの車内で、真一は誰に遠慮することもなく、にやつき、恋人の左手を優しく撫で続けた。(運転手さんにも気をつかってね)  がらっ!  「ただいまデスー!」  「……ご、ごめんください」  野田家の玄関をくぐると、そこは酒のニオイがうっすらと漂う宴会会場と化していた。  野田家の誰一人として二人を出迎えることはなかったため、そのまま上がりこむと居間へと向かう。  真一は、居間の入り口で膝を折り、野田家一同に向かい、頭を下げ挨拶をする。  「あ、あの、今日は結婚のご挨拶に……」  「よかよか! そんな、かしこばらんと、もう千秋君ば、野田家の一員たい! がははは!」  豪快に一升瓶抱え、ご機嫌な辰男や祖父の喜三郎、ヨーコによっくんまで大騒ぎで、祖母の静代だけが部屋の片隅で静かに微笑んでいる。  「あの……、お祖母様、今回のことでは、僕たちの気持ちにご理解をいただいて、ありがとうございました」  千秋は仕方なく、唯一まともな意識と判断力を持った静代に近づき、先日のお礼をする。  「そんなこつ、気にせんでもよかよ。  恵は千秋君と一緒になるのが、一番の幸せっちゃ、わかっとるごつ」  「あ、ありがとうございます……」  そのあとは、わけのわからないまま大量の酒を飲まされ、挙式衣装の為だと、ヨーコとのだめペアからセクハラを受け、いつものとおり野田家での狂乱の一夜はふけていった。 ------------------------------  翌日、夕方の便で日本を発たなければならないため、二日酔いの頭で何とか早起きをすると、今日こそは辰男にちゃんと挨拶をと気合いを入れて居間へ向かう。  「おはようございます……」  居間にはヨーコと静代だけがおり、お茶を飲みながらテレビを見ているところだった。  「あの、お義父さんは?」  「もう仕事に出かけたとよ」  テレビに顔を向けたまま、当たり前のように答えるヨーコ。  肩透かしにあい、がっくりと肩を落とす真一。  「はぁ……これじゃあ、何のために帰国したんだか……」  ヨーコはやっと、真一のほうを向くと、すまなそうに答える。  「千秋君、ごめんねぇ……。  お父さんはお父さんで、あんな風にしとるけど、恵が嫁に行くのがさびしかよ。  千秋君に正面きって挨拶されたら、どげんしたらいいかわからんとよ……」  真一はヨーコの言葉に決意を持って切り出す。  「……あの、お願いがあるのですが……」 ------------------------------  帰り支度を済ませ、のだめとタクシーに乗り込む。  玄関先で見送ってくれるヨーコと静代、喜三郎に挨拶をする。  「それじゃあ、お父さんとよっくんにも、よろしくねー」  のだめが家族に明るく別れを告げ、タクシーが走り出す。  小さくなるヨーコたちに、名残惜しそうにいつまでも手を振るのだめ。  「先輩……、出るの少し早くないデスか?」  「うん。  お前には悪いけど、ちょっと寄り道するから」  「寄り道?」  「ああ」  ヨーコに教わった通りタクシーを走らせると、あの渡仏前にのだめを抱きしめた河川敷に出た。  この時間であれば、辰男の船が通るだろうとヨーコから教わったからだ。  「ちょっと待ってて貰えますか?」  タクシーを止め、のだめと二人外に出ると、海に向かって目を細める。  「あ、あれ、辰男デスよ?  おとーさーーーーんっ!」  のだめの叫び声とあわせ、二人で精一杯両手を振り、なんとか辰男に気づいてもらうと、岸まで戻ってくるのを待った。 ------------------------------  三人でタクシーに乗り込み、あの展望台へ向かう。  のだめを干潟へ追いやると、あの時と同じように男二人、望遠鏡を覗き込む。  「……お義父さん、今度こそ『娘を頼む』と言ってくださいよ」  「……そうだな……」  真一は、望遠鏡を覗き込むのをやめ、辰男に向き直ると真剣な表情で語り始めた。  「僕は今でもアイツのピアノが好きです。  でも、今はそれ以上に、の……め、恵さんのことが好きですから」  「……そうか……」  辰男は相変わらず望遠鏡を覗き込んだまま。  真一のことを見ようとはしない。  「娘さんをいただきます。  一生僕の傍に置いて、あまりお義父さんたちに会わせることもできないかもしれません……。  それでも許していただけますか?」  ゆっくりと言葉を選びながら、それでも毅然とした態度で言葉を紡ぐ真一に、辰男はついに観念する。  「……ああ。娘を頼む……」  「ありがとうございます……」  干潟に追いやられたのだめは、あの時と同じように真一クンのバカー≠ニ叫んでいる。  「誰がバカだ……」  最後まで辰男は、望遠鏡を覗き込んだまま、真一を見ることはなかった。  十八  干潟からタクシーに戻り、河川敷で辰男を降ろす。  真一も、辰男と一緒に車外に出ると、改めて挨拶をする。  「お義父さん、恵さんとの結婚のこと、許していただきありがとうございます」  「うんうん、もう、よかよか!」  辰男は相変わらず照れくささと、何ともいえない複雑な思いに、じゃ、またと、あっさりと二人に背中を向け、うしろ手を軽くあげると船へと戻っていく。  その背中に真一は深々と頭を下げた。 ------------------------------  夕刻、福岡空港から空路イタリアを目指す。  ……が、トランジットで到着したのはなぜか香港国際空港。  「おい、どういうことだよ……」  「だってー、どうせ福岡からイタリア行きの直行便なんてないんデスよ?  乗り継ぎするならアジア最大のハブ空港が快適で便利じゃないデスかー」  「目、そらしてんじゃねーよ!  本当のことを言えっ、本当のことを!」  「だって! パリから香港って遠いんデスよ!  福岡からだったら東京からよりも近い三時間半で来られるんデス!  この機会を逃したら、香港通が聞いて泣きマスよ!」  香港国際空港の到着ロビーで、必死で香港トランジットにした理由を熱く語る女。  要するに、寄りたかっただけらしい……。  もう言い争うのも無駄だと負けてやることにする。  「三時間もどうするんだ?」  「街に繰り出しマスよ!」  「え? もう二十一時すぎてんぞ? 店しまっちまうだろ?」  「何言ってるんですか? 香港の二十一時なんて宵の口デスよ!  さ、早く行きまショー!」 ------------------------------  イタリア行きの便にチェックインを済ませ身軽になると、のだめは水を得た魚のように生き生きとする。  「食べたい麺があるんデスよー。近くに美味しいスイーツ屋さんもあるので、急いで行きマスよ?」  「なんでこんなことに……」  のだめに引きずられるようにして到着したのは天后《ティンハウ》という街で、通りの両側にびっしりと飲食店が並び、二十二時近いというのに人通りも多い。  のだめが食べたいといった麺屋はその中でも人気のお店のようで、店内のテーブルはほとんど埋まっている。  のだめはそんな様子にも臆することなく店内に進むと、店員と広東語でやりとりをし、四人掛けのテーブルが二席空いてるのをみつけ、相席を頼んでさっさと座り込む。  「お、おい……」  「無問題です、香港では相席がデフォルトですカラ」  そういって店員を呼び付けると、さっさと注文をしていく。  「任せてもらっていいデスよね?」  「ああ……」  もうどうとでもなれ……。  真一はのだめの香港ペースに引きずられてゆくまま、身をゆだねた。  出てきたのは、どんぶりにまあるい水餃子のようなものが乗せられているものだった。  それと一緒に、小鉢にひらべったい揚げせんべいのようなものが盛られている。  「おい……、これはなんだ?」  「魚皮餃河《ゆーぺーがうほー》デス。麺は米粉でできたフォーで、この店はこれで有名なんデスよ。  具はお魚のすり身、餃子の生地にもお魚のすり身が練りこんであって。  まあ、とにかく食べてみてくだサイよ」  先ずはおそるおそるスープを飲んでみる。  日ごろ洗練された料理を見慣れた自分にとって、見た目こそがさつに感じてしまうが、すっきりとした喉越しに、味は深い旨みがあって絶品だ。  フォーもつるっとした喉越しが心地よく、スープとよくあっている。  そして、なんといっても魚のすり身の餃子。身も皮もぷりぷりした弾力がたまらない。日本のつみれとは全く違い、何が入っているのか程よい脂が旨味を濃くしていて、スープや麺のあっさり感によくあっている。  「うまい……」  のだめは夢中で食べていた顔を一瞬あげ、真一の満足そうな顔に得意げに笑うと、何も言わずに再び食べはじめる。  「おい、このアゲモンみたいなのはなんだ?」  のだめは先ほどから、そのまま食べたり、スープにつけて食べたりしている。  真一は完全に放置状態だ。  「わぁー、説明するのすっかり忘れてまシタ。  せっかくですカラ先輩、まずは食べてみて何だか当ててくだサイよ」  「料理人としての俺様をなめんなよ?」  真一はのだめからの挑戦を受けて立つと、小鉢から一つつまみあげ、じっくりと見てからニオイを嗅いでみる。  「ふつーにアゲモンだよなぁ?  でもなんだ? この色……、グロい……」  匂いだけではさっぱりわからないので、一口かじってみる。  「ん? なんだこれ……」  かりかりとした小気味よい触感、よく揚がっているが油っこさはなく、味も自然な旨味で、揚げ物独特のしつこさがない。  思わず、二つ、三つと立て続けに口に頬張ってしまう。  「旨い、とまんねぇ。これビールのつまみによさそうだな」  「デショ?」  「で? なんだよ、これ」  「えー、もう降参デスか?」  悔しいがさっぱりわからない。  だいたい中華なんて自分では作らないし、食べるのはジジィに連れていかれるような高級レストランばかりで、このようなB級グルメは経験がなく、そもそも食材に対して知識がないのだ。  「しかたないから降参してやる」  「ぎゃぼん……、俺様千秋様……」  「さ、魚の皮ぁ?!   お前、俺が何も知らないからって、騙して面白がってるんじゃねーだろーな?」  「ほんとデスよ? 白身魚の皮をうすーく剥ぎ取って、それに衣をつけて揚げてるだけだそうデス。のだめも Rui に教えてもらいまシタ。  のだめなんて、生の魚の皮食べたんデスよ? でもそれもすんごく美味しくて……はうん……、また食べたくなってきまシタ」  「げ……」  「でも美味しいデショ? 見た目とか、なじみのない食材とか、そんな常識に囚われているよーでは駄目なんデスよ! これからの音楽家は!」  「はぁ……、なんで音楽家……」  「真の美味しさのわかる音楽家。これデスよ!」  「美味さって……。はぁ……」 ------------------------------  「今度はスイーツデスよ!」  「おい……、もう二十二時過ぎてんぞ?  さすがにやってねーだろ……」  先ほどの麺屋の並びに、そのスイーツ屋はあった。  麺屋同様、この時間にも関わらず、店内は満席で、ウェイティングまでしている。  「おい、子供いるぞ……。香港は義務教育とかないのか?」  「嫌デスねぇ? 子供だっていったって、香港人なんデスから。こんなの夜更かしのうちに入りまセンよ」  「どういう理屈だよ……」  暫く待って、席に通される。  「このお店は、伝統的な香港スイーツをオリジナルにアレンジしたものが評判のお店なんデス。  私たち若いクラシック奏者も、そのスピリッツを見習わなければと常々……」  「のだめさん、その手の強引な話はもう結構です……」  運ばれてきたのは、お碗に汁と一緒に入った団子と、皿に盛られた団子の二種類。  「真一クン、これは湯圓《とんゆん》といいます。  この可愛らしいまんまるが、家族円満の象徴と言われていて、香港では幸せな家族団らんがいつまでも続きますように≠ニ祈って冬至の日に食べる風習がありマス」  「へ、へぇ……」  「このお碗に入っているのは、生姜とローズ酒のシロップにつかった湯圓で、中には白胡麻ペーストの餡が入っていマス。  ぴリっと少し辛味のある生姜と、芳醇な香りのローズ酒のシロップ。大人っぽい辛口スパイスにちょっぴり甘さもあって、まるで真一クンみたいだって思うんデス」  そういってのだめは、お碗の中から一つ湯圓をレンゲにすくうと、自分の口に入れ、舌の上でころがしながら、湯圓のつるっとした舌触りと芳醇な香りのシロップをじっくり堪能してから、味わう。  恍惚の表情を浮かべるのだめを、真一は熱をもった瞳で見つめる。  「それが俺なら、こっちがお前か?」  「どうでショウ? こっちの湯圓には黒胡麻の甘い餡。ぷりっと茹でた湯圓を、きな粉とお砂糖、黒胡麻にまぶしてありマス」  のだめみたいデスか? 食べてみてくだサイ……  真一は、そのお皿に盛られた湯圓を一つ摘むと、のだめの瞳を見つめたまま、自分の口にふくむ。湯圓を舌の上で転がしてその食感を楽しんでから、味わう。  湯圓のつるつる、もちもちした舌触りは……、まるでのだめの肌のようだ。  唇で潰してみれば、ぷりぷりと弾力があって……。  ダメだ……。俺、ほんとにどうかしてるかもな……。  「……甘い……」  「真一クンのお口には合いまセンか?」  「いや……、この甘さは嫌いじゃない……」  真一は、スイーツを味わいながら、自分の身体が熱を持っていくのを感じて、そんな自分に呆れ、持て余した。 ------------------------------  「真一クンっ! もっと早く走ってくだサイ!」  「お前なぁっ! はぁはぁ……、後でただじゃおかねぇっ!」  「むっきゃぁーーーーーーっ!」  深夜の香港国際空港を、搭乗口に向かってダッシュする日本人男女。  二人が乗る予定のイタリア行きは、最終アナウンスを呼びかけていた。  十九  〇〇時十分発ローマ行きのCX二九三便は、予定より十分遅れで香港国際空港を飛び立った。  なんとかギリギリで乗り込めば、機内には出発が遅れたことにつき説明とお詫びのアナウンスが流れる。  「はぁ……、飛行機遅らせるなんて最悪だな」  「ゴメンナサイ……」  「でも無事に乗れてよかった……」  「むきゃ? 真一クンが飛行機に乗れてよかったって言うなんて、のだめのおかげデスね?」  「……調子にのんなよ?」  「ぎゃぼ……」 ------------------------------  十四時間ほどかけて、イタリアのフィウミチーノ空港に到着した。  これでしばらくは長距離のフライトはしなくても済む……、はずだ。  のだめは今夜イタリアに一泊だけして、明日一緒に教会の日曜礼拝に参加してからパリに戻る予定。  ヴィエラ先生からはホテルなんて遠慮しないで、のだめも客室を使って構わないとは言われているが……。  「なんなら真一の部屋でも別に構わないんだぞ?」  って、あのにやけ顔は百%からかわれに行くようなもんだろ……。  のだめと一緒にホテルで一泊して、明日の予定が終わってから帰ることにする。  入国手続きを済ませ、バゲージを受け取ると、早朝の空港でカフェに入り、軽く朝食をとる。  「そうだ……。よっくんからお前の公的書類、受け取ってきたか?」  「はい、貰いまシタ」  「じゃあ……、黒木君とターニャにサインしてもらった婚姻届と一緒に送って……、  母さんにいい日取りで提出してもらって……、  それで構わないか?」  「むきゃっ……、は、はいっ!」  「本当は何か、ふたりの記念日的な日に提出したほうがいいのか?」  「き、記念日的な日といいマスと?」  「えっ! それはその……」  改まって考えてみると、二人の記念日なんていわれて、ぱっと日付が言えるものが思いつかない。  「……」  「じゃあ、これから記念日をつくりまショウ!」  「え?」  「入籍の日とか、挙式の日とか、しゅ、出産の日とか……」  「出産の日は、すなわち子供の誕生日だろ……」  「あ、そうでシタ、ゲハ」  二人でもう一度、婚姻届に漏れや間違いがないか確認する。  「はうん、妻になる人、野田恵……」  大学時代も散々言われ続けてきた『妻』が現実になるのか……。  峰じゃねーけど、やっぱりのだめさんはすごいな……。  なんだか不思議な気分で、そのなんの飾り気もない婚姻届を長いこと二人で見つめていた。 ------------------------------  翌日、ホテルをチェックアウトし、レンタカーを借りると、教会へ向かう。  礼拝の前にアラン牧師と面談をすることになっているので、いつもより早めに到着した。  まだ信者たちのいない教会の本堂に進むと、祭壇の前にひざまづき、祈りを捧げている牧師がいた。  「ほわぉ……、素敵な方デスね……」  まるでそれはフレスコ画から抜け出て来たような幻想的で美しい光景だった。  俺たちは思わず息を飲み、その場から動くことができない。  気配に気づいたのだろう、牧師が顔を上げ、こちらを振り向いた。  「Buon giorno……」  「これはすみません、だいぶお待ちになりましたか?」  「いいえ、今来たばかりです」  「ではさっそくですが、はじめましょう」  祭壇わきの扉から奥に進み、教会の本堂とは違い、簡素でこじんまりとした部屋に通される。  木製のシンプルなテーブルと椅子に向かい合い、面談が始まった。  のだめはイタリア語がわからないので、牧師との会話はすべて真一が通訳する。  牧師との面談といっても、それぞれの生い立ちや家族のこと、二人がお互いをどう思っているのかなどを聞かれただけで、なんだか拍子抜けしてしまう。  牧師はつねに一言質問を言うと、あとは穏やかな笑顔を浮かべ、静かにうなづいて相槌を打つだけで、意見を言うわけでも、こちらの答えに対してさらに突っ込んだ質問をするわけでもなく、あっさりとしたものであった。  「ありがとうございました。  お二人のお人となりについてはよくわかりました。  あとは通える範囲で結構ですので、礼拝に参加していただければ結構です」  「はい、わかりました」  牧師は穏やかな微笑みを二人に向けると、静かに席を立つ。  自分たちも慌てて席をたち、部屋をあとにした。  本堂に戻り、一番後ろの隅に着席した。  牧師が教会の扉をあけ、信者たちを迎えながら挨拶を交わしているのを眺め、礼拝が始まるのを待つ。  本堂が信者たちで埋まり、礼拝が始まる。  賛美歌が歌われ、説教が始まると、のだめのために牧師の説教を小声で教えてやる。  でも、宗教的な日本語なんてよく知らないから、立派な説教も簡単な言葉にしてしまうとなんだか素っ気ない。  それでも、本堂に響き渡るアラン牧師の美しいバリトンをバックに聞くと稚拙な日本語訳もそれなりに聞こえるようで、のだめはうっとりと恍惚の表情をうかべ、  「はうん……、素敵なお話デスね……」  などとすっかり心酔しているようだ。  そんなのだめの様子が、俺ははっきり言って面白くない。  礼拝が終りに近づくと、アラン牧師がのだめのことを、信者たちに紹介する。  そして俺に向かって、  「前回のチアキのように、NODAMEさんからお話していただくことはできますか?」  と、訊ねられる。  のだめに、先日のことを説明すると、のだめはきょろきょろと本堂の中を見渡し言った。  「真一クン、あのオルガン弾いてもいいか、聞いてもらえマスか?」  「え? お前、オルガンなんか弾けるのかよ……」  「大丈夫デスよ、手鍵盤だけで弾けば。  ペダルの使い方も、さっきオルガン奏者の方の使い方、なんとなく見てましたカラ……」  「でも……」  いくらプロのピアニストだからといって、こんな神聖な礼拝の席で、信者でもないのにオルガンをいきなり弾くなんて失礼だろ……。  俺が迷っていると、アラン牧師がどうしたのかと訊ねてくる。  「あの……、コイツがオルガンを弾きたいと言っているのですが……」  「まぁ! それは素晴らしいわっ!」  聞き覚えのあるソプラノのよく通る声。NODAME ファンでもあるシモーナだ。  信者席がざわつく。アラン牧師はのだめを見つめ、その真剣な表情に感じ取るものがあった様子で、右手をのだめに差し出す。  「ぜひ、お願いします」  聴こえてきたのは、バッハ。自身もルター派のプロテスタント信者であり、教会音楽を愛し、音楽家としてその仕事に生涯を捧げたといってもよいであろう。  BWV 七三四コラール前奏曲「今ぞ喜べ、愛するキリスト者の仲間たち」  のだめの奏でるト長調の明るい調べ。  音遊びをしているように、楽しげに次々とあふれ出す音の粒。  アイツに合ってるな、これ……。ピアノで弾いても面白いかも  教会でのオルガンの響きに夢中になっているのだろう。  いつものように口を尖らせて、瞼を閉じ、楽しそうに微笑んでいる。  音楽を愛するプロテスタント派の教会に、のだめの楽しげなオルガンが響きわたっていた。  二十  のだめがパリに帰っていった。  俺もヴィエラ先生のもとに戻り、オペラの勉強を再開している。  挙式に向けて、少しずつだが片付けなければならないことを順調にこなせていると思う。  先日二人で最終確認をした婚姻届とのだめの必要書類を封書にまとめる。  のだめからは同封して欲しいと母宛の手紙も預かっている。  何が書かれているのかについては生意気にも内緒だと言いやがった。  「夫婦の間柄であっても、隠し事は必要なんデスよ? 男女の仲なんデスから、適度なラブのスパイスが必要なんデス」  そういって、少し得意げに顎をあげて、頬を少しピンクに染めて微笑んだのだめは、  「ね? わかるでショ? スパイスの意味……」  そういって、俺の腕に両腕を絡めて、その柔らかい身体を押し付けてきて……。  「おい、おーいっ! シンイチ!」  「うわっ! お、驚かさないでくださいよ……」  「なーに言ってんだ! さっきから呼んでるのに気がつかないからだろうがっ!」  「す、すみません……」  「ったく、またのだめちゃんの事でも考えてたんだろ? だからウチに呼べばいいのに……」  「す、すみません。大丈夫ですから……、それよりご用はなんですか?」  「あ、ああ。コーラスのここなんだけど……」 ------------------------------  ランチの休憩時間に、母宛の封書を投函し、その旨を連絡する。  「先日はどーも……」  「なによその挨拶……。ほんと息子なんて面白くもなんともないわね」  「悪かったな、面白みのない息子で……」  「まあ、うちにはもうすぐ、可愛いお嫁さんが来てくれるから構わないけど」  母親への連絡、もう全部のだめに任せちまうかな……。すげー疲れる。  「あ、さっき郵便で送ったから」  「なにを?」  「こ、婚姻届とのだめの必要書類。あと、アイツから母さん宛の手紙、入れてくれって頼まれたやつ」  「あっそ……で?」  「……日本で母さんが言ってたとおり、適当にいい日で婚姻届、提出しておいてもらえるかな?」  「わかったわ。じゃあ次の大安でお天気がよかったら出しておく。出したら連絡するわ」  「よろしくお願いします……」  母さんの口から大安とか、お天気とか、そんなフレーズ聞いたこともなかったから、なんだかおかしな感じだ。  「それより……、パリでの住居はどうするつもりなの?」  「どうするって?」  「だって夫婦になるんだから、今までみたいにお互いのアパルトマンを行ったり来たりってわけに行かないでしょ?」  「そ……そう?」  「当たり前でしょう! まったくあなたって子は……」  「はぁぁ……、部屋なんか探す時間ねーよ……」  「のだめちゃんも忙しいの?」  「定期的にイタリアにも通わせてるからな……」  「……それなら一箇所、ちょっとしたアテがあるんだけど……」 ------------------------------  母さんからの俺たちの新居についての提案は、俺にとっては少しハードルが高いというか……、両手をあげて喜べるものではなく……。  でも、時間的にも経済的にもうまくいけばいいことばかりなので、俺さえ納得して頭を下げればいいことなんだろう。  一応、のだめにも相談するために連絡をとってみる。  「アロー!」  「めずらしいな、一発で連絡つくなんて」  「今、のだめも電話しようとおもってたとこだったんデスよー! はぅん、愛のテレパシー?」  「なんだよ?」  「さっきまでヨーダと会ってたんデス。結婚の報告をしたら、いつでも二人で会いにきなサイって。真一クン、次にパリに戻れるのはいつデスか?」  「そっか……、実は俺たちの新居絡みの話しなんだけど、ウィーンに行く必要出そうだから、ヴィエラ先生に休みをお願いして、そのときついでにパリに戻ろうかと……。  来週くらい、お前もウィーン行く時間とれるか?」  「むきゃ? 新居!  ウィーンってもしかして、『マ』から始まる名前で、真一クンが最近まで世界で一番嫌ってた人に会いにいくとか?」  「なんでそんな回りくどい言い方……」  「だ、だ、だって、真一クンって結構デリケートで地雷が多いから、のだめこれでも気つかってるんデスよ……」  「……わかったから、その『マ』のつく奴のところ。  行く時間とれるか?」  「とりますっ、とりますっ! 何としてでも行きマス!」 ------------------------------  嫌なことを後回しにするのは悪い癖だとわかっていても、仕事があるとか、時間がないとか、ついつい言い訳をつくって後回しにしてしまう。  一日のおわりに、いよいよやることがなくなって、やらざるを得なくなる。  「真一だけど……」  「真一って、ち…「千秋真一だけど」」  「なんだよ、カリカリすんなよ? 父と息子のお約束ってやつだろ?」  なんだよそれ。ああ、いらいらする……。  「……この間言ってた、のだめの事なんだけど、来週あたり、時間がとれれば行きたいんだけど……」  「なんだ、本気で来る気だったのか」  「おい……」  「嘘だよ、ほんと冗談通じないよな、お前。  いいよ、週末でなければ」  「……わかった。じゃあ、二人で行くんで……」  「お祝いはいいんだよな?」  ぴっ!  面白くもねー冗談ばっかり言ってんじゃねぇ!  「はぁ……」  父親と息子の関係を再構築し始めた二人。  なんだかこのイラつきは、出会った頃のアイツに抱いていたものと似ているような、似ていないような……。  とにかく、父との絡みに慣れるのは、まだまだ時間がかかりそうであった。 ------------------------------  週末がやってきた。  ヴィエラ先生から車を借りて、慣れてきた道を教会へ向かう。  今回はのだめが来られないので、一人で礼拝に出席した。  少しずつだが、シモーナ以外の信者たちとも顔見知りになり、言葉を交わす。  「シンイチ! この前のNODAMEのオルガン、とっても素敵だったわ!  またぜひお願いしたいわ!」  「ありがとうございます」  アイツはどこでもすぐに人気者になる。  自分は少し無愛想で、人見知りするところがあるから、そんなところでもアイツに助けられていると感じる。  音楽家なのだから、音楽にひたむきに、一生懸命やっていけば夢はかなうと信じているけれど、やはり人気商売でもあるから、きっとこれからも俺はいろいろと助けられるんだろうなぁと思う。  「あ、シンイチってば、今、のだめのこと考えてたでしょ?」  「なっ! そ、そんなことないです……。あんまりからかわないでくださいよ……」  今日はぜひ一緒にと、シモーナに誘われて家族席に同席させてもらった。  シモーナの夫は観光業なので、日曜日であってもどうしても断れない仕事が入ってしまうことがあるらしく、今日は礼拝は欠席らしい。  「牧師様にはナイショよ? 日曜日は仕事しちゃいけないんだから」  シモーナはその明るく日に焼けた顔に、いたずらっ子のような表情を浮かべた。 ------------------------------  礼拝が終わり、車に向かっていると、シモーナから途中まで乗せてくれないかと頼まれる。  「いいですよ。どこに行けばいいんですか?」  「夫の仕事場の近くまで。シンイチの帰り道の途中で下ろしてくれれば……。  時間はとらせないわ」  「そんなこと、気にしていただかなくても。  ご主人の仕事場までお送りしますよ。お世話になっているお礼です」  街を抜け、海岸線の見える通りに出る。  真一はさりげなくダッシュボードからサングラスを取り出しかける。  「そこよ、マリーナが見えるでしょ? あそこが夫の職場なの」  げ……。  桟橋が一 本だけの小さなマリーナだが、十数船のヨットやクルーザーが停留している。  板張りの桟橋から続く、海上に張り出したデッキには、落ち着いた雰囲気のテーブルとパラソルが並び、その正面には可愛らしいクラブハウスが建っていた。  真一はできることならここで車を止め、シモーナを置き去りにしたい気持ちであったが、自分で言い出した手前、シモーナの言うとおりマリーナに車を入れ、駐車スペースに停車させた。  バクバクバク……。  心臓が、脈が、ありえないほど早鐘のように打ち、呼吸は苦しく、視界がグラグラと揺れている。  どうしちゃったんだ、俺……  日頃からもちろん海は苦手だし、近寄らないようにしているのでそのせいかも知れないが、それだけとは思えないほどの動揺が真一を襲う。  そんな状態ではあったが、なんとか先に車外に出るとシモーナの席へ回りドアを開ける。  「ありがとう」  シモーナが礼を言い、車外へ出る。  真一は再びドアを閉め、挨拶をしたらここから一分でも早く立ち去ろうと体に命令する。  「ほら、シンイチ、あそこの桟橋に留まっているのが夫のクルーザーよ」  「え?」  真一は反射的にシモーナの指差す方角に目をやる。  海岸線、マリーナ、桟橋、桟橋に停留しているクルーザー。  ハヤク ココカラ ニゲテ……  「え……」  クラッ。  視界が反転し、音は無重力状態のようにこぽこぽと鈍り、自分を驚きの表情で見つめ、何か叫んでいるシモーナの姿を最後に、真一の視界は暗転した。  二十一  こぽこぽこぽ……。  一筋の光すら届かない真っ暗な暗闇で、酸素がなく身体の自由が利かない。  もがいてももがいても、水面には浮上できない。  助けを求める声を上げようにも、口をあけようとすれば容赦なく海水が気管に流れ込んできて、さらに苦しさを増すだけ。  自分はこのまま、海の底に沈んで、もう誰に会うことも、音楽を聴くこともできないのだろうと諦める気持ちと、そんなことは絶対に嫌だと拒む生への渇望とに混乱する意識。  「うわぁぁぁぁっ!」  意識を取り戻したとき、真一は見慣れない寝室で横たわっていた。  身体中にびっしょりと汗をかき、呼吸は乱れ、心臓がバクバクと煩い。  上半身を起こし、ベッドサイドに置いてあったグラスに水を注ぎ、一気に飲み干す。  一息ついて、周囲を見回せば、ここは誰かの住居のようだ。  思い切って立ち上がり、ドアを開けて部屋の外へ出る。  廊下を進むと、突き当たりにリビングと思われる明るい部屋が見え、人の気配があった。  かちゃっ。  「あ、シンイチ! 気がついたのね。よかった……」  「シモーナ……。俺、何して……」  「覚えてない? 礼拝の帰りに夫の職場のマリーナまで送ってもらって、突然あなた倒れたのよ?  それまでは元気そうだったけど、体調が悪かったの?」  「あ……、いや……、そうですね、長距離の移動が続いていたから、ちょっと疲れていたのかもしれません」  シモーナはソファから立ち上がり、真一のそばまでくると、いたわるように背中に手を添え、真一をリビングのソファに座らせた。  自分も真一の隣に座り、顔を覗き込んだり、背中をさすったりして様子を伺い、ほっと息を吐いた。  「顔色も戻ったし、もう大丈夫みたいね。  どう? 気分は悪くない? だいぶ汗をかいたみたいだけど……」  「はい……。寝ている間にだいぶ汗をかいたみたいですが、気分は悪くないです」  真一がそう伝えると、シモーナはちょっと待っててと立ち上がり、部屋を出ていったが、しばらくして衣服を持って戻ってきた。  「よかったらバスルームを使ってちょうだい。これは夫のものだけど着替えに使いなさい」  「ありがとうございます……」  真一はシモーナに場所を教わり、バスルームへ向かった。  バスルームで熱い湯のシャワーを浴びながら、真一はシモーナの言葉を脳内で反復していた。  そうだ。教会からシモーナを乗せて車を走らせ、マリーナに行ったんだ  でも自分がなぜ倒れてしまったのか、その時のことをいくら思い出そうとしても、思い出すことができない。  そして、先ほど目覚める瞬間に見ていた夢。  苦しくて、もがいている自分。  自分は死ぬのかもしれないと感じていたのは、今日の出来事と何か関係があるのか?  考えても考えても何も答えは出てこない。  きゅっ。  シャワーを止め、タオルで水滴をふき取り、シモーナの夫のポロシャツを身につける。  海での仕事のためか、そのポロシャツからはほんのりと潮の香りがする。  海岸線、マリーナ、桟橋、クルーザー……  無意識に繰り返されるイメージに、ふたたびなんとも言えない嫌悪感と、軽いめまいに襲われ、真一は思考を強制的にシャットアウトした。 ------------------------------  シモーナからはぜひ泊まっていくようにと勧められたが、明日もヴィエラ先生のアシスタントをしなければならないため、急いでローマに戻ることにする。  幸い、マリーナで倒れたときに、真一の乗ってきた車に真一とシモーナを乗せ、シモーナの夫が家まで運転して運んでくれていたので、そのまま車で帰ることができた。  帰りもアウトストラーダに乗るまで、暫く海岸線を通らなければならなかったが、夜の暗闇が海岸線を隠してくれていたおかげで、何事もなく戻ることができる。  気にならないといえば嘘になるが、シモーナにも言ったとおり、長距離の移動が続いて疲れていたことで、自分のトラウマである海の恐怖感が増幅されて起こったのだろうと納得することにし、もうこれ以上考えるのはよそうと自分で自分に言い聞かせるのだった。 ------------------------------  ローマでの日常に戻る。  大好きなオペラ、尊敬するヴィエラ先生のもとで、刺激的な毎日。  日中は音楽にだけ集中して、充実した日々を送っている。  しかし、あの日から、真一はたびたび悪夢を見るようになっていた。  ベッドに入ると毎夜悪夢に襲われる。  暗闇の中、身動きがとれず、声もあげることができず、死の恐怖と戦わなければならない過酷な夢。  大声を上げ、夢から覚める。全身にはびっしょりと汗をかき、心臓が早鐘を打つ。  翌週の日曜日、本来であれば教会の礼拝に行く予定の日であったが、真一はどうしても足を向けることができない。  家主も、弟子たちも、休日を楽しむために出払った屋敷で、真一は一人、自室のベッドに横たわり、うとうととしていた。  毎夜の悪夢で十分な睡眠がとれず、そのためちょっとでも横たわれば、あっという間に睡魔に襲われる。  意識を手放そうとしていた瞬間、携帯の着信音がなり、真一の意識は覚醒した。  「も、もしもし……」  誰からの着信かも確認せずに、口をついたのは日本語だった。  「もちもち? あたちでちゅー、のだめでちゅよー! ぎゃはー!」  「……エリーゼか……」  「なーに、チアキ? ねぼけてんの?」  「ん……、ごめん、ちょっとうとうとしてて」  「おきて頂戴。ちょっと急で悪いんだけど、頼みたい仕事があるのよ」  「え?」  「フランツが急に体調を崩してしまって、ピンチなのよ。明後日本番なの、代振お願いするわ」  「おい……。今度はなにやった?」  「あーら、別に夜遊びしてはしゃぎ過ぎて、酔っ払って転んで骨折なんかしてないわよ?」  「……ふざけんな。そんな尻拭いばっか……」  「なに言ってるのよ、弟子の分際で。  コペンハーゲンだから、アンタの好きな夜行列車に今から準備して乗れば、明日の朝には来られるでしょ?  もうチケットは予約してあるから。じゃ、頼んだわよ」  ピッ!  「お、おい……」  ツーツーツー……  「はぁ、俺に拒否権はないのかよ……」  これからコペンハーゲンに行き、明後日公演本番。  その翌日にはのだめとウィーン入りする予定だ。  仕方ない、のだめにはコペンハーゲンに着いて、現地のスケジュールを確認してから連絡しよう。  体調、精神面とも不安を抱えたまま、急いで荷造りを始める真一であった。 ------------------------------  シティナイトラインでローマからコペンハーゲンへ向かう。  十時間以上かかるが、動くホテルといわれる快適な車両で、バーはオールナイトで営業している。  連日の短い眠りでリズムが狂っている自分にはちょうどいいかも知れない。  ローマから離れて列車で移動するのはいい気分転換になったようで、眠くなるまでバーで飲んでから寝台に横になると、悪夢を見ることなく熟睡することができた。  ひさしぶりの快眠にすっきりと目覚め、コペンハーゲンのプラットフォームに降り立つ。  オリバーが迎えにきてくれるはずなんだが……。  「チアキさんですか?」  「はい……、そうですが」  「お迎えに上がりました。オリバーさんはマエストロのお世話で手が離せなかったものですから」  付き人の一人か、コンサートスタッフか、ともかく真一の顔見知りではなかったが、迎えの車に乗り、さっそく会場へ向かう。  今回の会場であるコンツェルトフセットのコンサートホールは、サントリーホールやロサンジェルスのディズニー・ホールを手がけた音響デザイナー豊田泰久氏が担当、二〇〇九年に完成したばかりの話題のホールだ。  音響が素晴らしいと評判で、実はかなり楽しみでもある。  寝台列車の旅でリフレッシュして久しぶりに気分もいい。  それに、ジジィの尻拭いとはいいつつ、マエストロの代振を任せられることは大変光栄なことであり、プレッシャーもあるがやり甲斐もある。  何しろ、このような機会でないとふだんは決して振ることのできないような、一流のオケ、一流のコンサートホールでの仕事なのだから。  真一は久しぶりに心地よい緊張感と期待感に気分が高揚してくるのを感じていた。  二十二  突然、車が止まる。  自分のことでいっぱいいっぱいで、ろくに外の景色など見ていなかったが、もう会場に到着したのか?  外側から、車のドアが開けられたのでそのまま車外に出る。  ばたんっ。  頬を撫でる風、ほのかに香るのは、潮……の香?  「うわっ! こ、ここはど、どこだっ!」  「会場近くの公園です。コペンハーゲンにいらしたお客様はここに必ずお連れするんですよ。  ほら? これが有名な人魚姫の像です。王子様への愛と引き換えに、海の藻屑と消える美しい人魚姫です」  「う、海の藻屑……」  目の前いっぱいに広がる海。満潮時には人魚姫が海上にいるかのように見えるため、足元には海水が目の前まで迫っている。  今は干潮だとわかっていても、この海水があっというまに満ちて、自分が海の藻屑となるような恐怖感に襲われる。  不快な汗が額をつたう。心臓がバクバクと打ち、激しい嫌悪感に猛烈な吐き気。  「は、早く会場へ……」  「あれ? お気に召しませんでしたか?音楽家の方はロマンチストの方が多いから、結構喜んでくださるんですけどねぇ……。やっぱり人魚姫の像って世界三大がっかりなんでしょうか……(鬱)  あれ? チアキさん? 顔色がわるいですよ?」  どさっ!  真一はそのまま意識を失い、倒れ込んだ。 ------------------------------  気がつくと、病院のベッドで寝かされていた。  枕元にはなぜかジジィがいて、りんごの皮なんか剥いてる。  「何してるんですか? マエストロ……」  「ワタシも病院にとじこめられてマス。さっき逃げ出していたところをオリバーに捕まえられて、そしてそのためにチアキが倒れたとエリーゼに怒られまシタ。  お詫びのしるしにりんごの皮剥きデス」  「……エ、エリーゼは?」  「今、公演のキャンセルの後処理のために般若のようになっていマス。近づかないほうがいいですヨ?」  「キャンセルって……、俺、やれますよ!」  「残念ながら、もうキャンセルは決定デス。  病院に運ばれたときの千秋の体調、とても悪かった、無理は禁物です」  「……すみません」  「ほんと、役に立たないんだからっ!」  「「ひいっ!」」  いつの間にか、病室の入口にもたれ掛かり、エリーゼが苦々しい表情でビーフジャーキーを引きちぎっていた。  「チアキ、あんたにとっても今回の仕事はいいチャンスになったはずなのに、一体何があったの? 婚約ボケ?」  「は? 婚約ボケとはなんですか?聞き捨てならない言葉アリマシタ、チアキ、師匠には何にも報告ナシデスカ?」  「はぁ……、質問は一度に一つにしてくれ……」 ------------------------------  「そうだったのデスか。  チアキは本当に冷たい弟子デス。あの豊かなバストを一人締めなんて……。  はぁ、のだめちゃんの初めての男はこのワタシだというのに」  「オイ、それ言い方おかしいだろ……」  しくしく……。  のだめとの結婚につき、遅まきながらジジィに報告をする。  確かに俺たちふたりの事に関しては、この人の後押しがなければどうなっていたのかわからないわけで……。  「ご報告が遅くなり、すみませんでした」  「でも、そんな幸せいっぱいのくせに、なぜこんなことに?」  「そうよ、スタッフの話では、突然顔が真っ青になって倒れたって聞いたけど、どういうことよ。ちゃんと納得できる説明をして頂戴」  エリーゼがジャーキーをくわえながら尋ねる。  「そんなこと言われても、俺にだってわけわかんねーよ……」  真一は思い当たることはこれだけだと、先日のマリーナでの出来事と、その後の悪夢の話をし、今日は海を見た途端気分が悪くなり、意識を失ったのだと説明した。  「チアキってほんとヘタレね。苦手なの飛行機だけじゃなくて、海もなの? 今後、そんなことじゃ活動に支障がでるかもしれないじゃない……」  「……」  「デモ、突然意識を失うような事、今までもあったんデスカ?」  「いいえ、こんなことは、先日のマリーナが初めてです。あのような悪夢を見出したのも初めてのことですし……」  「うーん、何かのきっかけで、過去のトラウマが引き出されてしまったのデショウカ?」  「ねぇ、チアキの海恐怖症の直接の原因ってなんなの?」  「それは……、五才のときに海で溺れたことだけど……」  「どこで?」  「えっ! それは……」  エリーゼからの指摘で、改めて考えてみるが、そのことについては母から間接的に聞いただけであって、自分の中に確固とした記憶があるわけではない。  「覚えてないのね……。  トラウマを克服することは難しくても、何かしら症状を押さえられるようにしないと。  それにはもととなった原因を知る必要があるわね」  「俺はどうすれば……」  「両親は知ってるんじゃないの?」  「ソウデスネ、まずはご家族に確認するべきでショウ。  このままでは挙式だってできかねませんカラネ?」  「えっ!」  「だってそうデショ? そのことがあってから、教会に行けてないんデショ」  「はぁ……。なんでこんなことに……」  悪夢に、突然の意識喪失、そして挙式まで危ぶまれるとの、予測もしてなかった三重苦にいきなり襲われ、俺は途方にくれた。 ------------------------------  とりあえず俺は、翌日退院となった。  ジジィは師匠を置いて行くのかと泣きわめいたが、とりあえず完全介護の病室で、オリバーも着いていることだし、俺は用無しのようでエリーゼからもイタリアへ戻っていいと許可が下りる。  急な出発でまだのだめに連絡していなかったことを思い出し連絡しようと、病院を出たところで携帯の電源を入れると、驚いたことに携帯にはのだめから数十件の着歴がある。  「俺だけど……、どうした?」  「真一くんっ! 大丈夫なんですかっ!」  のだめは俺が倒れたときに、エリーゼから連絡をもらって事情は知っていたらしい。  その後、俺に連絡をとろうと何度も電話をしたが、病院内のため電源を切らされていたから、電話のとりようがない。  「さっき退院した。これからどうしよう……。  明日って、う、ウィーンに行く予定だったよな?」  「はい、『マ』のところデスよ?」  「はぁ、変な言い方すんな……」  「調子悪いようでしたら、日を改めてもらいますか?」  「いや……、病院で休んだから調子はいい。それにちょっと確認したいこともあるし……。  今、コペンハーゲンだから、イタリア帰るよりフランスに帰ろうかと」  「あ、そうしてくだサイ! のだめも早く真一クンの顔みて、安心したいし」  「……じゃあ、そうする」  ゲンキンなもので、数時間後にのだめに会えると思うと、体中に喜びが溢れる。  「あ、でも、ゴメンナサイ。部屋が汚いデス……」  「そんなの気にすんな。俺が行ってあっという間に片付けてやる……」  我ながらなんだ? この糖度百二十%越えの発言は……。  「はうん……、真一クンが優しいデス」  「いつも優しいだろ? お前には……」  それだけ言い切ってさすがに恥ずかしくなり、俺は一方的に電話を切った。  今ごろ得意の奇声をあげて喜んでいるであろうのだめに少しでも早く逢いたいから、パリ行きの一番早い特急に乗るために。  二十三  やっと真一と連絡が取れ、ほっと一安心したのだめは、さっそく征子に報告のための連絡をした。  「征子ママ、のだめデス」  「のだめちゃん? 真一とは連絡取れた?」  「はい。先ほど退院して、これからパリに向かうって。元気そうでした」  「そう……。思い出したのかしら?」  「いいえ……。  でもあの街のマリーナに何かあるとは気づいたのではないかと。  今の段階であの街に行くことが難しくなってますカラ……」  「そうね。のだめちゃんには悪いけど、真一に本当の事、伝えてくれる?」  「はい、わかりまシタ」  「そうそう、今日、婚姻届提出したのよ。無事受理されたから、のだめちゃんはもう、千秋恵よ」  「……」  「……の、のだめちゃん? もしもしっ!」  「……す、すみません、少し意識を失っていまシタ……。  ちょっと刺激の強いワードだったので……」  「ぷぷっ。チ・ア・キ・メ・グ・ミ?! 」  「……」  「あははっ! のだめちゃんってば、可愛いわね〜!」  「はっ、また記憶の欠落が……」  「はいはい、がんばって慣れてね?  それより、明日『マ』のところ、行くの?」  「行きますケド……、征子ママがその言い方します?」  「いいじゃなーい! なんか隠語みたいで、かっこいいんだもの」  「……」  「真一の事、こちらも覚悟をきめて、トラウマを少しでも軽くするように頑張りましょ? 『マ』にも明日は協力するように言っておくから」  「お願いしマス」  「ところでのだめちゃん、真一の飛行機恐怖症をどうやって治したのか、いつになったら教えてくれるの?」  「それはデスね、のだめ一生の秘密デス。墓場まで持って行きマスよ?」  「まぁ……」 ------------------------------  パリに戻ってきた。  自分のアパルトマンへ寄って、衣類の交換やら、郵便物の整理などを済ませ、のだめのアパルトマンへ向かう。  中庭に入れば、のだめの奏でる明るい曲に出迎えられて、ドアを開ければそれ以上に明るいのだめに飛び付かれた。  「おいっ! あっぶねーなー」  「真一クン! のだめにお祝いしてくだサイ!」  「お祝い? なんのだよ?」  「えっと……、の、のだめが野田恵から、ち、ち、ちあ……」  ぎゃはぁー! 無理デス、無理デス、言えないデスよ? こんな破壊力のある言葉は……と、両手で顔を覆い俯いて、もじもじと身体を左右に揺らしている。  「そんなこといったって、言わなきゃわかんねーぞ? 何があったんだよ?」  「もうっ、真一クンってば、夫婦なんデスから、以心伝心で分かってくだサイよ、もうっ!」  「あ、もしかして……入籍したのか?」  のだめは、弾かれたように両手を顔から外し、こちらを見つめると、真っ赤な顔にきらきらとした瞳でこくこくと大きくうなづいた。  「わかった。呪文料理、作ってやる。  特別に香港系のデザートも作ってやる」  やったー!  のだめは奇声を上げながらばたばたしていたが、俺がキッチンで料理を始めるとピアノを弾き始めた。  こんなお祝いになるとは予測していなかったが、虫の知らせか、先日の香港初体験の余韻か……。  俺は行きつけのフルーツ専門店でフィリピンマンゴーが空輸されているのを目ざとく見つけ、少し値は張ったがどうしてもマンゴープリンが作りたくなり、購入してしまった。  のだめのピアノをBGMにしっかりと熟したマンゴーの皮を剥き、ピューレにする。  キッチンいっぱいにマンゴーの濃厚でワイルドな香りが広がる。  お、のだめの手が止まった。さすが、匂いフェチだな。しばらくくんくんと嗅いだあと、リビングからどたどたと走りこんでくる音。  どぉーーんっ!  「こらっ! あぶねーだろ?」  俺の背中に力いっぱい抱きつくのだめ。振り返って顔をのぞくと、嬉しそうな満面の微笑みに出会う。  「し、真一クンっ! ま、マンゴーですねっ!」  「当たり。さすが動物的臭覚だな」  「むっきゃぁーーー! 真一クンっ、大好きっ!」  「知ってるから。まだ時間かかるから、ピアノの練習しとけ」  するとのだめは、ジューサーに入れられずに作業台に残されていたマンゴーの種を見つけ、うるうると瞳をうるませて、上目遣いで小首をかしげ、俺のしゃつを掴むと、おねだりモードに入る。  「真一クゥン……、そのマンゴーの種なのデスが……、その種の周りについている部分が、マンゴーの中で一番美味しい部分であることをご存知デスか?」  「知ってるけど? だからできるだけこそげ落として、ピューレにしてるんだけど?」  「はぁはぁ……。でもまだ残ってマスよ?」  「はぁ……。わかったから、鼻息荒すぎんだよ……」  作業台に残っていたマンゴーの種を掴み、のだめに手を洗えと鼻先で指示する。  途端に目を輝かせて、大人しくキッチンで手を洗い、両手を俺のほうにすごすごと差し出す。  「しょーがねーなぁ……」  「はぅっ!」  飼い主から『よし』と許可を得た飼い犬のように、のだめは両手で大事そうにマンゴーの種を持つと、うっとりと恍惚の表情を浮かべ、マンゴーの種にかじりつく。  「はぅっ! はぅぅ……」  「う、うまいか?」  まるで動物のように夢中でマンゴーの種にかじりつき、俺の問いかけに一瞬こちらを見て、しゃぶりついたまま大きくうなづくのだめ。  口のまわりは果汁でべたつき、種を持つ両手からも、果汁が垂れて、腕をつたっていく。  「ぎゃぼっ!」  思わずのだめの腕を掴み上げ、垂れた果汁を舐めてしまう。  「甘いな……。  なぁ、メシ、もうちょっと待てるよな? 今、それ食ったから……」  「がぼん……、真一クン、スイッチオン?」  「夫婦になったんだろ? 儀式が必要だからな……」  「なんデスか、それーーー!」  「お前が悪い。俺は料理してたのに……」  真一は、のだめの両手から果肉をこそげ落とされ綺麗になった種を取り上げると、抵抗するのだめをそのまま抱き上げてベッドルームへとむかった。  二十四  入籍の夜を文字通り甘ぁーく過ごした真一とのだめ。  しかし、真一はやはり明け方近く、悪夢に大声を上げ、目を覚ましてしまう。  やっぱり、安定剤飲んでないとだめか……  大声に一緒に目を覚まし、不安そうな表情を浮かべる真一を見て、のだめはある事を話す決心を固める。  「真一クン、大丈夫デスか?  もしよかったら、コーヒーでも飲みながら、少しお話しまセンか?」 ------------------------------  真一がシャワーを浴びている間に、のだめはコーヒーをセットし、リビングで真一を待つ。  シャワーから出てきた真一にまずミネラルウォーターを一杯飲ませ、キッチンのダイニングテーブルにコーヒーを運んだ。  「話って……、こんな朝早くからしなきゃいけないことか?」  「そうデスね……。今の真一クンには一日も早くお伝えしないといけないことデス。そして、その上で、今日は雅之さんにも会ったら、このことについて聞く必要があると思いマス」  「アイツにも関係あるのか?」  「おおあり有馬の兵衛向陽閣デスよ!」  「はぁ?! 」  「ふぅ……、ヨーロッパ育ちの男は日本ローカルなギャグに疎くて疲れマスね。まあ、そっちはスルーしてくだサイ」  「オイ……」  「先日……、挙式をする教会のある街には、真一クンが5歳の時に家族旅行で訪れているとお話しまシタね?あのホテルにも泊まっているし、だから、真一クンは懐かしい気がしたのだろうと」  「う、うん……」  「それは本当のことなんですが、それともう一 つ、あの街で起きた出来事がありマス。  これをお話すると、真一クンがあそこで挙式をしたくなくなるのではないかと征子ママが心配して、言わないで済むならそうしてほしいと、のだめは頼まれて、真一クンには黙っていました。ゴメンナサイ」  「それってもしかして……、あのマリーナで倒れたこととか、最近の悪夢とかと関係あるのか?」  「はい……。真一クンが海恐怖症となった原因は、五歳の時、あの街で溺れたことだそうです」  「……」  「海で溺れた真一クンが発見されたとき、心肺停止状態ですでに意識はなく、一週間生死を彷徨ったそうです。  征子ママと雅之さんは、それこそ最悪の事態を覚悟したそうです」  「生死……。飛行機事故よりひどかったんだな……」  「はい……。のだめも征子ママからお話を聞いて、本当に驚きました。  五歳の真一クンが助かってくれて、本当によかったデス……」  「幼かった真一クンはその後、奇跡的な回復力で後遺症ひとつなく、無事一ヵ月後には病院を退院することができたそうですが、やはりその時のショックだったのか、溺れたときのことなどは記憶がなく答えることができなかったそうです。  意識を回復してもしばらくは、ぼぉっとして普段の真一クンではないようだったと征子ママは悲しそうに話していました。  退院後も入院の時の話は、なんとなく家族で触れないようにしていたこともあり、真一クンの記憶から薄れて行って、辛かった記憶とともに消し去ってしまったのではないかと、征子ママは想像しているそうです」  「ふぅん……」  「ショックですか? 何か思い当たることとかありマスか?」  「いや……。五歳の時に海で溺れたことは聞いてたし。記憶がないことを聞かされても、なんだか他人事みたいでピーンと来ないというか……。  でも、生死を彷徨ったって聞いて、やっと夢の感覚が納得できたよ。  俺は、真暗な闇の中で、身動きもとれず、声もあげられず、死を覚悟するんだよ……」 ------------------------------  のだめが母親から聞いた話によれば、俺はその日、父親と二人で出かけたらしい。  父親は当時、ピアニストとして活躍の兆しが見えてきたころで、家族と一緒に過ごせない時間がふえてきたこともあり、俺は久しぶりに父親と二人で出かけることをとても喜んでいたらしい。  母親がどこにいくのかと尋ねると、男同士の秘密だと、二人で嬉しそうに笑いあって出かけて行ったので、母親は本当にどこに行くのか知らなかったらしい。  俺が病院に運ばれ、父親から連絡をもらった母が駆けつけた頃には、父親は自分も海に落ちたのか、出かけた時の服装はかなり乱れ、じっとりと湿っていたという。  かなりのショック状態で、何を聞いても「すまない、俺が悪かった」と繰り返し言うばかりで、とにかくその時は俺が危篤の状態にあったこともあり、それ以上追求することはしなかったそうだ。  俺が元気になり、しばらくして折りをみて訊ねてみたらしいが、「俺が悪かった」と謝るばかりで、どこで何があったのかを聞くと、口をとざして塞ぎこんでしまうため、最後まで何があったのか、母は知ることができなかったと。  「だから、真一クンの今の悪夢を止めるには、雅之さんに真実を語ってもらうしかないんデス」  「マジかよ……。なんだよ、この韓流ドラマみたいな展開は……」  「ぎゃぼっ! どしましょ? 実はのだめと真一クンが兄妹だったりしたら……」  「死ね……」  はぁぁ……。俺は大きく溜息をつき、朝食の支度にとりかかる。  父親にのだめを紹介することだけだって気が重いっていうのに、トラウマの秘密だとか、パリの住居の件とか……、いろいろストーリー詰め込みすぎだろっ! と誰に対してなのかわからない真一のツッコミが入る。  俺、どうしてこんなにいじられないといけねーんだよ……、普通に結婚させてくれ……。 ------------------------------  朝食をとりながら、今日の予定を相談する。  「時間があんまりないんデスから、移動は飛行機デスよ?」  「げっ」  「のだめが一緒だから大丈夫デショ?  今は海トラウマのほうが深刻なんデスから、飛行機ぐらいでガタガタ言わないっ!」  「は、はい……」  「はぅーんっ! 今日も愛夫の作る朝食は最高デシた! 真一クン、愛してマス!」  のだめは俺に抱きついてキスをすると、食べ終わった食器をシンクに片付け、出かける準備にむかった。  「今日はマサユキ・チアキと直接対決デス! むっきゃぁーーーー!」  やたらテンションの高いのだめに、俺はまったくポジティブな要素を見出せないまま、のろのろと朝食を口に運んだ。  二十五  ウィーンに到着した。  のだめとは一度、ジジィの見舞い目的兼清良に会うために訪れたきり。  あの時は、ジャンとかゆうことか邪魔者がいたし、真冬であんまりいい景色も見せてやれなかったから、今度こそ子供時代の思い出があるウィーンのいろんな場所を見せてやりたかったんだが……。  「さ、『マ』のアジトに潜入して、直接対決デスよ! 急いでくだサイ!」  「はぁ……。なんだよ、そのお前のテンションの高さは……」  ウィーンは小さな街だから、移動は楽だ。  空港からタクシーであっという間にアイツの自宅に到着してしまった。  八歳から四年間、暮らした家でもあるから、思い出も多い。  ヴィエラ先生とも出会った場所でもある。  俺は、アイツがあの日、「タバコを買ってくる」といって出て行ったきり、戻ってこなかった玄関を感慨深く見つめた。  「いろいろ思い出しマスか?」  「そんなこと……、あるかな」  「ぎゃぼっ! 素直な真一クン……」  「ほらっ、行くぞ?」  「は、はいっ!」  俺は二十年ぶりに、ウィーンの家の玄関に立った。 ------------------------------  「お、本当に来たな」  「おっ、おじゃましマス……」  「どうも……」  リビングに通され、コーヒーでも飲むか? と聞かれ、じゃあとお願いする。  のだめを振り返れば、がちがちで白目をむき、完全に石化していた。  「お、おい……。大丈夫だから、そんな緊張すんなって」  「は、はい……」  コーヒーを持って、雅之が二人のむかい側に腰掛けると、突然のだめが立ち上がって切り出した。  「お、お父様っ! この度、真一さんに貰っていただく私のだめこと、野田恵と申しますっ!」  「「のだめぐみ?! 」」  「お前、昨日入籍しただろ?」←真一  「お前、日本人だったのか?」←雅之  「「えっ?! 」」  真一と雅之が、お互いの発言に驚き、顔を見合わせる。  「いやデスねぇ、父子だからって、仲良く同時に発言しないでくだサイよ?」  「昨日、入籍したんだから、千秋恵になったろ?」  「え? そうなの? はやっ……」  「てゆーかアンタ、日本人だったのかってどういうことだよ?」  「いやぁ、NODAME なんて名前だったから、中国系かなんかかと……」  「お父様、のだめはれっきとした日本人デス。のだめぐみ、略してのだめですから、お父様ものだめって呼んでくだサイね?」  「わ、わかった」  「それからっ! 真一クンっ!」  「な、なんだよ……」  「お父様のこと、ちゃんと『お父さん』とか、『親父』とか、『ダディー』とか呼んでくだサイ? アンタとか、アイツとか、おかしいデスよ?」  「えっ! なんで今そんなこと……」  「だって、これからいろいろお願いしなくちゃいけないこと、あるデショ?」  「お願いってなんだよ? お祝いはいらないっていってたじゃねーか」  「ど、どうしても呼ばなくちゃだめか?」  「だめデス!  だって、もしのだめと真一クンに、こ、子供ができて、息子から『アンタ』とか呼ばれたら、真一クンだっていやデショ?  父親が自分の父親のことをちゃんと呼んでなくて、息子にどうやって呼ばせるんデスか?」  「うっ……」  「そーだそーだ! のだめが今、いいこと言った!」  きっ!  真一が雅之を睨みつける。  「お、おい……。  そんな怖い顔で、お父さんを見るもんじゃないぞ?な、嫁」  「のだめデス! まぁ、嫁って響きも悪くはないデスが……はぅん」  「な、なんて呼べばいいんだよっ!」  「「じゃあ、ダディーで」」  「ふざけんなっ! お前らなんで、息ぴったりなんだよっ!」 ------------------------------  「お、親父……」  「「おおっ!」」  「のだっ……、恵と昨日、入籍しました。  あと一ヶ月半後には、イタリアで挙式します。  実は、結婚を決めてからまだ半年もたってなくて……。  突然だったので、二人で住む住居とかまだ見つけてないっていうか……、探す時間もなくって。  で、頼みがあるんだけど……。」  「なんだ? お父さんに言ってみなさい」  なんだか嬉しそうな雅之。  真一は、父親に頭を下げるという人生初めての経験に、なかなか言葉がでない。  「し、真一クン、頑張ってくだサイ?」  隣ののだめからのエールに、思い切って切り出す。  「か、母さんから聞いたんだけど、親父、十六区に結構広めのアパルトマン持ってるって……」  「あれはだめだっ! あれはやらないぞ!」  「ぎゃぼっ!」  「はぁ……、誰もくれなんて言ってねーだろ?  やっぱりアンタって子供だな」  「なにぃ? それが父親に対する口の聞き方か?あ?」  「なにが父親だ? あ? 父親ヅラするんなら、それなりのことやってみろよ?」  「だぁーーーーーーーっ!  二人ともいい加減にしろってんデスよ!」 ------------------------------  「お父様、十六区のアパルトマンって、ベッドルームが三つで、ピアノが二台は余裕で置けるってほんとデスか?」  「まぁな。あそこは掘り出しモンだったんだよ。  オーナーが音楽好きの金持ちで、ニナの知り合いだったんだけど、最初はニナにぜひって話だったんだ。  でも、ニナはすでに郊外に一軒家を構える予定だったから、俺にどうかって話が来て。  別に、パリにそんなに広い部屋は必要ないんだけど、パリで部屋を探すのは大変だからな、かなり条件もいいし、状態もよかったから、何かの時の備えって感じで購入したんだよ。  まぁ、場所が十六区だから、すごい値段ではあったけど、ちょうどパリがオリンピックの候補地に立候補するかもなんて話が出てる頃で、もしオリンピック地に決まりでもしたら、地価高騰でかなり稼げると思ったしな。  結果的にはロンドンに決まっちまったから、大儲けはできなかったけどな」  「まぁ、お父様ったら、結構ギャンブラー?」  「まぁな、嫌いじゃねーよ」  パリの住宅事情は、東京よりもキツイ。  なにしろ、土地は狭いし、高さ制限や景観保護もうるさく、とにかく需要に対して供給が追いつかない。  需要が多いから、供給側であるアパルトマンのオーナーたちは、横暴になりやすいし、家賃もどんどん上がる。  パリ市内で、広さがあって、ピアノが二台置けるなんて部屋、自力で見つけようとしたらどれだけ時間がかかるか……、家賃だって俺たち二人で払える額とは思えない。  「あの、お、親父……。  譲ってくれとかっていうことじゃなくてさ、貸してもらえないかな?  もうちょっと落ち着いて、ほかのところが見つかるまででいいからさ。  パリの相場で払うことは難しいかもしれないけど、ちゃんと家賃だって払うつもりだし……。  お、お願いします」  俺は、ソファーから立ち上がって、親父に頭を下げた。  それを見たのだめも慌てて立ち上がり、一緒に頭を下げているようだ。  「……よし。家賃は払えるだけでいいから、貸してやる。  そのかわり、メンテナンスはちゃんとしろよ? 綺麗に使え。  資金が必要になったら、売却するからな。  あと、俺がパリで仕事のときは使わせてもらう。  一部屋空けておけ」  「……わ、わかった」  「お父様っ! ありがとうございマス!」  のだめは親父のそばまで飛んでいって、抱きついたので驚いた。  でも、俺より親父のほうが驚いて、慌てて引き剥がそうとするところがおかしくて、俺はふきだした。  物心ついてから初めて、親父の前で大笑いした気がする。  二十六  「あとは……、あの話か?」  親父から切り出された。  今日、ここに来た目的である、のだめの紹介、パリのアパルトマンの話がなんとか一段落して、いよいよ五歳の時のトラウマの原因について、父親に聞かなければならない。  このことを考えただけで、すこし神経が過敏になるというか、緊張しないといったら嘘になる。  コペンハーゲンの病院でもらった安定剤を飲んでいるので大丈夫だとは思うのだが……。  「俺も、本当のことは昨日のだめから聞いたばかりなんだ。  心肺停止で意識が無い状態で発見されて、一週間も生死を彷徨ったなんて驚いたけど、この間から見始めた悪夢はまさにそんな感じだったから、納得できたというか……。  でも俺には何一つ思い出すことができなくて……。  理由もわからず苦しまされる悪夢とか、意識の喪失とかなんとかしたいし。  それに、それこそあと二ヶ月もしないうちに、俺たちはあの街の教会で挙式するつもりなのに、不安で足を踏み入れることもできなくて。  なんとかしなくちゃいけないんだ。  それにはぜひ、辛い話だったとしても親父に教えてほしいんだ」  「ちょっと飲ませてもらっていいよな?  さすがに素面じゃ厳しいから……」  そういって雅之はキッチンに下がる。  すっかり懐いたのだめがちょこちょこと後をついていって、グラスだのつまみの準備など手伝って戻ってきた。  「お前も飲むよな?」  「うん、ありがと……」  雅之は三人のグラスにワインを注ぎ終わると、広いリビングの中央に置かれたピアノに向かい、ピアノチェアに座ってワインを一口含むと、ぽろぽろと指鳴らしのような音を鳴らしながら、ぽつりぽつりと話を始めた。 ------------------------------  「あの日俺は、真一を連れて、あの街のマリーナに向かった。  俺たちはそこで、頼んであったクルーザーに乗って、入り江近くにある、洞窟に連れて行ってもらう予定だった」  「洞窟デスか?」  「ああ。小さいけどな、クルーザーに乗ったまま入れるちょっとした洞窟があって、あの街はそれで有名なんだ。  俺があの街を旅行先に決めたのも、あの洞窟があったからだ」  「青の洞窟みたいな? のだめも行ってみたいデス……」  「ま、まぁ、あそこまで綺麗ってわけじゃないけど……。  話進めてもいいか?」  「ぎゃぼっ! ゴメンナサイ、もう邪魔しまセン……」  「すごくいい天気で、海も穏やかで、クルージングには最高の一日だったと思う。  想像つかないだろうけど、あのころ真一は俺のことが大好きだったから、二人で出かけられることもすごく喜んでたし、初めてのクルージングで異様にテンションが上がっていたというか……。  ああいうとき、普段から子供の面倒を見ている父親なら、あ、気をつけないとやばいぞって無意識に注意するんだろうけど……。  俺は普段はピアノばっかりで、しかもちょうど仕事が乗ってきたころで、家の事も真一のことも征子にまかせっきりだったから……。  喜んで、はしゃいで、クルーザーの甲板の上を走り回ってる真一を、無下に叱ることができなくて、それでもいい加減にしないと疲れちまうぞ? と走り回る真一を抱え込んだら、『じゃあ父さん、僕、あの舳先から海を覗いて見たいんだ! 連れて行ってよ!』とねだられて……」  「今じゃ考えられないデスね……」  「舳先……、覗き込む……」  真一は想像しただけで青くなり、身体がヒンヤリと感じ、ぶるっと身体を振るわせた。  「俺は、そのまま真一を舳先まで連れて行って、真一を抱き上げたまま、手すりを越え海の上に突き出した。  真一は大喜びで、俺もそんな真一の様子が嬉しくて、さっさとやめればよかったのに、もっととせがむ真一に断れなくて、さらに突き出そうとした。  その時、クルーザーが突然揺れて、俺は真一どころか自分の身体も支えることができず、甲板に放り出され、その際の衝撃で真一は俺の腕を離れ、海の中に落ちてしまった。  そのときすぐに助けを呼べばよかったのに、俺はパニック状態で、自分も慌てて海に飛び込んでしまった。  とにかく助けたい一心だったんだ……。  でも、あの海域の海は深くて色が濃く、すぐに飛び込んだはずなのに俺には真一を見つけることができなかった。  どのくらい時間が経ったのかわからない。  乗員が俺と真一がいないことに気付いて、探してくれて、俺のことを見つけて引き上げてから、手分けして探してくれたけど、真一が見つかるまで、俺はそれこそ何十時間もかかっているような気がしたよ。  乗員の一人がぐったりとした真一を引き上げてきたとき、俺は自分の大切なものを永遠に失ってしまったと思った。  情けないことに、俺はその場で海の中に消えてしまいたいと神に願うだけだった。  でも、助けてくれた乗員の一人が、マリーナに戻るまでの間、必死で心臓マッサージと人工呼吸を繰り返してくれていて、絶対に諦めちゃだめだと、俺にずっと声をかけ、真一にも必死に声を掛け続けてくれた。  病院で一週間ぶりに真一の意識が戻ったとき、医師からはクルーザーでの事後の処置が真一を助けたと言われたよ。  情けないよな……。  自分の息子を危険に晒して、助けることもできず、応急措置さえすることができず……。  俺は本当に音楽だけの、情けない父親だと思い知らされた。  辛くって、苦しくって、征子にも詳細を伝えることができなかったよ。  ……真一、ごめんな。  お前を助けてくれたのは、たぶんクルーザーの乗員と、音楽の神様なんだろうな……。」  「お、お父様ぁーーーーーーー!」  「お、おい、嫁っ! 鼻水くっつけんなよ……、きたねーな……」  やたら親父に懐いているのだめが、号泣しながら親父に抱きついて、またひっぺがされている。  俺は、恐ろしい事故の詳細とか、親父が素直に俺にあやまったこととか、すごく衝撃的な事実の連続に、気持ちがついていかない。  親父から詳細を聞かされても、やっぱり記憶が戻るわけでもなく。  これで本当に悪夢とか、あの街に足を踏み込むことができるようになるのか、俺には正直よくわからなかった。 ------------------------------  「じゃあ、これパリのアパルトマンの鍵とかオーナーの連絡先とかメンテ関係の契約書とか諸々。  お前に預けておくから、しっかり管理しろよ」  「はい……、あ、ありがとう。すげー助かった」  「それから嫁!  結婚して浮かれてンのはいいけど、練習は欠かさずしろよ?  お前みたいな奴は、浮かれてると足元すくわれるからな。  へんな演奏してみろ? 俺の名前にも傷がつくんだからな? 千秋を名乗る者としての自覚と気概をもってだな……」  「はいはい、お父様わかってマスってば。  本当に親子揃って粘着なんだから……」  「「なんだと?! 」」  「ぷっ! すっかり仲良しデスね?」  「「……」」  「まあ、あれだ……。  俺と征子のことは反面教師としてだな、お前らは頑張って夫婦生活をまっとうしろ。  明日から演奏活動で移動しなきゃいけないから、ゆっくりできなくて悪かったな。  また、いずれ……な」  「う、うん……」  「お父様! 時間が取れたらのだめも演奏会うかがいますっ!  パリに来たら必ず連絡してくだサイね?」  「まぁ……、気が向いたらな」  そう言うと、親父は照れながらも口元に小さな微笑のかけらみたいなものを浮かべて、玄関のドアを閉めた。  俺はその口元に浮かんだ微笑のかけらに、記憶のずっと底のほうに眠っている何かを揺さぶられたような気がしたが、それは本当に一瞬のことで、それがどんな感情なのかまで理解することは難しかった。  左手に機嫌よくぶら下がるのだめを連れて、ウィーンの家をあとにした。  二十七  パリに戻った翌日、イタリアに戻る前に、さっそくのだめと十六区のアパルトマンを見に行った。  十六区のパッシー地区、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ通りに親父所有のアパルトマンはある。  「全ての道はローマに通ず」  「は? なんデスか?」  「この通りの名前。この格言を言ったフランスの詩人だよ」  「ふぉぉ!」  この辺りはかなりの高級住宅街。三善のアパルトマンのある六区とは雰囲気が違う。  観光地近くの街中と違い、清潔で落ち着いた雰囲気に包まれている。  こんなところで子供たちを育てられたら最高だろうな……などと恥ずかしい妄想して、一人頬が熱くなる。  メトロのエントランスで有名な、フランスを代表するアールヌーボー建築家、エクトール・ギマールの作品がこの通りには多い。  「ほわぉ……、可愛い建物デスね。まるで地面から這い出したみたいな……」  「まぁ、アールヌーボーの考え方が自然界のものをモチーフにしてるからな」  「ふぉ? さすが我が家のうんちくサンは、建築にも造詣がおありデスね?」  ギマールほどの有名な建築家によるものではないが、俺たちがこれから暮らすことになる住居も、築百年は建っていそうなアールヌーボーの重厚な建物だった。  有機的な曲線を描く石造りの外観に、まるで植物が這うかのような鋳物のバルコニーや手すりなどの美しい装飾が見事だ。  あらかじめ、親父からオーナーには連絡が行っているとの事だったので、俺たちはすでに預かっている鍵を使って建物の内部に入った。  内部も見事だった。  石造りの壁も天井も、植物や花をモチーフにしたアールヌーボーの美しい装飾が施されており、建物中央に大きくアールをつけて廻された階段の正面には、建物を縦に走る色ガラスの飾り窓。淡く色のついた外部からの光りがエントランスまで降り注ぐ。  圧倒されながら住居玄関までやっと辿り着く。  いよいよ俺たちの新しい城となる場所に足を踏み入れる。  大きな両開きの木製の扉に鍵を差しこみ廻すと、がちゃんっ≠ニ重たい音がして鍵が開いた。片側の扉だけ開け、室内に入る。  長期間放置されていた室内独特の埃っぽい匂い。空気の流れがしばらくとまっていた室内は、俺たちの動く音まで貪欲に吸い込んでいってしまうようだ。  天井の高い玄関前の廊下を進む。  廊下の両サイドにはいくつかの扉があるが、俺たちはまず廊下の突き当たりまで進み、正面にある木枠に美しいガラス細工の扉を押し開けた。  「ほわぉ……」  屋外に面した大きな窓から明るい光が差し込むリビングは、ちょっとしたサロンコンサートでもできそうな十分すぎる広さ。  「すごいな……」  「おそるべし、マサユキ・チアキ……」  天井までの大きな窓は、バルコニーに面した部分が連続して開放できるようになっており、俺たちは協力しあってすべての窓を開放してみる。  途端に停止していた空気が流れ出し、屋外から様々な音が流れだす。  バルコニーにも鋳物の美しい装飾が施されている。十分な広さのあるバルコニーは、天気のよい休日にはブランチが楽しめそうだ。  メインベッドルームにはゆったりとしたバスルームにウォークインクロゼット、コンパクトな書斎までついていて、まるで中世の城主にでもなったかのよう。  残り二つの部屋にもコンパクトなバスルームがついており、父がパリで滞在する際にも十分だろう。  リビングに一台、残りの一部屋に一台、計二台のグランドピアノが余裕で置ける。  「でも二人でこんなに広い部屋……、使いこなせるんでショウか?」  「エリーゼからは二年はダメだって言われたけど……、さっさとつくっちまうか? 子供……」  「ぎゃぼっ!」  照れて慌てるのだめを両腕にしっかりと抱きしめ、初めての二人の城で、俺はのだめの柔かい唇を味わうように、長いキスをした。 ------------------------------  アパルトマンを出て、これからの予定を相談する。  「オクレール先生は? 今日、時間とれるのか?」  「それが……、昨日連絡したのですが、今日は予定があるとの事で、またの機会にしてほしいそうデス」  「そっか……残念だったな。まぁ、今日は時間もそんなにないし、改めたほうがいいよな」  「真一クン……、もう大丈夫そうデスか?」  「ん? 何が?」  「一人でイタリアに戻っても、トラウマに苦しめられたりしないデスか?」  「あ、ああ……。すっかり忘れてた」  「むきゃ? もうすっかり大丈夫そうデスね?」  「そうだな。今週末には教会にも行って、シモーナにこの間のお礼もしなくちゃな」  それから俺たちは、これから暮らすことになるだろう十六区のアパルトマン界隈のおしゃれなお店を冷やかしながら、散策を楽しんだ。 ------------------------------  住居のチェックと付近のチェックも無事に終わった。  あとは、挙式が済んだらここで暮らしはじめられるように、必要な買物や諸手続きも進めなければ。  「とりあえず、母さんへ報告と引っ越しの相談、お前から連絡してもらえるか?」  「了解デス! 妻デスからー!」  「そ、そうだな……」  「がぼん……いつものツッコミがないと、何か物足りないような……」 ------------------------------  もう一度、自分のアパルトマンへ戻り、イタリアへ戻るための準備を整える。  ふと思いついて、デスクの引き出しの奥にしまい込んである手帳から、ある写真を取り出した。  幼い頃の俺と父親が並んだ写真。  俺はうれしそうに笑っていて、昨日父親から聞かされた父親が大好きだった息子≠ェそこに写っている。  心の中の記憶を辿って、その頃の自分の感情を思い出してみようとするが、漠然としすぎているのか上手く引き出すことができない。  「大丈夫なのか? 俺……」  のだめには忘れてたなんていったけど、父親の話や、のだめ経由で母親の話を聞くだけでは記憶が蘇るわけでもなく、悪夢の内容や感情が理解できるだけで、その時自分がどんな理由でどんな恐怖を感じトラウマを抱えてしまったのかを理解することはできない。  根拠のない不安を募らせる真一だった。  二十八  真一がイタリアへ戻って行った。  かなりヘビーな話を立て続けに聞かせてしまったから、さっきはもう大丈夫そうなんて楽観的なことを言ってみたが、本当は今夜一人にしてしまうのが心配だった。  「大丈夫でショウか……」  のだめは祈るような気持ちでピアノを奏でる。  イタリアの真一に届くようにと。 ------------------------------  征子に連絡をとり、彼女自身も知らなかったであろう雅之からの話を伝えた。  「そうだったの……。  雅之さんもずいぶん苦しんだのね……」  「のだめも雅之さんのお話を聞いて、思わず泣いてしまいまシタ。  雅之さん、真一クンに謝ってまシタ。何もしてあげられなくってすまなかったって」  「そう……、あの人がそんな素直に気持ちが言えただなんて、きっとのだめちゃんのおかげね?  ありがとう……」  「そんな、征子ママやめてくだサイ。のだめは何もしてないデスよ?」  別れた夫とはいえ、一人息子と長年交流のなかった父親である雅之が、こうして素直に気持ちを伝え、つながりを持ちはじめたことは、征子にとっても感慨深い出来事なのであろう。  のだめは言葉にならない征子の気持ちが、遠く離れた日本から電話を通じて伝わってくるのを感じた。  征子には引っ越しことや事務手続きについても相談した。  「のだめちゃん、ピアノはどうするの?  三善のアパルトマンには必要があればまた別のものを入れるから、あのピアノはのだめちゃんの嫁入り道具として持って行ってもらえないかしら?」  「征子ママ、それはいけまセンよ!  そんなに甘えられまセン……」  「あのピアノは特別なピアノだから、今となっては縁もゆかりもない人に使われるより、のだめちゃんに使ってもらいたいのよ。  私のわがままかもしれないけど、もしのだめちゃんさえよかったら……」  のだめにしても、長年世話になった三善のアパルトマンから旅立つことは、淋しくないといえば嘘になる。  せめてパリでの生活を共に過ごしたピアノが一緒なら、こんなに心強いことはない。  「では……お言葉に甘えて、ピアノものだめと一緒に引っ越しマスね?」  「ありがとう、そうしてくれるとうれしいわ」 ------------------------------  パリ、ウィーン、そしてパリと移動して、イタリアへ戻ってきた真一。  のだめに無事到着したことを連絡する。  「さっき征子ママにいろいろ報告しまシタよ?  三善のアパルトマンのピアノをのだめの嫁入り道具にくださるって……」  「そっか。あのピアノなら問題ないだろ。よかったな」  「はいっ!」  「今週末は……、お前はイタリア来られないんだよな?」  「はい……来週末は行きマスよ」  「うん……」  「真一クン、今週は忙しかったし、今週末の礼拝はパスしてもいいんじゃないデスか?」  「いや……大丈夫だよ。  先週行けてないし、できるだけ早くシモーナにもお礼が言いたいし」  「じゃあ、のだめから真一クンにおまじないしてあげマス!  このままちょっと待っててくだサイ……」  そういって、携帯をがちゃがちゃ言わせながら、のだめが何やら準備しているのを待つ。  しばらくすると、のだめの携帯からピアノの演奏が聞こえてくる。  ドビュッシーの月の光≠セ。  まるで母の子宮の中で、温かい羊水に浮かび、規則的な心音に包まれているような、安心感で満たしてくれる優しい音色。  何かあるごとに俺を鼓舞し、慰め、癒してくれるのだめのピアノ。  電話越しではあるが、俺はまたのだめのピアノに癒され、勇気つけられる。  演奏が終わり、のだめが電話口に戻ってくる。  「どでシタ? ぐっすり眠れそうデスか?」  「うん……、サンキュ」  「ゲハ。喜んでいただけてよかったデス」  「のだめ……あのさ……」  「はい、なんデスか?」  「……Ti amo……」  「がぼん……イタリア語?」  「うん……意味は愛してる≠セけど……。  じゃーなっ!」  言うだけ言って一方的に通話を切ってしまった。  電話の向こうののだめは、また奇声をあげているのだろうか……。  なんだか最近、このパターンばかりのような気もする。   ------------------------------  真暗な海の底に幼い真一はうずくまっている。  音も色も光も匂いもなく、ひとりぽっちの世界。  もう溺れてもいないし、苦しくもないが、寂しくて、悲しくて、悔しくて、何かにとても腹を立てている。  父さんはどうして助けに来てくれないの?  僕のことがいらないの?  いくら僕がバイオリンを上手に弾いたって、いくら僕がピアノを一生懸命弾いたって、父さんはちっとも喜んでくれない……。  僕は父さんが大好きだから、バイオリンもピアノも頑張ってたくさん練習してるのに……。  父さんは僕のことが嫌いなの?  幼い真一は、海の底で泣いている。  はるか上には明るい光の世界があって、父と母が待っていることは分かってる。  けれど幼い真一は、光の世界に行く必要があるのか、行くべきなのかがわからない。 ------------------------------  真一は翌日、泣きながら目覚めた。  胸が苦しくて、次から次から嗚咽がこみ上げてくるが、なぜ自分がこのように悲しんでいるのか、理解することができない。  深い海で死の恐怖におびえる悪夢は終わったというのに、その先に現れたのは、幼い真一の中に眠る、深い深い悲しみ一色の世界だった。  二十九  パリから戻って最初の週末。  今朝も泣きながら目覚めた。こちらに戻ってきて数日間、この状態が続いている。  死を覚悟する恐ろしい悪夢から解放されても、その先にまた別の悪夢が待っていた。  深い深い悲しみの底に沈む、絶望と怒りに満ちた悪夢だ。  でも、その悲しい悪夢を見ることにより、俺は幼い頃の自分の記憶を思い出し始めていた。 ------------------------------  今日こそは、何がなんでもあの街に辿り着かなければならない。  俺は焦り、逃げ場のない状態にまで追い詰められていた。  気分を変えようと、ヴィエラ先生にマセラティを借り、アウトストラーダ・デル・ソーレを南下する。  思いっきりアクセルを踏み込み、何も考えないようにしようと努めるが、無心になればなるほど、俺はこの数日間の悪夢の繰り返しにより引き出され始めた、幼い頃の自分の記憶のかけらを、パズルを組み立てるように取り出しては確認する作業をし始めていた。 ------------------------------  朝、目を覚ますと、父親の奏でるピアノの音が聞こえる。  バッハの平均律クラヴィーア。  父親のピアノが大好きな幼い真一は、パジャマのまま、顔も洗わず、父親のいるピアノルームへ向かう。  そっと忍び込もうとするが、いち早く気付いた母親にとがめられ、真一は父親のそばに行くことができない。  聞き分けのいい子供ではあったが、最初はその理不尽な母親の行動に腹をたて、癇癪を起こしたり、父親のところに行くと泣いては母親を困らせることもあった。  しかし、何をしてもそれは許されないことだとわかってからは、賢い真一らしく、おとなしく従うようになった。  ただ黙って従っていたわけではない。いいつけに従っているふりをして、数回に一度は母親の隙をうかがって、父親の部屋に忍び込めるようになっていたのだ。  真一は父親の部屋に忍び込んでも、決して父親に近づいたり、話しかけたりして、練習の邪魔をするようなことはしなかった。  ただただ、父親のピアノを聴いていたかったのだ。  大好きな、かたくなで芯が強くて、朴訥《ぼくとつ》だけど優しいピアノ。  真一はただ、部屋の片隅に小さく座り込んで、瞳を閉じると父親のピアノに耳を傾けるのだった。 ------------------------------  その日、父は少し指慣らしをしたあと、ピアノに向かって腕を組んだまま、何か考え込んでいた。  真一は父親がなぜヒアノを弾かないのか不思議だったが、きっと曲を何にするのか考えているのだろうと、雅之のピアノを黙って待っていた。  すると突然、雅之の顔が真一のほうを向き、黙ったままではあるが真一に向かって手招きをする。  真一は初めてのことにとても驚き、そしてうれしくて慌てて立ち上がると、転がるように父のもとへ走り寄る。  雅之は真一の瞳を覗き込むと尋ねた。  「真一は父さんのピアノが好きか?」  「うん! 世界で一番大好きだよ!」  すると雅之は、その口元に微笑みのかけらみたいなものを浮かべ優しい表情で真一を見つめると、真一を抱き上げ自分の膝の上に乗せ、左腕で真一を支えながら、右手だけで旋律を奏でる。  真一は初めて間近で見る父の大きくて力強い手が、まるで魔法のように鍵盤の上を動き回るのを見て、目をきらきらと輝かせた。  ワンフレーズ弾き終わると雅之がいたずらっこのような表情で真一を見つめる。  真一は先ほどまで瞬きもせずに夢中で見ていた雅之の指の動きを忠実に再現してみた。  雅之は一瞬驚き、戸惑っていたようだったが、再び旋律をワンフレーズだけ弾くと真一に弾かせた。  真一は夢中で雅之の弾く旋律を繰り返すのだった。  そんな風に午前中いっぱい過ごした後、めずらしく雅之も一緒に昼食をとることになり、真一はうれしくてはしゃいでいた。  そして、ずっと考えていたけれど、なかなか言い出せなかったことを思い切って両親に告白することにした。  「僕、ピアノを習いたいんだ」  母親は少し驚いた様子だったが、何も言わずだまって父親の様子を窺った。  「……ねぇ父さん、いいよね?  僕、父さんみたいにピアニストになるよ!」  雅之はしばらく黙ったまま何か考え込んでいたが、突然沈黙を破り言った。  「真一、ピアノはやめなさい」  幼い真一には、なぜ父がそのようなことを言うのか、まったく理解することができない。  「なんでっ! どうして? さっきだって父さん僕にピアノを教えてくれたじゃないかっ! 僕、上手にできたでしょ?  もう夜だって一人で眠れるし、ピアノだって弾けるようになるよ! 父さんの息子なんだから!」  「でも、あのピアノはお父さんのピアノだから、お前には弾かせられないぞ?」  「え?」  「家にはピアノが一台しかないんだから、ピアノを弾く人も一人だけだ」  「……」  父はよくこういった、普通の大人が言わないような理不尽なことを言う。  そのたび、僕は困って、母さんに助けを求める。  「真一、ピアノじゃなくてヴァイオリンにしたら? それならお祖父様がくださったのがあるからすぐに始められるわよ?」 ------------------------------  もうすぐ、いつもの出口だ。  あふれ出した幼い頃の記憶の洪水に意識が朦朧としながらも、ここ一ヵ月半で通い覚えたルートを辿る。  これ以上、考えるのはやめろ  止まらなくなりそうな記憶の洪水に必死で抵抗する。  なぜ父さんは、僕にピアノをやらせたがらなかった?  止めようしても止まらない思考に、真一はあきらめていつもの出口手前でアウトストラーダ・デル・ソーレを降り、適当な場所を見つけてマセラティを停車させた。  ハザードを点滅させたまま、真一はぐったりとステアリングに顔を埋める。  進まなければいけないと思う気持ちと、進めるわけがないと否定する気持ち。  「……」  真一はゆっくりと顔を上げると、バックミラーで自分の顔を覗き込む。  昨夜もよく眠れなかった。  青白い精気のない顔色。どんよりと鈍る瞳。  顔かたちはまぎれもない二十七年間付き合ってきた自分の顔なのに、ミラーに写るこの男は本当に自分なのか自信が持てない。  真一は深く溜息をつくと、マセラティを静かにスタートさせ、ローマへとUターンする。  のだめになんと言って説明すればいいのかと、思い悩みながら。  三十  「埋単まいたぁーーーんっ!(お勘定お願いしマス)」  「げ、また嫁かよ……」  「え? 僕おごり(振り込んだ)?」  「ジャン、弱すぎだな……」  「尖沙咀福臨門ふかひれ・干しあわび・燕の巣フルコース大三元デス!  ジャン、毎度!」  「はぁぁ……」  じゃーらじゃーら……。  「おい……。お前ら、ここで何やってんだ?」  仕事帰りにローマの街中で食事をとり、ヴィエラ邸に戻って真一がリビングで見た光景は、ブリッジテーブルで麻雀牌をじゃらじゃらと混ぜるヴィエラ、ジャン、のだめ、雅之の四人であった。  「のだめちゃんが、香港土産にくれたんだよー! 点心麻雀っていうんだって」  と、ヴィエラ。  「チアキー!これすっごく面白いヨ! 今度からカードじゃなくて、これにしようヨ!」  と、ジャン。  「嫁、少しはお父さんに気使えよ?」  と、雅之。  「駄目デスよ? お父様。遊びじゃないんデスから!」  と、のだめ。  「はぁ……、どういうことだよ……」  真一は、椅子を一脚のだめの横に運び座り込むと、のだめに耳打ちをする。  「おい、どーいうことだよ? こっち来るの、明日の予定だろ?」  「真一クンの一大事に、のんびりパリになんていられまセン!  お父様に連絡とったら、ちょうどイタリアの演奏会で、ヴィエラ先生のところに寄るって聞いたから、のだめも駆けつけたんデスよ!  飛んで火にいるアブラゼミですヨ!」  「……だから、それも間違ってるから……」  真一は先週末、教会に辿り着くことができずUターンしてきたことを、素直にのだめに伝えていた。  悪夢の内容が変わったこと、幼い頃のことをいろいろ思い出していること、毎朝、泣きながら目覚めることも恥ずかしいとは思ったが、のだめにだけは正直に話そうと伝えていたのだ。  「真一クンの悪夢を止めるには、お父様にまだ聞かなきゃいけないことがあるんデス。  お父様には『ネタはあがってんデスよ!』って迫ったんデスけど、しらばっくれてるんで、麻雀で勝負デス!  今、真剣勝負なんデスから、真一クンはすっこんでろってんデスよ!」  「はぁ……」 ------------------------------  「ぎゃはぁ! のだめ一人勝ちデス!  皆サン、老後のたくわえを出してってくだサイ」  「ひどい嫁だよ……」  「あら? お父様はお支払はいいんデスよ?  包み隠さず、すべて話してくださればいいんデスから」  「なになにっ! 包み隠さずすべて話すって?  和製シュトラウス親子の秘密?」  ジャンが興味津々でつっこんでくる。  ヴィエラも聞き耳を立てている。  「部外者は引っ込んでろってんデスよ!」  「「ひっ!」」  ちゃりーん……。  ジャンとヴィエラは、のだめに支払を済ませると、お邪魔しました……と、寝室へ引き上げていった。 ------------------------------  自分の家だというのに、気を利かせて引き上げてくれたヴィエラ先生に感謝しつつ、俺たちは広いリビングに三人だけになって、顔をつき合わせた。  「こ、この間はどうも……。  さっそく見に行った。十六区のアパルトマン。  すごいな、あそこ」  「まぁな……。  俺はピアノ以外に何もないから、金の使い道もなくて。  お前たちでいいように使え」  「うん。サンキュ」  「まぁ、それとこれとは別として、お父様、ネタは上がってんデスよ?  勝負にも負けたんだから、正直にゲロしてくだサイよ」  「なんのことだよ……」  「真一クンの海恐怖症のことデス!  お父様、まだ何か隠してることあるデショ?  真一クンは、お父様から話を聞いたあと、悪夢の内容が変化して、未だに続いているんデスよ!  先週も、教会に行く途中でUターンして辿り着けなかったし……。  お父様! ここは可愛い嫁と息子を救うために、全部残らずゲロしちゃってくだサイ!」  「おい……本当なのか?」  「……ああ」  雅之は、真一の顔を心配そうに見つめ、のだめの鬼のような形相に恐れをなしつつ、しばらくうつむいて考え込んでいたが、突然ソファーから立ち上がると、真一に向かって言った。  「隠してることはない。  もし……あったとしても、言いたくない。  これは真一自身の問題なんだ。俺がここで、何か言ったとしても、きっと解決なんかしない。  真一、苦しいかもしれないが、お前はお前自身で解決しろ。  嫁、悪いけどそういうことだ。じゃーな」  それだけ言い捨てると、雅之はあっけにとられる真一とのだめを残し、ヴィエラ邸を去っていった。  「むっきゃぁーーーーー!  千秋雅之、負けまセン!」  「おい……」 ------------------------------  「それよりお前、今日はどこに泊まるんだ?」  「ほえ? 真一クンのお部屋に決まってるぢゃないデスか。  嫌ですねぇ、もう夫婦なんデスから、ヴィエラ先生からも許可が出てマスよ?」  「はぁぁ……。明日ぜってーからかわれんぞ?  生き地獄かよ……」  「どうせからかわれるんデスから、やることやっときマスか?」  「……変な言い方すんなっ!」  「いたっ! 痛いデスー。  昼は淑女、夜は娼婦な最高の嫁なのに……」  「どこの淑女が麻雀するんだよ……」  「イギリスの貴族がブリッジをたしなむように、中華圏では当たり前のたしなみデスよ? 西太后だってラストエンペラーと麻雀をしたと思いマスよ?」  「西太后は金まきあげねーだろ……」 ------------------------------  深くて真暗な海の底で、幼い真一は静かに立ち上がった。  父さんは僕を助けに来てくれない。  だから、僕は泣きながらここにずっといるか、それともあの明るい水面めがけて、自分でのぼっていくしかない  苦しい。必死で両手をかき、水面に顔を出そうともがくが、思うように体が動かない。  大丈夫、真一クンならできマスよ?  どこからか、優しくて、力強い声が聞こえる。  真一は、理由はわからないが、その声に勇気づけられ、また力が湧いてくるのを感じ、もう一度水面をめざして、必死で両腕をかいた。  「……クン、真一クンっ、真一クンってば!」  「……の、だめ?……」  「大丈夫デスか?  真一クン……すごく悲しそうで、辛そうで……。  泣いてましたよ? また同じ夢デスか?」  「うん……同じだけど、ちょっと違う……」  真一は、まだまだ悲しみと不安が胸を占めているものの、夢の中で動き出した幼い自分に、ほんの少し希望が見えてきた気がして、腕の中にのだめを抱き込むと、その柔かくて優しい香りを胸いっぱいに吸い込んで、ほんの少し笑った。  三十一  今日は教会の礼拝に行く日だ。  俺は、今朝の夢の様子から、大丈夫じゃないかと思えたので、出かける準備をしていたのだが、のだめからまだ行かないほうがいいと止められる。  「お前一人で、どうやって行くんだよ?」  「ジャンに車で連れてってもらいマス!」  「ジャン?」 ------------------------------  「ジャン〜! のだめと素敵な教会までドライブしまセンか?  ヴィエラ先生のマセラティで」  「うわっ! マセラティ乗ってもいいの?  いくいくっ!」  「ちょ、ちょっと! ジャンなにいってるの?  今日はミラノまでお買い物に行く約束だったでしょっ?! 」  「あ、ゆうこしゃん。  ミラノのお買い物はまた来週にしてくだサイ。  さ、ジャン。行きまショ?」  「ちょっとのだめっ! 待ちなさいよ、人の夫を足代わりに使うなんて、なんて失礼な女なのっ!」  「ゆうこしゃん、あんまりカリカリすると、ジャンに愛想つかされマスよ?  あ、ゆうこしゃんも一緒に行きたいんデスか?」  「そんなんじゃないわよっ! だいたいマセラティに三人も乗れないじゃない……」  「あ、それもそうデスねー。じゃあ、ゆうこしゃんは諦めてくだサイ。  あ、どうしてもお買い物に行きたいなら、うちの夫、お貸ししマスよ? じゃっ!」  「ちょ、ちょっとー! 待ちなさいよー!  なんでアンタは千秋と行かないのよー!」 ------------------------------  「うわー! やっぱりマセラティは最高だよっ!  フランスの車もいいけど、イタリアの車もいいねぇー」  ヴィエラ先生、僕には貸してくれなかったんだよ。でも前から乗ってみたくてさぁ〜。ノダメありがとう!と、ジャンは新しいおもちゃを買ってもらった子供のように無邪気にはしゃいでる。  「ところで、今日は何しにいくの?」  「千秋父子の秘密と謎を暴きに行くんデスよ!」  「秘密と謎? どんなことだい?」  「それは秘密デス……」  「……ノダメっていろいろ謎だね……」 ------------------------------  「へぇ……。ローマから日帰りで来られるところに、こんな街があったんだ。  なかなか素朴でかわいいところだね?」  「はい。のだめも真一クンもひと目でこの街が気に入って、ここの教会で一 ヵ月後には挙式する予定なんデス。  そのために、定期的に礼拝に通ってるんデスよ」  「そうだったのかぁ。  チアキが週末車で出かけるのは知ってたけど、教会の礼拝だなんて知らなかったよ。  ぷぷぷ、チアキが礼拝ねぇ……」  「のだめが言ったことは真一クンには内緒デスよ?  いま、重大な局面に直面してるんデスから……」  「秘密と謎に関係したこと?」  「それは秘密デス……」  「二人とも謎が多いね……」 ------------------------------  「Buon giorno!」  教会に到着すると、のだめは牧師やシモーナと挨拶を交わす。  「あら、NODAME! あれ? あなたってイタリア語、話せたの?」  「ちょっと事情がありまシテ、急いでマスターしまシタ。  シモーナ、礼拝のあとで真一クンのこと、少しお話できますか?  できれば、真一クンがこの間倒れた、マリーナにも行ってみたいのデスが……」  「ええ、かまわないわよ! じゃあ、後でね」  シモーナといったん別れ、のだめとジャンは本堂後方の席に着席する。  「ノダメってすごいね! イタリア語、いつ覚えたの?」  「今週デス。おととい、寝ずに『プリごろ太イタリア語版』をヘビロテしてマスターしまシタ」  「えっ! オタクってすごいね……」 ------------------------------  礼拝が終わると、まず牧師に真一が来られない事情を簡単に説明する。  「彼は五歳の頃、この街を家族で訪れ、海難事故に遭っていマス。  これまで、それが原因で海恐怖症はあるものの、今までは深層心理に記憶を眠らせていたのデスが、先日事故に遭った場所に偶然居合わせてしまって……。  当時の恐怖感だけが蘇ったようで、それから悪夢にうなされるようになってしまったのデス。  それからは、こちらに足を運ぼうとしても、どうしても辿り着くことができなくて……。  でも、事故の詳細について両親から話を聞いて、少しずつ悪夢の内容に変化が出てきたんです。  最近では悲しい夢をみて、泣いて目覚める状況が続いています。  のだめは素人ですが、人間の泣くという行為にはストレスを吐き出す作用があると聞いたことがあります。  だから、このままその悲しみの根拠さえ突き止めて解消することができれば、トラウマを取り除くことはできなくても、軽減することはできるのではないかと思っているのデス。  お約束どおりに礼拝に伺うことができず申し訳ないのですが、そのような事情デスので、お許しくだサイ……」  アラン牧師は黙って話を聞いたあと、慈愛に満ちた表情でのだめの両手を握り、声をかける。  「どうぞ、こちらのことはお気になさらずに、今は彼の心を救ってあげることにだけ、あなたの力を尽くしてください。  これも何か、神のお考えによるお導きなのでしょう。私もお力になれることがあるかもしれません。なんなりとおっしゃってください」 ------------------------------  のだめはシモーナと一緒にマリーナへやってきた。  小さなマリーナのデッキに並べられたパラソルつきのテーブルの一つに座る。  美しい海。頬を撫でる潮風が心地よい。  「ほわぉ……素敵なところデスね。のだめの故郷を思い出しマス」  「ありがとう。小さなマリーナだから、あまり利用する人もいないんだけど、そのぶん素朴で、昔からの美しい景色を楽しむことができるって、街の人間は誇りに思っているわ」  「シモーナはご存知ないデスか? 二十二年ほど前に、夫は五才のとき、ここで海難事故に遭ったんデス。  幼いころのトラウマとして、深層心理に眠っていたものが、偶然ここに訪れることによって、当時の恐怖心が蘇ってしまって……。  夫は今、悪夢に苦しめられているんデス。  のだめは妻として、夫の苦しみを取り除かなければならないんデス」  「そうだったの……。私が余計なお願いをしてしまったばかりに。  ごめんなさいね、若い二人の幸せを邪魔するようなことをしてしまって」  「そんなことっ! シモーナには本当によくしていただいて、感謝していマスよ?  それにこれは、牧師様のお言葉ではありませんが、このようになるべく、あらかじめ定められた運命のような気がするんデス」  「二十二年前ね……。私はまだ、この街に嫁いできたばかりの頃だから、あまりお役に立てないかも。  でも、夫は当時からここでクルーザーを使った観光業を始めていたから、何か知っているかもしれないわ。  今日はあいにく、お客様を案内していて話を聞くことはできないけど、次回 NODAME が来るときまでに、夫に確かめておくわ。  次はいつ、こちらに来られるの?」  「再来週に伺う予定デス。では、礼拝の後に、直接ご主人からお話を伺えますでショウか?」  「わかったわ。そうしましょう。夫には話をしておくから」  のだめは、二十二年前に真一を襲った恐ろしい事故があったなど信じられないような静かに凪ぐ海を眺め、そっと溜息をついた。  三十二  俺が、ゆうこのショッピングになぜかつき合わされ、へとへとになって帰ってくると、のだめはすでに礼拝から戻り、帰り支度をしているところだった。  「どうだった?」  「はい……、秘密と謎を解くまではいたらなかったのデスが、秘密と謎を解くためのアイテムくらいは手にいれられたと思いマス」  「なんだよそれ……」  「真一クンはわからなくていいんデス。  真一クンはとにかく、毎日夢を見て、幼い頃の自分の気持ちと対峙してくだサイ」  のだめの口から出た言葉がよく理解できず、唖然とする俺に向かって、のだめはゆっくりと静かに、俺の目を見て言った。  「真一クン、逃げちゃだめデスよ。幼い時の真一クンの気持ちを受け止めてあげられるのは、今の真一クンだけデス。  今の真一クンにはそれが必要なことなんデス。  辛い事かもしれまセンが、真一クンとのだめの未来のために必要なことだと思って、頑張ってくだサイ」  「わ、わかった……」  荷物を手に、部屋を出ようとしたのだめが、突然動きをとめて言う。  「あ、そだ。今週中一度パリに戻ってくだサイ。  ヨーダが会ってくれるそうデスから」  「わ、わかった」 ------------------------------  俺の夢は、また内容に変化があった。  夢……というよりは、幼い頃の思い出をフラッシュバックで眺めているかのようなもので、その中には、俺がうっすら覚えているものから、まったく記憶にないものまで、さまざまだった。  父親の仕事がどんどん忙しくなって、家にあまり帰ってこなくなる。  たまに帰ってきた父親に、母親は責めるわけでもなく、自然に振舞おうとしているのが、余計に二人の関係をぎこちなく見せる。  母親が不在の自宅で、女と言い争いをする父親。  俺はそっと部屋に近づき、聞きたくもない話を聞いてしまう。  父親に対する怒り、悲しみ……。  今の俺は、幼い自分の深い悲しみにわけもわからず涙するのではなく、しっかりと気持ちを理解して、静かに涙を流す。  大好きだった父親。かけがえのない家族が、自分の目の前で、はかなく壊れていく。幼い自分には何もすることができない。  今ならわかる。それは誰にもどうすることもできなかったことなんだと。 ------------------------------  二週間ぶりにパリに戻る。  いつもの通り、自分の部屋に戻り衣類の整理やら交換、郵便物の整理や留守電のチェック、請求書の類などを整理して、のだめとの待ち合わせ場所に向かう。  「真一クーン!」  パリの街中で、いつもの待ち合わせ場所でアイツの変わらない姿を見つけると、ホッとする。  「待った?」  「待ちまシタよ? のだめ、真一クンのこと待ってるのが好きなんデス。  知ってます? カフェの入り口に真一クンが立つと、店中の女性の目が釘付けになること。  素敵な真一クンがどの席に着くのかと女性たちが目で追って、のだめの席に辿り着いた途端に、一斉に大きな溜息がこぼれるんデス。  のだめには、それが快感なんデスよ!」  「お前って、本当はすごく性格悪いのか?  俺にはたまにお前のことがよくわからなくなるよ……」  「いいんデスよー!  真一クンには女のダークな部分なんてわからなくっても。  のだめが守ってあげマスからー♪」  むんっ! 素敵な夫にのびる魔の手は、こののだめが月に代わっておしおきしマス!  「……お前からは誰が守ってくれるんだ……」 ------------------------------  「シンイチ・チアキです。はじめまして」  「シャルル・オクレールです。噂は聞いていますヨ?  マルレの演奏会にもメグミと行きました。メグミは遅刻してきたけどネ」  「あ、あれはっ! カズオの時計がさっきも三時で今も三時だったのが悪いんデスよ! のだめは一生懸命ヨーダの課題と正面から向き合ってたわけで……」  オクレール氏の自宅に来るのも、彼と正式に面談するのも初めてのことで、しかものだめの将来の(というか籍はもう入ってるけど)夫として挨拶することになるなど、三年前には予想もしてなかったことだ。  自身も高名なピアニストで、たくさんの優秀なピアニストを育てた指導者としても有名な彼と、のだめが親しく話をする姿を見るのも初めてのことで、それはとても感慨深い。  「ご結婚おめでとう。  メグミは君に追いつきたくてパリまでやって来て、いろいろあったけどここまで来られた。  メグミは女性としても、ピアニストとしても君に出会えたことが本当にラッキーだったと思いますヨ。  でも、この気まぐれな女性は、またいつ道を見失うかわからないからネ。  誠実な君がパートナーとなって、メグミのことを導いてほしいと思っていますヨ?」  「はい……。わかりました」  「ヨーダってば、まだのだめのこと信頼してくれてないんデスか?  のだめはもう大丈夫デスよ!音楽を楽しむために必要なことが何なのか、わかったんデスから……」  「メグミ……、君はまだ音楽という世界の入り口に立ったばかりです。これから君が想像もしなかったようなことがいろいろあるでしょう。  私はたくさんのピアニストを育ててきましたが、若く才能溢れるピアニストが、道を見失い、消えてゆく姿を何度も見ています。  メグミのようなタイプには、チアキのような良きパートナーが必要ですヨ」 ------------------------------  一通りの挨拶を終え、リビングで美味しいお茶とスイーツを頂きながら、のだめは挙式をする街について語りだした。  「とっても可愛い街なんデス!  街も、街の人たちも素朴で温かくて、その人たちに大切にされている教会で、真一クンとのだめは二人っきりで挙式するんデスよ?」  「あ、その街。知ってますヨ?  祈りの洞窟≠フある、小さなマリーナのある街デショ?」  「「えっ!」」  「祈りの洞窟……って、なんですか?」  「マリーナから船にのったまま入ることのできる、入り江にある洞窟で、父子についての伝説がある洞窟です。  たまたま友人から聞いた話ですが、とても美しい話だったのと、その街が友人の出身地だったので、地名とその話が結びついたまま、よく覚えています」  「がぼん……。灯台下暗し」  「ぜひ、そのお話を聞かせていただけませんか?」  真一とのだめの食いつきように驚きつつも、オクレール氏は穏やかな微笑みを浮かべ、語り始めた。  「いいでしょう。二人の結婚のお祝いにお聞かせしますよ」  三十三  午後のオクレール邸。  オクレール氏は、のだめの持参した博多通りもん≠頬張り、満足気に微笑むと、お茶でのどを潤してから、静かに語り始めた。  「ある漁村に漁師の父子がいました。  父はたこ漁の名手で、村一番の大だこ捕獲の記録保持者で、村で彼の右に出るものはいませんでした」  「たこ……」「大だこの記録保持者……」  「その息子もまた、たこ漁の道に進みましたが、なかなか父親の腕に追いつくことができず、父を尊敬しつつもいつか父を追い越したいと、日々努力に努力を重ねていました。  ある、嵐の日。  漁師たちは仕事を休み、村の居酒屋で飲んだくれていました。  たこ漁の名手の息子もその場におりましたが、同席した父のライバルにこんなことを言われます。  『お前の父親がもっている大だこの記録は、本当は一番じゃねぇ。  三年ほど前、今日みてーな嵐の日、お前の父親はビビッて漁を休んでいたが、こんな日は大だこが出るからな、俺はみんなが止めるのも聞かずに漁に出たんだ。  その時、俺はそりゃーでかいたこに遭遇して、十二時間の死闘のすえ、お前の父親の記録なんぞ倍は超えるくらいの超大だこを捕まえた。  でも、漁から戻るときに船は大波にさらわれて、大荒れの海に投げ出された俺は、いのちからがら身体ひとつで陸に戻ってきたってわけさ』」  「超大だこと十二時間の死闘……」「ぜってー嘘だろ……。てゆーか、獲れてねーし……」  「ライバルから父を侮辱され、そして嵐の日に超大だこが出るかもしれないと聞いた息子は、いてもたってもいられなくなりました。  急いで自宅に戻ると、息子は父親にこれから漁に出て、超大だこを獲ってくると宣言します。  父は危ないし、超大だこなんて獲れやしないと止めますが、息子は父親の制止を振り切り、嵐の中、漁に出たのです……」  「がぼん……」「あほだな……」  「結局、息子はその日以来、漁に出たきり、戻ることはなかったそうです……」  「はぅぅ……」「……」  「ふぅぅ……」  一気に話しきり疲れたのか、オクレールは新しいお茶を注ぎ、カップのお茶を一気に飲み干し、再び口を開く。  「……というお話です」  「……美しいお話デスね……」  「え? えええっ?! あの……祈りの洞窟≠フ件は……」  「あれ? 出てきませんでしたネ?」  「……そうデスか?  でもいいじゃないですか、美しいお話だったんデスから……」  「よ、よくねぇっ!」  「うーん、そういわれてみれば洞窟のことはお話の中に出てきませんネ(さらり)  でも、あの洞窟は、父と子で訪れると、絆を深めるとか、二代に渡って同じ職業につく父子の繁栄を約束するとかって伝説があるんですヨ?」  「たこ漁師父子の話、いらなかったのでは……」  「ほわぉ……。だから雅之さんは、幼い真一クンを連れて?」  「ありえねー……。  アイツは俺がピアニストになりたいって言ったのに、ピアノはやめろって止めたんだぞ……」  「ああ、マサユキ・チアキですか。あなたのお父様でしたネ。  マサユキ・チアキのお父様も、私と同じようにピアニストの指導者でしたね、そういえば」  「「えええっ!」」  「千秋先輩、お父様からお祖父様のお話、聞いたことないんデスか?」  「ない……」  「……そうでしたか。  では、私からするお話ではないですかネ?」  「よよよヨーダっ! ここまで振っておいて、出し渋りなんて、のだめだって真一クンだって、読者の皆サンだって、納得しまセンよ!  暴動がおきマスよ! 炎上しマスよ!?」  「……なんの話だ……」  「では、お話しまショウ。  ただしこれは、あくまでピアニスト仲間のあいだで、噂話として聞きかじったお話です。  ですから、そのような類のお話だというつもりで、聞いてください。いいですネ?」  「「はい……」」  「あー、でも僕、一生懸命お話したから、お腹すいちゃったヨ?  そういえば、チアキはとても料理が上手だと聞きましたが?  ちょうど妻は、料理の腕を磨くためにエジプト修行(旅行)に行って留守なんです。  チアキ、お近づきのしるしに、美味しい料理をふるまってくれませんカ?」  「あ、いいデスねー! それっ。  先輩、ちゃっちゃとお料理つくっちゃってくだサイ!  のだめ、その間にヨーダにピアノのレッスンしてもらうことにしマスから」  「はぁぁ……、結局出し渋りじゃねーか……」  真一は、主が留守のキッチンで、失礼します……≠ニ断りながら食材を見繕っていく。  「げ、タコ……」  冷凍されたみごとなタコをみつめながら、たこ漁師父子に思いを馳せる真一であった。  三十四  初めて訪れたオクレール邸。  初めて会って、弟子ののだめの夫になることを挨拶し、それで終わるのかと思っていたオクレール氏との会談は、思いもよらぬ急展開となる。  真一はなぜか、初めてのキッチンでのだめとオクレール氏のために美味しい夕食を作り、できあがった料理の数々をいまかいまかとヨダレをたらさんばかりに待ちわびている二人の前に並べているところであった。  「むきゃぁー! たこデスよ、たこ!  のだめ、ヨーダのお話聞いているときから、たこが食べたくて仕方なかったんデスよ!」  「メグミもですカ?  私も、超大だこと漁師の死闘を思い浮かべながら、美味しいタコ料理を想像していたんですヨ〜!」  「はぁ……いろんな意味で師弟関係だな……」  真一は、オクレール氏に渡されたワインのコルクを開けながら溜息をつき、三人のグラスにワインを注いだ。 ------------------------------  「タコのカルパッチョも、タコとトマトとチーズのオーブン焼きも、タコと鶏肉と蕪の煮込みも最高でシタ〜!  はぅん……、のだめ満足デス」  「本当に、どの料理も素晴らしかったヨ!  のだめが自慢するだけのことはあるネ。全部君のオリジナルですカ?」  「はい……、まぁオリジナル料理というほどのものでは……」  「せんぱい……、デザートはなんデスか?  いたっ!痛いデス……」  「それではデザートの代わりに、私がマサユキ・チアキと、そのお父様のお話をしまショウ」 ------------------------------  リビングに場所を移動し、オクレールの入れてくれたコーヒーを飲みながら、俺が知らない、親父と祖父の話を聞くことになった。  「話……といっても、さきほど言ったように、あくまで噂話として聞きかじったお話です。  どこまでが事実なのか、また大した内容のお話でもありませんから、がっかりさせてしまうかもしれませんが。  噂話は本来好むほうではありませんが、なにか、このお話があなたたち二人にとって大切なことのようですから、お話することにしまショウ」  そういって、オクレールはコーヒーを一口含むと、何かを思い出すように遠くを見つめながら、ゆっくりと話し出す。  「マサユキ・チアキ氏のお父様は、私と同じピアニストの指導者をしていて、大変厳しい指導をする方だったそうですが、とても真面目で誠実な方だったと聞いています。  チアキ氏も……、失礼、ここではお父様のことをチアキ氏と呼びますヨ?  チアキ氏も幼い頃からお父様の指導のもと、ピアニストになるべく、日々厳しいレッスンを受けていたようです。  お父様の素質を受け継いで、チアキ氏も幼少の頃から卓越した演奏技術を備えていたそうです。  しかし、思春期を迎えるころから、チアキ氏はピアニストとしての道ではなく、作曲の方面に興味を持ち始めたようですね……」  「作曲? 親父が?」  オクレール氏は、真一を見つめ、静かにうなづくと、また静かに語りだす。  「しかし、お父様は作曲を始めたチアキ氏を認めることはせず、頑なにピアニストとしてレッスンを続けることを強いたようです。  そこで、チアキ氏とお父様は仲たがいをすることになり、チアキ氏はお父様の元を飛び出した……。  二人は長い間疎遠のまま、チアキ氏とお父様は和解することなく、死別されたと聞いています。  チアキ氏が作曲の道に進むのをやめたのか、それともうまくいかずにピアニストとしての道へ戻ったのか、どのような事情で今のピアニストとしてのマサユキ・チアキとなったのか、それは私にもわかりません。  でも、自分の息子がピアニストになりたいと言ったとき、自身の父親との確執を思い出し、ピアノはやめろと言ったのではないかと、想像はできますね……」  「……」「……」 ------------------------------  「今日は、初めての訪問で、このように長居をしてしまい、申し訳ありません。  また、大変貴重なお話をうかがうことができて……ありがとうございました」  「いえいえ、長くなったのは私がわがままを言って、チアキに料理を作ってもらったからですから。  このように手料理をいただいて、チアキのマルレでの演奏を聴くのと同じように、あなたの誠実さを知ることができて、大変満足です。  メグミのことを安心してお任せできますヨ。大変でしょうけど、頑張ってくださいネ?」  「ヨーダ、大変でしょうけどってなんデスか?  なんか奥歯にタコの筋がひっかかったような言い方デスけど……」  「あはははっ! その通りですヨ? メグミも少しはお話の本質というものが理解できるようになったのですネ。  これからの演奏もその調子で期待してますヨ?」  こうして、俺とのだめはオクレール邸をあとにした。  「ふぅぅ……、驚きまシタね。賢者はこんなところにいたんデスね。  のだめ、一気に千秋父子の秘密と謎の解明に近づいた気がしマス……」  「……」  「真一クンはどうデスか?驚きまシタか?」  「あ、ああ……」  「週末、のだめと一緒にあの街にいきまショウ。  シモーナのご主人からお話を聞くことになっているんデス。  のだめも一緒だし……。きっともう大丈夫デスよね?」  「……そうだな……」  「ぎゃぼっ! く、苦しいデスよ……」  俺はなんだか胸がいっぱいになって、人目も気にせず、のだめを力いっぱい抱きしめた。  そうしていないと、なんだか自分がバラバラになってしまいそうだったから。  「今夜……、俺の部屋でいいよな?」  「はい……。美味しいデザートつけてくだサイね?」  そういって潤んだ瞳でおねだりする小悪魔の禁断の果実に吸い寄せられるように、俺はのだめの唇をかるく掠めると、アイツの手を握って早足に家路を急いだ。  三十五  「し、真一クン、痛いデス……」  俺は無意識に、のだめの手を力いっぱい握りしめていたらしい。  「あ、悪い……」  のだめから指摘されて緩めた手のひらを見れば、力を入れすぎていたせいで全体に赤みがさし、しっとりと汗ばんでいる。  何かに追い立てられるように急ぎ足で俺のアパルトマンに到着してみれば、ドアを開けのだめを引き込んだ玄関先で、二人とも呼吸は荒く、肩で息をしていた。  「真一クン、のだめ苦しいデス……」  そういって薄く唇を開け、苦しそうに眉をひそめるのだめを見た途端、俺は我慢できず、のだめを壁に押し付けて唇を塞いでいた。  噛み付くようなキス。  アイツの苦しそうな表情と洩れる吐息に煽られて、俺は口内を犯しつづけ、息継ぎもさせずに舌を絡めてゆく。  「んっ……んんっ!」  のだめの拳に胸を叩かれて、我に返った。  もう一度、のだめを力いっぱい抱きしめる。  そうしないと、自分がバラバラになって、消えてしまいそうだったから。  「真一クン……、今、どんな気分なんデスか?」  「なんか……、生まれ変わった気分……。  自分が自分じゃないような、かといって全く別人なわけじゃなくて……」  そうして、のだめの耳元に唇をよせると真一は囁いた。  「ベッド行こう」  「え……」 ------------------------------  のだめの手を引いて連れて来ると、俺はベッドに腰掛けタイを緩め、両手を後ろ手についた姿勢でのだめを見上げる。  のだめは俺のいつもと違う様子に戸惑い、俺の前に立ったまま、こちらの様子をうかがっている。  俺はのだめを見上げ、まっすぐに見つめると静かに言った。  「なぁ、お願いがあるんだけど」  「なんデスか?」  「お前の身体、見せてくれない?」  「がぼん……むっつり真一クン……?」  「いや……セクシャルな意味で、興奮したくて言ってるんじゃなくて。  生まれ変わったように、真っ白で空っぽな俺の中に、まずお前を刻み付けたいから……」  射るような真一の真剣な瞳に、のだめは吸い込まれるような感覚を覚える。  「……いい……デスよ?  でも……その前に何か飲ませてくだサイ。  飲みやすくてアルコール度の高い、一口で酔えるようなカクテルがいいデス……」  「わかった」 ------------------------------  ジャケットを脱ぎクローゼットにしまうと、キッチンに移動し、のだめのためにカクテルをつくる。  シェーカーにクラッシュアイスをたっぷり入れ、よく冷やす。  ジンを二分の一に、アプリコット・ブランデー四分の一と、カルバドスを四分の一。ストレーナー、トップをかぶせ、指で押さえると、左胸の前に抱えて素早く上下にシェイクする。  しゃかしゃかしゃか……。  静まり返った部屋に、心地よい音が響く。  適度に冷やしたカクテルグラスに静かに注ぐ。自分にはブッカーズをロックで。二つのグラスをリビングのローテーブルに運ぶ。  いつの間にか消えていたのだめが、バスルームから何か抱えて戻ってくる。  「なんだ? それ……」  「アロマキャンドル、買っておいたんデス。バスルームで使おうかと思って。  真一クン、ともしてくだサイ……」  俺がライターを探して、キャンドルに火をつけている間に、のだめはソファーの前のラグに直接座り込み、テーブルに頬杖をついてカクテルグラスを見つめていた。  「ほわぉ……。綺麗なカクテルデスね? なんていうカクテルデスか?」  部屋の照明を落とし、スタンドのライトとキャンドルのライトだけのほの暗い部屋の中で、黄金色のカクテルがまるでもうひとつのキャンドルのようだ。  「Angel Face。名前は可愛いけど、三十度以上はあるぞ。百%アルコールのカクテルだから」  のだめはグラスを掴むと、静かに口元に近づけ、まず香りを嗅ぐ。  「甘い香りがします……。アプリコット?」  「そう。ジンベースだけど、アプリコット・ブランデーとカルヴァドスの甘い香りと、柔かく甘い飲み口に騙されて、すいすい飲むと潰れるからな」  「エンジェルというよりデビル?」  「……お前みたいだな」  俺の言葉にちょっと不満げな表情で、のだめがカクテルを口に運ぶ。  「……でも、美味しいデスよ? それものだめみたいデスか?」  ソファーに腰掛け、のだめを見下ろす俺を振り返り、挑発的な瞳で囁く。  やっぱり悪魔だろ、お前は……。  のだめは一口、二口と、ゆっくりとカクテルを飲んでいる。  キャンドルの明かりに照らされて柔らかい影をつくる表情が綺麗だ。  恥ずかしそうに伏せ目がちになった目元には、長い睫毛がほんの少し揺れている。  アイツの心臓の鼓動を伝えるように。 ------------------------------  ゆっくりと時間をかけてカクテルを飲み干すと、のだめは俺のほうに身体を向き直し、ぺたんとラグの上に座り込んだまま、両手をソファーに座る俺の膝にかけ、小首をかしげて俺を見上げる。  決して弱くないアルコールのせいで、のだめの瞳はとろんと緩みきっていて、顔も全体的に赤みがさして目元はシャドーを入れたようにほんのりとピンク色だ。  「のだめ……今とってもいい気分デス。ふわふわして、自分の背中に羽がはえて、五センチメートルくらい宙に浮き上がってるみたいデス……」  そういうと、俺の両足の間ににじりよってきて、俺の左膝にその小さな頭を乗せ、ぐったりと身体を預けてくる。  俺は膝に乗せた子猫をあやすように、のだめの髪をなでながらグラスに残ったブッカーズを飲み干した。  「なぁ、俺はお前のリクエストに応えたんだけど……」  のだめはゆっくりと頭を起こして俺を見上げる。  「わかってマス……ここでいいデスか?」  こくん。  小さくうなづくと、のだめは俺の膝に手をかけゆっくりと立ち上がり、俺の両足の間に立ったまま、その両手で俺の頬を挟み込む。  「本当は凄く恥ずかしいんデスよ?……でも、生まれ変わった真一クンの中にものだめのこと刻み込んでほしいカラ……」  そういって、のだめは視線を自分の胸元に落とす。  「絶対に忘れないでくだサイね?」  真一のアパルトマンは今、アロマキャンドルから漂う、オレンジ、ベルガモット、ピーチやラズベリーなどのフルーツの甘い香りが溢れていた。  三十六  のだめは今日もいつものようにワンピースを身につけていた。  オクレール邸への訪問だったから、いつもより大人っぽいカシュクールタイプ、ノースリーブのラベンダー色のドレス。  左腰に結ばれたリボンを解き、脇の下から腰の中ほどまでのジッパーを下げると、肩からすとんと外れたドレスが足元に落ちる。  のだめは俯いたまま、ストッキングも脱ぎ下着だけの姿になると、両手を胸の前で組み、俯いたまま呟く。  「まだ、のだめが自分で脱ぐんデスか?」  「できれば……」  真一はソファーに深く腰掛け、右手を頬にそえたまま目を逸らさずに答える。  のだめは少し怒ったような瞳で真一を見つめたあと、諦めたようにため息をつく。  両手を後ろ手にまわし、ホックをはずす。  ぱすっ。  解き放たれた豊かで美しい双丘に目を奪われた。  何度も抱いて、見慣れているはずのそれは、白く艶やかに輝いており、丘の頂には初々しい蕾が魅力的な桃色に染まって真一を誘う。  真一はのだめの腰に両手をかけ、少し強引に引き寄せると、ソファーに膝立ちにさせて、のだめの乳房を顔に近づけた。  「綺麗だ……」  俺は素直に、心のままに呟く。  のだめは両手を俺の首にまわし、少しあごを引いて真一の瞳を覗き込む。  「からかってるわけじゃないんデスね?」  俺はのだめの顔を見上げ答える。  「マジで……。嘘みたいに新鮮だし……。  なぁ、触ってもいい?」  「だめデス……」  のだめはとろけるような瞳で俺を見つめて言う。  「だってずるいデス……のだめばっかり……」  「じゃあ、俺も脱げばいいの?」  真一の美しい唇の口角がすっと上がり、のだめをからかうように囁く。  「真一クンのことはのだめが脱がせてもいいデスか?」  のだめは俺のタイに両手をかけ、真剣な眼差しで結び目を緩めると、シャツから抜き取る。  しゅっ。  「はぁはぁ……」  「おい、鼻息荒いぞ……」  「だって、真一くんに邪魔されずにこんなことするの初めてだカラ。ついつい興奮しちゃいマス……」  軽口を叩きながら、俺のシャツのボタンを外していくのだめに、ついついちょっかいを出したくなって、首筋にキスしようとしたが生意気にかわされた。  「だめデス。じっとしててくだサイ?」  「じれったいんだよ。もっとスピード上げろ……」  「いいじゃないデスかー、今日は真一クンのペースにはさせまセンよ?」  やっとボタンをすべて外し終わると、のだめはシャツをはだけさせて俺の胸板に両手を這わせる。  「はぅん……素敵な胸板デスね……」  両腕からシャツを引き抜き、やっと上半身裸にになった。  のだめががちゃがちゃとバックルを外し、ジッパーを下げると、俺はのだめに言われるがまま、立ち上がって服を脱ぎすてる。  「全部脱いでくだサイ?」  「え? 俺が先かよ」  正直、まだパーフェクトとは言い難い形状のそれを出してしまうのはかなり抵抗がある。  でも、のだめはどうしてもと言って引かない。  「経過観察デス」  「変態……」  のだめは完全に酔いが回っているのだろう、先ほどまでの恥じらいとか戸惑いなんてものは全然感じられず、完全にこの行為を楽しんでいる。  もう、どうにでもなれと一気に脱ぎさり、生まれたままの姿になると、もう一度ソファーに腰を下ろした。  のだめは俺の両足の間にぺたんと座り込むと、両手を俺の太ももに這わせ、ゆっくりと付け根まで指を伸ばし、触りはじめる。  「のだめ……、真一クンのこれ、大好きデス……」  俺を見つめてそう呟くと、のだめはそのまま顔を埋めてゆく。  「うっ……」  まだ柔かい先端を、唇と舌を使って、まるでキャンディーでも味わうように、のだめは恍惚の表情を浮かべ弄ぶ。  俺は声が漏れるのを堪えているが、それがのだめの口内でぴくりと反応するたびに、アイツは顔をあげ、俺の表情を確認する。  のだめの緩みきって欲情した瞳に見つめられると、さらにまたそれは質量を増してゆく。  ぴちゃぴちゃという淫靡なのだめの舌使いの音とアロマの甘い香りに、俺は自我を解き放ち、溺れていった。 ------------------------------  「ああっ!」  のだめに咥えられたまま、俺は果てる。  気がつけば根元に埋められたのだめの頭を両手で抱え込み、俺は嬌声をあげていた。  ぐったりと脱力してソファーの背に体重を預けると、果てたそれをぺろぺろと子猫のように舐めていたのだめが、ゆっくりと俺の膝の上に跨がり、その細い腕を俺の首に回して抱きついてきた。  「真一クン、気持ちよかったデスか?」  「……最高……」  「素直な真一クン、可愛いデス。  今日はいつもと違って、いっぱいイイ声が出てまシタよ?」  小首をかしげて上目使いでそんな生意気な口をきくのだめに、俺の欲望は一気に火がつく。  「その台詞、後でそのまんまお前に返してやるよ」  「ぎゃぼっ」  俺は抱きつくのだめを抱えたまま立ち上がると、ベッドへと向かった。 ------------------------------  俺たちはベッドの中央で、抱き合ったままもう一度キスを始める。  先ほど交わしたような夢中で貪るキスとは違う。  俺の唇で、もう一度のだめの唇の感触を確かめながら、それを刻み込んでいくのだ。  なぞって、はさんで、吸いついて、またなぞる。  そんな繰り返しが、どんどんのだめの感度をあげていく。  のだめはあごを上げて唇を開いたまま、なすがまま、ねだるように喉を鳴らしている。  突き出してきた舌を絡みとってやると、さらにねだるように腕をぎゅっと俺の首に絡め、腰を俺に押し付けてきた。  「はぁ……」  絡めていた舌を解き、のだめを見下ろすと、恍惚の表情でのだめが囁く。  「真一クン……早くのだめに触ってくだサイ……」  真一はのだめの瞳を見つめながら、まず両手を顔にあて、頬から輪郭を確かめるように指を滑らせる。  あごの下からうなじ、耳の後ろと指を滑らせると、アイツはくすくすと身をよじってくすぐったがった。  「ここ、感じない?」  「気持ちいいデスよ? でも、今日の真一クンの触りかた、そういうのじゃないっていうか……」  「うん……そうかもな」  のだめの両手を掴んで頭の上に上げさせ、二の腕をさすりながら唇で首筋をなぞる。  「はぁっ……」  のだめが声を漏らしながら、仰け反る姿が、まるでスローモーションのように映った。 ------------------------------  唇を首筋から鎖骨を辿って徐々に双丘へと近づいていく。  それと同時に腕をさすっていた両手も、脇を辿って乳房へと滑らせれば、のだめの口から漏れる吐息は熱を帯び、浅く速くなっていく。  双丘の谷間に唇を滑らせ、乳房の輪郭をなぞるように外側から内側へと手のひらを滑らせてゆく。  「あんっ……はぁ……」  蕾に触れるか触れないかのところを、掠めるように滑らせれば、のだめはその豊かな乳房を俺に突き出すように、さらに頭を仰け反らせる。  蕾の輪郭を、片方は指で、もう片方は舌先で掠めるように辿れば、さらにのだめからは吐息が零れる。  もっと強い刺激を求めて、揺れるのだめの白い身体を右腕でぎゅっと抱きしめ、左手で片方の乳房を鷲づかみにすると乱暴に揉んでやり、もう片方は唇で蕾を挟み込み、舌先で強い刺激をおくる。  「あんっ!あああんっ……」 ------------------------------  真一の唾液で濡れたのだめの白い乳房と桃色の蕾は、てろてろと鈍く光る。  蕾ははちきれんばかりに膨らみ、少しの刺激を与えるだけで、のだめの口からは面白いほど嬌声が上がる。  飽くことのないのだめの豊かで美しい乳房。  俺はその美しい姿を、しっかりと脳裏に焼き付ける。  両手でもてあそびながら、唇を下腹部へと滑らせていくと、のだめは新たな刺激への期待に腰を突き出してくる。  支えきれない上半身をベッドに沈め、手のひらも唇の動きに合わせて細い腰へと滑らせてゆく。  両腰にとまる、小さな蝶。指で摘んでゆっくりと解いてゆく。  「あんっ……はぁん……」  唇の動きをとめ、のだめの意識を俺の指先の動きに集中させる。  蝶が解けて、肌が外気に晒されてゆくにつれ、のだめはそれだけで感じていくから。  のだめを生まれたままの姿にしてやり、まだ中心には触れることなく、足首から中心に向かって両手と唇で触れながら、のだめを焦らしていく。  そうすれば、のだめは自ら俺にむかって両足を広げて、その中心を愛してほしいとねだってくるから。 ------------------------------  俺の目の前には、すべてをさらけ出し、身をゆだねる女。  両腕で太ももを抱え込むと、零れた体液とむせ返るような女の香りを漂わせる、俺をとらえて放さない甘い蜜壷。  蜜を指に絡ませ、まずは全体をなぞる。  神秘的で魅惑的なその形状。その襞に隠された甘い蜜を溢れさせる蜜壷に、真一は指をねじこんでゆく。  つぷり。  のだめの唇からは、さらに高い嬌声が零れる。  くちゃ、くちゃ……。  それに合わせて、蜜壷からはどんどんとあふれ出る蜜と、真一の指の動きにあわせた淫靡な音がベッドルームに響く。  蜜壷の上部にある、可愛い真珠のつぶ。  俺の指の刺激につれ、はちきれんばかりに膨らみ、触れて欲しいと誘うから、俺が迷わず舌先でつついてやれば、のだめは大きく腰を振り、悦びに震える。  蜜壷のうねりを俺の指が感じる。抜き差しする真一の二本の指には、のだめの甘い蜜が溢れ、伝い流れてくる。  ざわつく蜜壷のうねりと、のだめの喘ぎに合わせ、俺は指のストロークと舌先の動きに加速度をつけ、のだめを絶頂へと導く。  「あっ、あっ、あっっ、ああああんっ!」  のだめはその細い腰をがくがくと痙攣させ、四肢をびくんっ!とつっぱらせたあと、ぐったりと全身を弛緩させた。 ------------------------------  のだめの髪を優しく梳きながら、コイツの意識が戻ってくるのを待って、今度は愛しさを込めて、優しくキスをする。  「真一クン……」  「……欲しい?」  「はい……くだサイ。真一クンの好きにしていいデスから……」  はちきれんばかりにそそり立つ俺自身にのだめの溢れる蜜をまとわせ、ゆっくりとねじ込む。  熱くて、俺自身を優しく抱きしめるように、それでいてざわざわと追い立てるように締め付ける感触。  まずはしっかりと俺の中に刻み込むように、ゆっくりと味わう。  ざわつくのだめの中に意識を持っていかれそうになりながら、俺はギリギリのところで留まっている。  「はぁ……気持ちいい……」  「あんっ、あああんっ、もっとっ……」  のだめにねだられるまま、ストロークを広げて突き上げる。  角度を変え、のだめの感じるところをこすりあげながら、俺はただ必死に腰を振り続ける。  どこまでも真っ白な、もやのたちこめるような、ふわふわとした感覚の中を、のだめの喘ぎ声だけを脳内に響かせて、俺は頂点を目指す。  のだめの喘ぎ声がワントーン上がる。  「あっ、あっ、真一クンっ……いくっ、いくっ、いくっ、あああっ……」  「のだめっ、んっ……」  俺は、のだめのその恍惚の表情を白んでいく脳裏に刻み込むと、抑制していた欲望を解き放ち、のだめの胸へと倒れこんだ。 ------------------------------  「喉が渇きまシタ……」  「あれだけ声あげれば喉カラカラだろ?」  インターバルをとりながら、その夜は三度、俺はのだめを抱いた。  生まれ変わったかのような俺にとって、馴染んだはずののだめの身体がとても新鮮に感じて、俺は何度でもやれる気がした。  シャワーで軽く汗を流したあと、のだめにはガス入りのミネラルウォーターを、自分にはビールをベッドサイドに持ち込み、ヘッドレストに頭をもたげて、両足を大の字に放り出して、ビールを煽る。  少し眠そうにとろんとした目ののだめは、頭を俺の左肩に乗せ、横向きで俺を見上げている。  すべらかなのだめの背中に、指を上下させながら、俺はこの一ヶ月ほどの間に悪夢に苦しめられながら揺り起こされた、深層心理に眠っていた記憶について話し出した。  「あの頃、俺は親父が大好きだったけど、その反面、不器用な親父の態度に自分が愛されてるのかどうか半信半疑で。  ピアノを始めたいといったのに拒否されたとき、俺は親父に望まれていないのかもしれないと疑い出したんだ。  親父の仕事が忙しくなって、一緒に過ごす時間がどんどん少なくなって、あの旅行の話が出て……。  親父が俺に、男同士で洞窟に行こうって言ってくれたときは、飛び上がるほど嬉しかった。  でも、あのクルーザーの舳先で、親父に抱えあげられて、次の瞬間、宙に投げ出された俺の視界に、親父はいなかった。  海水の中に落ちたことに気付いたとき、俺は親父に捨てられたと思った。すぐに海面に浮き上がろうと思えば、できたはずなんだ。  だけど俺は一瞬、浮き上がることを拒否したんだ。  海の底に引きずりこまれるのに、抵抗することなく身を任せて、俺は死がどんな世界なのかも知らずに、ただ海面に浮き上がることだけを拒否して、沈んでいったんだ……」  「のだめは、真一クンがこちらの世界に戻ってきてくれて嬉しいデス。  真一クンだって、今、幸せデショ?」  「……たぶん、な……」  「むぅ……たぶんなんデスか?  素直にならないと、お仕置きしマスよ?」  「いや、すげー幸せだけど?  でも、お仕置きも気になる……」  「もぅー! 今日はもう無理デスからっ!  ぎゃぼーっ! 胸、触らないっ! ひも、解かないっ!」 ------------------------------  翌朝、俺は久しぶりに悪夢を見ることも、幼い頃の思い出に涙しながら目覚めることもなく、ただただ真っ白な睡眠を貪って、気持ちよく朝を迎えた。  俺の左側には、愛する妻が幸せそうな寝顔で眠っている。  そんななんでもないことが、とても幸せだと思える。  俺は、起き出して妻のために朝食を作ろうか、それとも温かく柔かい妻の身体を抱きしめて、また惰眠を貪ろうか、考える。  どちらも同じくらい魅力的で、退屈なくらい平凡な選択肢だ。  のだめを抱きしめて少しだけ眠ったら、美味しい朝食を用意して、大喜びで朝食を平らげるのだめを見て、ご褒美にピアノを弾いてもらおう。  両方を選んで、さらに自分のためのご褒美まで思いついた真一は、自分の考えにとても満足して、左側に眠るのだめを抱きしめて、もう一度枕に顔を埋めた。  三十七  週末にのだめがイタリア入りした。  俺はあれから生まれ変わったように新鮮な気持ちで毎日を過ごしている。  だからといって海が好きになったわけではないのだが……。  「むきゃー! 千秋先輩、見て見てっ、すっごく綺麗デスよ、海」  「……お前、嫌がらせか? そんな事して楽しいか?あ?」  「い、いやデスねぇ、のだめは純粋に美しいものを愛する夫と分かち合いたいと……」  「俺のことは構わず、お前ひとりで好きなだけ味わえ……」  「がぼん……」  俺たちは一ヶ月ぶりにあの街の教会に向かった。  車が海岸線を通り過ぎても、俺の体調にも感情にも何も変化はない。  ただ、あえて視線を向けるほど好きなものではないということだ。  久しぶりの教会で、牧師に礼拝に通えなかった詫びを言い、問題が解決したことを伝える。  「これで結婚式も大丈夫ですね、本当によかったです。  もし機会があれば今回の出来事について、私にも教えていただけますか?」  「はい、ぜひ」  シモーナや、顔見知りになった信者たちと挨拶を交わし、礼拝に参加するため席についた。 ------------------------------  礼拝が終わり、シモーナと一緒に彼女の自宅に向かう。  そこでシモーナの夫から話を聞くことになっているからだ。  「シンイチ、よかったわね。もうすっかり大丈夫そうじゃない?  夫が知ってる事なんて、なにかお役にたつのかしら?」  家に到着してリビングに通されると、まずシモーナにお礼をする。  「あの時はご迷惑をかけて……いろいろお世話になりありがとうございました」  「そんな迷惑だなんて、シンイチにしたって突然のことだったんだから、どうか気にしないでね。  私はクラシックファンとして、NODAME やシンイチと知り合いになれただけでも光栄なんだから」  そういっていつものような明るい笑顔を残し、夫を呼んでくるからといって部屋を出ていく。  「ほんと、シモーナはイタリアの太陽みたいな女性デスね。のだめもあんなふうに年齢を重ねたいデス……」 ------------------------------  しばらくして、シモーナに連れられ、夫がやってきた。  真一とのだめは席から立ちあがり、挨拶をする。  「今日はお忙しいところをお時間をいただき、ありがとうございます」  「大丈夫ですよ、どうぞ座ってください」  そうして、シモーナの夫は自分もリビングのソファーに腰掛けると、シモーナにむかって、悪いが仕事の使いをお願いできないかと頼む。  「え? お客様がいらしてるのに出かけるなんて……」  口ごもるシモーナに夫は真一たちにむかって言う。  「申し訳ないのですが、どうしても急ぐものですから、シモーナが出掛けることを許していただけますか?」  「もちろん、私たちは構いません」  シモーナは不満げだったが、夫からどうしてもと頼まれ、真一とのだめに、すぐに帰ってくるから、今日はぜひ我が家で夕食を食べていってねと言い残し、出かけていった。 ------------------------------  シモーナが部屋から出ると、夫は小さく息を吐き出し、安堵の表情をする。  「突然このようなことをして、いささか驚かれたでしょう、すみません。  でも、これからお話しすることは、どうしてもシモーナに聞かせるわけにはいかないものですから……」  そういってシモーナの夫は淋しそうな微笑みを浮かべる。  「どこからお話しすればいいか……。  ちょっと長くなりますが、順を追ってお話していいですか?」  「あ、はい。ご主人がお話ししやすいやり方で、私たちは構いません」  真一とのだめは、シモーナの夫からの意外な言葉に戸惑いながらも、その問いかけに了承し、次の言葉を待った。  「私とシモーナはこの街に二十五年前に来ました。その前は別の街で、私は漁師をしていました」  「漁師……たこ漁師デスか?」  「……いいえ? たこ漁師がなにか?」  真一は慌てて、気にせずに先を続けてくださいと伝えると、隣ののだめを睨みつけ、小突く。  「私たちは三十年前にその街で結婚しました。そして翌年、男の子に恵まれました。一人息子は私たちにとって、宝物でした。  息子は、私の事が大好きで、漁師の仕事が好きで、海が好きで、船が好きでした。  息子は私が漁から帰るころになると、シモーナにせがんで、毎日のように港にやってきては、私の手伝いをするといってついてまわって……。  結果的には仕事の邪魔なんですが、私はそんな息子の様子が可愛くて……、あまり強く怒ることができませんでした。  そんなある日、それは起こりました。  漁から帰ってきた私の元に、真っ青になったシモーナが駆け寄り、息子が見当たらないと言うのです。  妻はキッチンでいつものように料理をしていて、息子は庭先で遊んでいたそうです。  キッチンの窓から、息子の遊んでいる姿が見えるので、妻は安心してキッチンにこもり、料理の合間に息子に目をやっていたそうです。  ところが、次の瞬間、キッチンの窓に目をやると、先ほどまでいたはずのところに息子がいない。家の中に入ったのかと、リビングに声をかけるが返事がない。  それまで、息子が一人きりでどこかに行ってしまうといったことは一度もなかったので、キッチンの窓から死角になるところに移動したのか、どちらにしても家の近くにはいるだろうと思い、念のためシモーナは庭に出てみました。  ところが、庭のどこにも息子は見当たらず、シモーナは慌てて家の近所を探してまわりました。  探しながら、すれ違う住人たちに尋ねて歩き、そのうちの一人から、息子が漁港のほうに向かって一人で歩いていたと聞き、シモーナは慌てて港に向かったのです。  息子はよく、私が漁から帰る時間を時計で確認しては、一時間くらい前から、シモーナのことを急かしていたそうです。妻はそのたび、まだ早いからといって、息子を諭して、家事がひと段落してから息子を連れて漁港に来ていたのですが、息子はそれが少し不満だったようです。  シモーナは、息子が庭先から自分に声を掛けたのに、自分がそれに気付かず、腹を立てて一人で先に行ってしまったのではないかと、自分を責めました。それでも港にたどり着けば、きっと息子に会えるだろうと、その時は思っていたようです」 ------------------------------  シモーナの夫は、そこまで一気に話すと、急に席を立ち、  「失礼して、少し早いですがワインを開けてもいいですか?  よろしければお二人も」  「はい、お付き合いします」  ワインとグラスを運んでくると、グラスに注ぎ、口に運ぶ。  「こんな話……、なぜするのか不思議に思われるでしょう。  退屈ではないですか?」  「いいえ……、大切なお話なのでしょう。  時間はたっぷりありますから、私たちのことは気にせず、どうぞ先を続けてください」  真一がそう答えると、シモーナの夫はありがとう、と小さく答え、また話だした。  「妻は必死で息子を探しましたが、見つけることができませんでした。  そのうちに私が漁から戻り、事情を聞いて漁師仲間と手分けして息子を探しました。  ……結局息子が見つかったのは一週間後のことで、街ひとつ離れた海岸に打ち上げられたのです」  「大変辛い一週間でした。そして一週間後はもっと辛い日々が待っていました。  シモーナは自分を責め、心神喪失状態となり、私はこのままでは二人ともだめになってしまうと、漁師をやめ、息子との思い出にあふれた街を出ることを決意し、シモーナを連れてこの街にやって来たのです」 ------------------------------  「あんなに明るい、ひまわりみたいなシモーナにも、とっても辛いことがあったんデスね……」  のだめは静かに涙を流していた。  「挙式を控えて幸せいっぱいのお二人に、このような話をお聞かせして申し訳ない。  お嬢さん、どうかそんなに泣かないでください。  誰の人生にも、多かれ少なかれ、このような試練はあるのです。  こういった試練を人間は決して無駄にしてはいけないと、私は思っています。  幼くして命を落とした息子のためにも、私はそのように考えているのですよ。  そして、私のこういった経験が生かされて、今目の前にいる、あなたという存在に繋がるのです」  「俺……ですか?」  シモーナの夫は、真一の目を見つめ、慈愛にみちた微笑みを浮かべ、小さくうなづくと、また語りだす。  「私はこの街に移り住んでから、クルーザーを使った観光業を始めました。比較的時間に自由が利くので、シモーナと一緒に過ごす時間がとれると思ったのです。  あの日、あなたとお父様が乗ったクルーザーには、私も乗員として乗っていました。  私は息子を失くしたばかりで、息子と同じくらいの年のあなたとお父様を見て、心から羨ましく思いました。仕事をしながらも、私は気がつくと、あなたとお父様のことを目で追っていたのです。  だから、甲板からお父様とあなたがいなくなったことも、私が一番に気付きました。仲間と手分けしてお二人を探し、まずお父様を、少し遅れてあなたを海から引き上げました。  あなたは呼吸をしておらず、心臓も停止していました。  その瞬間、私にはあなたが自分の息子にしか見えなかった。あのとき、助けることのできなかった息子を、今ここで助けることができると私は自分に思い込ませました。  その後は無我夢中で、人工呼吸と胸骨圧迫を繰り返し、あなたに向かって……、自分の息子に向かってこちら側に帰ってくるように、何度も何度も呼びかけました。  視界の中には、息子を失った頃の私と同じ顔をしたお父様もいました。  私は、あの頃の自分に向かって声をかけるように、お父様に対しても諦めちゃいけない、息子さんを生き返らせるように、声を掛け続けるように言い続けたのです……」  三十八  「ほわぉ……ご主人は、真一クンの命の恩人サンなんデスね……」  のだめの言葉に、シモーナの夫は先ほどまでの辛く苦悩するような表情から一転、穏やかな微笑みを浮かべる。  「いえ……、私のほうこそ、あの出来事に救われたのですよ。  私は、息子を助けられなかった事がとても大きな心の傷になっていました。  でも、あなたを助けることで、私にできなかった、息子を助けるという疑似体験をさせてもらったのです。  大変不思議な体験でした。  あの時、私の近くに息子の存在を感じました。  自分は大丈夫だから、私にあなたを助けてほしいと優しくささやく息子の声を聞いた気がするのです。  あとから考えれば、あれは神が私に与えてくださった赦しだと思います。  なぜなら、私はあの出来事により、自分の心の傷が癒されたのですから……。  あなたが意識を回復したと伝え聞いたときは、本当に嬉しかったですよ。  そしてあの少年が、このように立派な男性に成長されて、また私の前に現れてくれるなんて……。  生きていくということは辛いことも多いですが、このように突然ご褒美をいただくようなこともあって……、不思議なものですね」  シモーナの夫は、ふいに立ち上がり、リビングの隅のサイドボードの奥から、一つの写真立てを取り出し、二人に差し出す。  「これが私たちの息子です。  シモーナの手前、もう長いこと部屋に飾られることはなかったのですが、ぜひあなた方には見ていただきたい」  色あせた写真には、健康的に日に焼けて眩しいほどの笑顔を浮かべる、可愛らしい4歳くらいの男の子が、若い日のシモーナに抱きかかえられている。  「シモーナの笑顔にそっくりデスね。とっても可愛いデス」  「そうです。あの子はシモーナのひまわりのような笑顔を引き継いでいました。  私の大好きな笑顔を」  のだめの手から返された写真立てを受け取ると、シモーナの夫は愛しそうにその写真を手のひらで撫でる。  「あなたに再会できたことを、きっと息子も喜んでいるはずです。  どうか、私たちの息子の分も幸せで、充実した人生を送ってください……」  「はい、必ず。  あなたと息子さんからいただいた人生を、悔いなく精一杯、隣にいる妻と一緒に生きていきます。  本当にありがとうございました……」 ------------------------------  シモーナの夫は、あと一つだけ、これは真一が意識を回復するまでの一週間のことですが……、といって話をした。  「実は、あなたのお父様を、何度かこの街で見かけたのです。  私は、息子が見つからなかった一週間のことを思い出し、お父様の様子からも声をかけることはしませんでしたが。  これはその後、当時の牧師から聞いた話なのですが、お父様はあなたが意識不明だった一週間、毎日あの教会に通い、祈りを捧げていたそうです。  その教会で、あなた方お二人が挙式するなんて、これも神の思し召しでしょうか。人生というのは、本当に不思議ですね……」  「あの……シモーナは、ご主人が幼い頃の夫を助けたことは知らないんデスか?」  「はい。当時はとてもそのような事を話せるような心理状態にはありませんでしたから。  でも……もう話をしてもいいころなのかもしれないですね」  「ぜひそうしてくだサイ! そして、こんな無愛想な夫でよろしければ、お二人の息子だと思っていただいて……痛っ!」  「無愛想は余計なんだよ……。でも、本当にそうしてくだされば……、その息子さんの写真も飾ってあげてください。きっと息子さんも喜ばれると思います」 ------------------------------  話が一段落ついたところで、シモーナがタイミングよく帰宅した。  「遅くなってごめんなさいね。帰る途中、聖歌隊のメンバーに会ってしまって。いろいろ話し込んでいたら、すっかり遅くなってしまったわ」  そう言ってシモーナはすぐに仕度するからとキッチンに向かおうとしたが、真一に呼び止められる。  「あの……失礼かもしれませんが、今日は私に料理をさせていただけませんか?  お二人にお礼もしたいし、シモーナにはぜひ、ご主人から私の話を聞いてほしいんです。ご主人、よろしいですよね?」  シモーナの夫が妻に向かってうなづく。  「シモーナ、ぜひそうさせてくだサイ! 真一クンの料理、とっても美味しいんデスよ?」  シモーナは何が起きているのかよくわからないまま、真一にキッチンで食材や調味料、キッチン用具の場所などを教え、じゃあお任せするけど……本当にいいの? と不思議そうにしている。  「わがままを言ってすみません。でも、ぜひそうさせてください」  真一はそういうと、シモーナの背中を押しリビングまで連れ戻すと、のだめの手を引いてキッチンへ戻り、シモーナ夫妻を二人きりにした。  「さ、お前も手伝えよ」  「ぎゃぼん……」 ------------------------------  キッチンで黙々と料理をする。  最初こそ、真一の指示で食材を運んだり、下ごしらえをしたり、鍋を運んだりと手伝っていたのだめだったが、肉を煮込みはじめると、慣れない作業に疲れたのか、キッチンのスツールに腰掛け、壁に頭をもたげて居眠りをしている。  リビングからは、ときどきシモーナのすすり泣く声が聞こえた。  しばらくすると、キッチンにシモーナがやってきた。  だいぶ泣いたのだろう、目は真っ赤に充血して、鼻の頭も赤らんでいる。  でも、なにか吹っ切れたような、すっきりとした笑顔を浮かべている。  「のだめ……、おい起きろよ……」  「ふぉ? あ、シモーナ……」  「ノダメ、悪いけどリビングに行って夫の相手をしてくださる? 夫もたまには若い女性のほうが嬉しいでしょう。  シンイチの助手は私がするわ。シンイチ、構わないわね?」  のだめと真一は黙ってうなづくと、のだめはリビングへ向かいキッチンを出た。  「シンイチ……」  シモーナは真一の両手をとり、ぎゅっと握りしめる。  「ハグしてもらってもいいかしら?」  「よろこんで……」  真一は、シモーナを抱きしめる。  シモーナの手が遠慮がちに真一の腰に回されると、やがて彼女の肩が小さく震え出し、顔が埋められた真一の胸が温かく湿り気を帯びる。  キッチンには、煮込み肉の鍋がたてるカタカタという音と、シモーナの小さいすすり泣きが聞こえていた。 ------------------------------  シモーナの家での晩餐が終わった。  「本当にシンイチはお料理が上手ね! でも、今度は私の手料理もぜひ食べてもらいたいわ」  「妻の料理もシンイチに劣らず旨いですよ、ぜひまたお二人で遊びに来て下さい」  「ええ、必ず」  「シモーナのお料理、楽しみデス!」  玄関の外まで見送られ、真一はシモーナ夫妻のよく日焼けし美しい皺が刻まれた笑顔を見つめる。  真一はふと何かにつき動かされるように、二人を抱きしめる。  「ありがとう、また来ます。必ず」  夫妻の幸せな笑顔に送られ、真一とのだめはシモーナの家をあとにした。  三十九  チャイコフスキー協奏曲第一番。  ドラマティックな旋律が、今、ターニャの暮らすアパルトマンのピアノルームに響く。  めずらしく集中して演奏していたのだが、ぷっつりと糸が切れるように、現実に戻ってきた。  「今、私すっごく集中してなかった?  まぁ、ちょっとやる気を出せば、こんなもんよね」  ターニャは今、小さなアマオケだが、ピアコンの依頼をうけ、そのレッスンに励んでいるところだった。  「はぁー、疲れた。なんか甘いものでも食べよおっと」  休憩をとろうとリビングに戻ったところで、携帯が着信を知らせてブルブルと振動する。  「ん? のだめ?」 ------------------------------  のだめからの連絡で、ターニャはひさしぶりに学生時代をすごしたアパルトマンにやってきていた。  「のだめー! いるの?」  あいかわらず鍵もしまっていないドアを開け、乱雑なベッドルームを通過してリビングのドアを開ける。  「ひぃーーーーーっ!」  ターニャは目の前に広がる景色に、思わず悲鳴を上げた。  部屋の散かりようはいつものことだが、迎えた家主の振り向きざまの顔が、歌舞伎役者のようだったからだ。  真っ白に塗り込まれた顔、まっすぐに引かれた太い眉。目元にもありえないほどのラインが引かれ、その周りは一二ラウンドまで闘いきったボクサーのようにシャドーが塗り込められ、おてもやんのような過剰なまでのチーク、唇は……、もう言葉が出ない。  「あああああんた……、一体なにがあったっていうの?  ホラームービーの主役でも決まったの?」  「はぅぅ……、ターニャっ!」  「げっ! 抱きつかないでよっ! 服が汚れるじゃないっっ!」 ------------------------------  ひととおりメイクを落とさせ、蒸らしたタオルで肌をあたためると、もう一度洗顔をさせ、ターニャはほっと一息ついた。  「で? 日ごろからメイクもしないあんたが、結婚式という人生の晴れ舞台に、自分でメイクをしようとしてるって?」  「はい、おっしゃるとおりで」  「ばかじゃないの? そんなの人生の一 ページに後悔という項目を一つ追加させるだけじゃないの?」  「で、でも……。真一クンは照れ屋さんデスから、結婚式は二人だけでするって決めたんデス。  だからのだめ……メイクも自分でしなくちゃいけなくて……。  ターニャ、一生のお願いデス! のだめにブライダルメイクの指導をしてくだサイ!」  頼む相手を著しく間違えているような気がしないでもないが(爆)  元来、世話焼きで、年下なのに姐御肌、妹のように可愛いのだめのピンチとあっては、放っておけないのがターニャである。  「しょうがないわね……。この借りはいつか返してもらうわよ?」 ------------------------------  「大体……花嫁だからって、宝塚歌劇団の舞台に立つわけじゃないんだから、普段と変わったメイクをすることはないのよ?  寧ろ、にじみ出る幸せ感で肌なんか綺麗なんだから、シンプルでいいのよ、わかる?」  「ターニャ……、なぜ宝塚のことを……」  「そういう細部にはこだわらない! とにかく、シンプルに! わかった?」  「はい……」  「のだめって肌綺麗よね……。やっぱり日ごろメイクしてないとか、まったくストレス知らずのその図太い性格とか、チアキに美味しいもの食べさせてもらってるとか、関係してるのかしらねぇ……」  ターニャは、のだめのすっぴんの肌にベースメイクをほどこしながら、呟く。  「図太い性格ってなんデスか? のだめだってストレスくらいありマスよ?  まぁ、強いて言えば、夫に愛されてるから? ゲハ」  「あんた、少しは謙遜とかしなさいよね……」 ------------------------------  「さ、こんな感じでどう? 透明感を出すために、ファンデーションは薄めで、代わりにパールのパウダーを全体にうっすら。これはブラシでさっとなぞればいいから、のだめにでもできるでしょ?  眉毛も整えておいたから、軽くブラウンのシャドーでなぞるだけでいいわ。悔しいけどあんたの眉毛、すごく形がいいから。  それから、チークね。もうね、本当にちょびっとでいいのよ? ついたかな? っていうくらい。  きっと当日は、あんたのことだからチアキの白タキシードに興奮して、ナチュラルに頬が染まってくるはずだから。ちょびっとブラシにつけたら、とんとんっ、って叩いて余分なのを落として、すっとひとなで。ね、わかった?」  「ふぁい……」  「目元なんて、あんたのレベルでなんとかできるものじゃないから、ビューラーでカールして、マスカラだけつけなさい。で、ラインは引かなくていいから、台無しにするだけなんだから、目尻にだけシャドーを。ほんのちょっとでいいのよ?  口紅は、このペンシル使いなさい。不器用なあんたにはこれが一番。そのまま輪郭をなぞって、あとはこのグロスを乗せるだけ。いい?」  「ふぁい……」  「……さっ! できたっ! さっすが私、完璧じゃなーい!」  ターニャから差し出された手鏡で、のだめは自分の顔をのぞきこんでみる。  「ふぉぉぉっ! ナチュラルビューティー! のだめ史上最高綺麗デス!」  「ふふふ……、透明感とツヤ感を出すことで、シンプルなメイクでも特別感があるでしょ?」  「ターニャっ! ありがとデス!」  「わ、わかったから……、く、くるしいってば……」  力いっぱいのだめにハグされて、まんざらでもないターニャであった。 ------------------------------  「ねぇねぇ、ドレスは? もう届いてるんでしょ?」  「はいっ! 着てみマスか?」  「そうね、せっかくだからドレスとメイクがマッチしてるか見てみたいわね。  でも、その前にこの汚い部屋、なんとかしなさいよ? せっかくのドレスが汚れちゃうじゃない」  「ぎゃぼ……」  ターニャに手伝ってもらい、リビングをざっと片付け、ドレスを汚さないように洗い立てのベッドーシーツ(千秋が洗濯済)を床に敷き、その上にのだめを立たせる。  「さ、服を脱いでちょうだい」  「ぎゃぼっ!」  「あれ? あんたドレスの下に着ける、下着がないわよ?」  「へ? ブラと紐パンならすでに身につけてますケド?」  「ばっかじゃないの? 花嫁なんだから、ちゃんとした下着も用意しなくちゃ……。  じゃあ、サムシングフォーなんて用意してないわよね? もちろん……」  「さむしんぐふぉー? ベトナムの麺デスか?」  「はぁ……。花嫁が幸せになるためのおまじないよ。  『なにかひとつ古いもの、なにかひとつ新しいもの、なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの、そして靴の中には六ペンス銀貨を』マザーグースの歌が由来なの。  六ペンスはさておき、サムシングオールドには「祖先から受け継がれてきた財産」、サムシングニューには「これから始まる新たな生活への一歩を踏み出す」、サムシングボロウには「幸せな結婚生活を送っている人の幸せにあやかる」、サムシングブルーには「花嫁の清らかさと誠実な愛情」を表していて、それを結婚式当日に身につけた花嫁は生涯幸せな結婚生活を送ることができると言われているのよ。  下着……はこれから用意するから新しいものはクリアね。青いものは、よく、ガーターベルトを使ったりするわよ。これも一緒に買うとして……。  古いものと借りたものは靴とかアクセサリーとか……。借りるのは結婚生活に成功してる人にしないと……」  「ぎゃぼん……」 ------------------------------  とりあえず、のだめにドレスを着せ、ヘッドドレスとグローブもつけさせてみる。  「……」  「……」  運び込んできた、姿見に映し、女ふたり覗き込む。  「い、いいじゃない……」  「この人、のだめデスか?」  「そうよ……、花嫁という名のね」  「むきゃぁーーーっ! ターニャ、写メとってくだサイ! 真一クンにこれを送ってメロメロにしマスよ?」  「はぁ……、ダメじゃない、花婿は当日まで花嫁衣装は見ないのがルールよ?」  「へ? そなんデスか?」  「はぁ……あんたって本当に何にも知らないのね。  当日になって、結婚指輪忘れた! とか言わないでよね?」  「がぼん……、結婚指輪、用意してません……」  「はぁぁ……」  ターニャは人事ではあるが、とても人事とは思えない大切な友人とその恋人の結婚式のことを考え、とても何事もなく迎えられるとは思えず、大きなため息をついた。  四十  「……というわけで、真一クン、結婚指輪、用意お願いしマス」  のだめはターニャからの指摘を受け、取り急ぎイタリアの真一に電話する。  「はぁぁ……、そんな暇ねーよ……。引越しの準備もしなくちゃなんねーのに。  指輪……、いるか?」  「いるに決まってるじゃないデスか! 挙式のときだって、指輪の交換するでショ?  ……真一クン、もしかして浮気するつもりデスか?!  独身のふりして、巨乳ギャルをひっかけようっていうんじゃ……」  「ばっ、馬鹿なこと言ってんじゃねぇ……。  はぁ……わかったから、今週末、お前がこっち来た時、ローマで選ぼう。ヴィエラ先生の奥様にお店とか聞いとく。  ……それより、ターニャに教わったメイクって……、あーなるんじゃねーだろうな?」  「ああなるとは?」  「だ、だから……、ターニャ的なパープル系コギャル風というか……」  「ふぉ? そんなことないと思いますケド。  あ、写メ撮りましたけど、見ます?」  「う、うん……、一応、確認しとく」  「じゃ、メールしますねー」  電話を切って、折り返し届いたメールには、普段ののだめとは一味違う、ナチュラルだけど、きらきらと艶めいたのだめの微笑む写真。  「……」  そういえば、俺たちはお互いの写真とか、ツーショットの写真とか、持ってねーんだよな……。  真一は、GOUKAKU≠ニだけ書いたメールをのだめに返すと、画像をひっそりと保存し、思い出すと呼び出しては眺めて、ほくそえむのであった。 ------------------------------  「さ、結婚指輪は今週末選ぶとして、あとはファンタスティックフォー! デスね?」  「違うってば、サムシングフォーよ! 銀河の危機は救わなくていいから、自分たちの危機的な挙式を救いなさいよ!」  のだめとターニャは下着売り場にやってきていた。  のだめのウェディングドレスの下につけるブライダルインナーを購入するためだ。  「ふぉぉ! 下着なのに、ドレスのように綺麗デス!」  「まぁ、そんなに派手なものにすることはないでしょ?  ビスチェにガーターベルトがついたスリーインワンが便利ね。これ一つで済むから、ずぼらなアンタにはぴったりだし。ガーターストッキングも買って……。  あとは、サムシングブルー対策でガーターベルトね。」  「ガーターベルト……もう、さっきのに付いてたんじゃないんデスか?」  「それはガーターストッキングを止めるものでしょ?  ウェディングガーターベルトって言ってね、完全に飾りだけのものがあるの。  それで、花嫁が左足につけていたガーターを花婿が外して、未婚の男性に投げるイベントをするのよ。ブーケトスの男性版ね。  サムシングブルーは、隠れたところにつけるほうがいいってされているから、一石二鳥なのよ。  んで、残った右足のガーターをとっておいて、赤ちゃんが生まれたときにヘアバンドとしてつけてあげると、幸せになれるって言われているのよ? ほら、これこれ……」  ターニャは、のだめをウェディングガーターベルトのコーナーに連れて行く。  「ほわぉ……。のだめが想像してたのと違いマス……。  足にはめるだけなんデスね? レースでリボンとかパールとかついてて可愛いデス……」  「これいいじゃない? コットンのオフホワイトのレースに、ブルーのリボンと、中央についたブルーの小花には小さなパールまでついてて……、赤ちゃんがつけたら可愛いわよぉ、絶対!」  「で、でも生まれた赤ちゃんが男の子だったら……」  「まぁ……、一本ずつ売ってるから両足につけなくってもいいのよ?  でも私だったら両足につけて、女の子が産まれるまで産み続けるわね!」  「……てゆーか、のだめたちは二人っきりで挙式するから、ブーケトスもガータートスも必要ないのデスが……」 ------------------------------  一通り、結婚式のためのインナーを選び、せっかく来たのだからと、それぞれ普段の下着なども見てまわる。  「むきゃっ! ターニャってやっぱり下着も派手派手?  パープルのすけすけデスよ!」  「うーん……、私は洋服が派手な反動か、下着は白いコットンとかシンプルなのが好きなんだけど、ヤスが意外とエロいというか大人っぽいセクシー系が好きで……って、何いわせんのよ!」  のだめは、ターニャが手にしていた、パープルすけすけの、やたらと面積の小さいタンガを両手に持ち、広げて見る。  「ふぉぉ……黒木クン、こういうのが好きなんデスか。  武士も夜になると、暴れん坊将軍なんデスね……、痛っ! いたいデスよー、ターニャ……」  「ヤスに言ったら殺すわよ? チアキにも内緒だからね!」  「い、言いませんよぉ……」  「はぁ……、絶対言っちゃだめデスよ!≠ニか言って、チアキには筒抜けね……」 ------------------------------  「ターニャと黒木クンには、絶対言っちゃだめデスよ? のだめ殺されちゃいマスから……」  「じゃあ、言わなきゃいーじゃねーか……。  俺は別にターニャの下着とか、黒木君の下着の趣味のことなんか聞きたくねーんだけど……」  のだめは週末、イタリア入りした。  教会へ向かう車の中で、のだめはさっそくターニャとの買い物の報告をする。  「だってぇ……、夫婦の間に隠しゴトはだめデスもん。のだめ、夫にはなんでも話す、良妻なんデスよ?」  「そういうのは隠し事っていわねーんだよ……。  だったら、そのブライダルインナーとやら、ガーターベルトもつけて、今夜見せろよな?」  「それは駄目デス。結婚初夜までのお楽しみデスよ?」  「けちのだめ……」  「むっつり真一……」 ------------------------------  教会に到着する。  今日は、礼拝のあとに結婚式の予行練習もする予定だから、夜はシモーナの家に寄って、今度こそシモーナの手料理をいただくことになっていた。  礼拝の前にシモーナに挨拶だけしようと、牧師と挨拶しているシモーナに近づくと、その向かい側にいる日本人女性の顔を見て、俺はわが目を疑った。  「か、母さん?! 」  「ふぉ? 征子ママー!」  のだめが駆け寄って抱きつく。  「な、なんで母さんが……」  「のだめちゃんから、話を聞いたのよ。  一人息子を助けてくださった教会と恩人にお礼をしに行かなくっちゃと、いてもたってもいられなくなってね。  今、ちょうどシモーナさんともお話したところのなのよ。  今日のお食事会、私もご一緒させていただくことにしたから」  「ふぉぉ! 征子ママって、イタリア語もできるんデスか?」  「ええ、雅之さんと結婚していたころに、夫の役に立てばと思って、英・独・仏・伊……、あとスペイン語と中国語も少し」  「征子ママって、ほんと奥深いデスね……」 ------------------------------  俺たちは仕方なく、母さんと三人で着席した。  のだめと母さんは俺なんかお構いなしで、結婚準備のことで盛り上がっている。  「母さん、どこ泊まるんだよ、今日」  「ローマにホテルとってあるから。安心しなさいよ、あなたたちの邪魔はしないから」  「そ、そういう意味じゃぁ……」  「ぷっ! まったく、大好きなオモチャ取り上げられた子供みたいな顔して……。  こんなんじゃ、先が思いやられるわね」 ------------------------------  礼拝が終わり、牧師が出入り口で信者たちを見送る。  真一とのだめは信者席で、その様子を見るともなく眺めて、牧師を待つ。  征子と牧師が話し込んでいるのを、シモーナが少し離れたところで待っている。  話が終わり、シモーナと連れ立って帰っていく征子を、牧師はその姿が見えなくなるまで見送り、そっとため息をついてこちらに戻ってきた。  「……」「……」  心ここにあらず風な牧師は、真一とのだめのところに戻ってくると、しばらく呆然としたまま、通路を挟んだ並びの信者席に腰を下ろし、祭壇を見上げている。  「あ、あの……、牧師さま?」  「チアキ……、マダムセイコは今、お一人でいらっしゃるのですか?」  「はい……、私が十二歳の時に父親と離婚してからずっと一人ですが……」  「そうですか……。慈愛に満ちた、とても素敵な女性ですね。  あの……、どなたか心に決めた方がいらっしゃるのでしょうか?  それとも、別れたご主人のことを、まだ思い続けていらっしゃるのでしょうか?」  「さ、さぁ……。母とそのようなことについて話したことがないものですから……」  「あ、あの、牧師サマ? どしまシタ?」  「ああっ! 私はまだ神学を追究し、多くの信者を救わなければならないというのに、今私の心を占めているのは一人の女性の笑顔なのです。  神よ、罪深い私をお赦しください……」  「ぎゃぼん……牧師サマ、ふぉーりんらぶ?」  「……マジかよ……」  牧師腑抜け状態で、どうなる! のだめと真一の結婚式!(予行練習)  予想もしなかった展開に、呆然とする真一とのだめであった。  四十一  「牧師サマ、上の空でシタね……」  シモーナの家に向かう車の中で、のだめが呟く。  「そ、そんなことないだろ……」  いろいろ認めたくない真一は、現実から目をそらしているようだ。  はっきり言って、牧師は上の空だった。  「あなた方はお二人で挙式を希望されてますので、入場はお二人一緒にしていただくことになります……。  オルガン奏者は入りますが、それはよろしいですよね?」  「はい」  「音楽に合わせて、ゆっくりとお進みください。  こちらまでいらっしゃいましたら、賛美歌を斉唱いたします。  私がお話をしたあと、誓約をしていただいて……、指輪の交換、そして宣誓して退場……。  あの……本当にお二人だけで挙式されるのですか?  ご両親……、せめてマダムセイコだけでもお呼びしたらいかがですか?」  「は? いや……私の母だけ呼ぶのは、かえっておかしいですよ……」  「あああっ! そうですね、おっしゃる通りです……。  す、すみません……。今日の私はどうかしています。  申し訳ありませんが、リハーサルは改めて、来週にしていただけますか?」  「は、はい……。わかりました……」 ------------------------------  シモーナの家に到着すると、すでにシモーナ夫妻と征子は打ち解け、真一の幼い頃の話や、シモーナたちの息子の話などで盛り上がっているようだ。  「真一、夫婦のお手本はここにあるわ。ぜひ、シモーナたちを参考にしてちょうだい」  「まぁ、そんなこと……。セイコだって、女手一つで、シンイチをこんなに立派に育てたじゃない?」  「シモーナ……、それもこれも、ご主人があの時、真一を助けてくださったから……」  そういって、女性二人は見つめあい、抱きしめあうと、お互いを慰めるように泣き、背中を擦りあっている。  「よかったデスね……、真一クン」  のだめまで、女性二人の姿に、もらい泣きをしている。  「シンイチ、あっちでワインでも飲むか?」  同じくどうしていいのかわからないのだろう、シモーナの夫がキッチンから手招きをして、真一を救出した。 ------------------------------  イタリアのママンの味が食卓いっぱいに溢れた。  家庭的な南イタリアの料理が並び、どれも優しく素朴な味で、征子やのだめ、真一の舌まで唸らせた。  のだめはすごい食欲で、真一にはがっつき過ぎだと怒られたが、シモーナを喜ばせた。  食後、リビングに移動し、カプチーノを頂く。  「そうそう、明日は朝いちで出発するから、今のうちにのだめちゃんに渡しておくわ」  そういって、征子は美しいベルベッドで包まれた、大きなジュエリーケースを差し出す。  「これは……」  「私はあなた方の結婚式では何もお手伝いできないから、これをぜひ当日、のだめちゃんに身につけてほしいと思って……」  「ほわぉ……綺麗デス……」  「私の祖母から譲り受けたものよ? 祖母から母、母から私へ。三善家の女たちに受け継がれてゆくパールなの。  もしよかったら……」  「はいっ! アリガトゴザイマス!  ぜひ結婚式の日につけさせて頂きマスね?  あ、これでサムシングフォーの古いものがゲットできまシタから、あとは借りたものでクリアできマス!」  「サムシングボロウね……。私はだめね、失敗してるから」  「……ノダメ、あとは何が必要なの?」  シモーナがのだめに訊ねる。  「そうですねぇ……、ドレスとアクセサリーが揃いまシタから、あとは靴でしょうか?」  すると、シモーナはちょっと待っててね?≠ニリビングから消えると、なにやら箱を手にして戻ってきた。  「これ……。私が結婚式で履いた靴なの。  当日、一回だけ履いただけで、もし息子がお嫁さんを貰うようなことがあれば、譲りたいと思って、とっておいたのを忘れていたわ……。  どうかしら? 汚れはないんだけど、問題はサイズよね」  シモーナは、のだめの足元にしゃがみこむと、箱をあけ、のだめの足元に美しい純白のシルクにつつまれたシューズを差し出す。  「ほわぉ……サイズぴったりデス。のだめシンデレラ?」  真一を除いた三人が、のだめのとぼけた様子に大笑いしている。  「あ、あほかお前は……。ちょっと立ち上がって、歩いてみろよ?  結構ヒール高いぞ? 大丈夫か?」  「ぎゃぼっ!視界が高いデス……。  でも、本当にサイズはぴったりで、ヒールは高いですケド、すごく歩きやすいデス!」  「それくらいヒールがあったほうが、ドレスも引き立つわ。  もともと、真一とも二十センチくらい身長さがあるから、ちょうどいいわよ。  ほら、真一も立ち上がって、並んでごらんなさい?」  「まぁ……素敵よ、二人とも。ねぇ、あなた」  「ああ、当日、花嫁と花婿の衣装を着た二人を見られないのが、残念なくらいだな……」 ------------------------------  「ほわぉ……のだめ今日は竜宮城につれて来られた亀みたいデス!  ごちそうをたらふく頂いた上に、古いものと借り物をゲットして、サムシングフォーもクリアしまシタよ!」  「連れてこられたのは浦島太郎だけど……もうそんなことどうでもいいし。  なぁ、母さん、今日教会で牧師様と何話したんだ?」  一緒にローマまで帰るつもりだったが、盛り上がった女たちは別れが惜しいと、征子はシモーナの家に泊まることになった。  ローマに帰るのだめと真一を見送りに来た征子に、真一が先ほどから気になっていることを問いただす。  「何って……、二十五年前の出来事と、あなたが生死を彷徨った一 週間、雅之さんが教会に通ったこと、そのお礼に来たことなんか……。  それが何か?」  「いや……、別に。  ……明日はまっすぐローマに向かうのか?」  「何よぉ、いつも母さんの行動なんか気にしないくせに。  どういう風のふきまわし?」  「あー、それはデスね、今日、教会で牧師サマが……ふがふがっ!」  のだめの口を押さえ、羽交い絞めにしながら真一が答える。  「べ、別になんでもねーよ。  じゃ、俺たちは帰るから。気をつけて……。  いろいろありがとう。アクセサリーのこととか……」  「ふぅん……。なんだかあやしいけど、今日のところは勘弁してあげるわ。  じゃ、いろいろ頑張ってね」  征子はあっさりと息子と嫁に手を振ると、リビングで待つ新しい友人たちのもとへ戻っていった。 ------------------------------  「真一クン……、どして牧師サマのこと、征子ママに隠すんデスか?  やっぱり、ママに恋愛はしてほしくないんデスか?」  帰りの車の中、のだめはからかうように真一に言い放つ。  「な、なにが恋愛だよ……。  母さんだって一人の女なんだし、俺だってもう立派な大人なんだから、恋愛の一つや二つ、全然かまわねーけどっ!」  「そですよねぇ……。のだめには、あんなことやら、こんなことやら、いろいろやっちゃう真一クンなんデスから、人の恋路を邪魔するなんてこと、しないデスよねー」  「……帰ったら覚えとけよ」  「ぎゃぼっ!」  「はぁ……」  真一は、突然母にふりかかった色恋沙汰に、どんな反応をしていいのか戸惑い、憂鬱になるのだった。  四十二  ヴィエラ先生の奥様に紹介してもらって、さっそくローマ市内のジュエリーショップに真一とのだめはやって来ていた。  「お待ちしておりました、どうぞこちらへ」  上得意からの紹介だからか、さっそく個室へ通される。  「この度はおめでとうございます。それで、お式はいつで?」  「えと、三週間後なのデスが……」  「えっ、三ヶ月ではなく、三週間後で?」  「はい……なんかまずかったですか?」  店員は明らかに落胆の色を浮かべる。  「昨日、ヴィエラ様からご連絡をいただいて、お弟子さんと、NODAME 様のご結婚と伺い、デザイナーは昨日から徹夜でデザインを仕上げたところなんです。  オーダーメイドでは少なくとも二ヶ月はいただきませんと……」  「いや、レディメイドで十分ですよ。  コイツはピアニストですから、どうせ外してることのほうが多いでしょうし……」  真一の言葉に、弾かれたように店員は顔を上げ、熱心に語り出す。  「いけません! 私どもは音楽家の方から御依頼を多く受けますが、結局、外したままでつけなくなるですとか、なくしてしまうですとか、よくお聞きするんです。  宝飾業として、こんなに悲しいことはございません。  ぜひ、NODAME 様には、つけたままでも不自由なく演奏いただける指輪を、当店の威信をかけて! 作って差し上げたいと思っていたところなんです……」  「いや……お気持ちは有り難いのですが、挙式は決まってますし、もうレディメイドで……」  「店員サン! のだめはわかりマス、その職人魂!  ワカリマシタ、指輪ができるまでお待ちしまショウ!」  「NODAME さまっ!」  「店員サンっ!」  テーブルを挟み、熱く両手を握り締めあう二人。  「おい……」 ------------------------------  「え? 駄目デスか?」  「駄目にきまってんだろっ?! ここまでの道のりを考えろよ……」  「店員サン、ゴメンナサイ。  夫はのだめとの結婚をこれ以上待てないようデス……」  「おい、そんな事言ってねーだろ?  じゃあなにか? お前はまた結婚式が二ヶ月先送りになっても平気なのか?」  「そんなこと言ってないじゃないデスか! のだめは店員サンの職人魂に心を打たれたってんデスよ!  ケツの穴の小さか男たいっ!」  「なんだと? この変態女っ!」  ローマの一流ジュエリー店で、罵倒しあう真一とのだめに、思わず店員の制止が入る。  「だーーーーっ! お止めくださいっ!  かしこまりました……。  そもそもオーダーメイドでとお薦めしたのは私どもですから、三週間で仕上げましょう」 ------------------------------  とりあえず来週また来店し、その際に試作品を見せてもらうことになった。  今日は、指輪製作に必要なデータ集めをするという。  まず、それぞれ指のサイズを測り、のだめに至っては指輪のサイズだけではなく、関節までの長さや、指をまげたときのサイズ、角度まで測定し、店員の手元にあるノートパソコンにデータを入力してゆく。  続いて、のだめはピアノを弾くときの様々な手の形をとらされ、それをデザイナーがデジカメで撮影したり、細部については手早くスケッチしたりする。  その間に真一は、女性スタッフから、生活習慣について質問を受ける。  「NODAME 様は、家事は週にどのくらいされるのでしょうか?」  「い、いやぁ……まったく……」  「まぁ、お抱えのコックやメイドがいらっしゃるのですね?」  「ま、まぁそんなもんです……」  「ご趣味は? 例えばテニスですとか、絵を描かれたり、お裁縫ですとか……」  「趣味は……読書(ごろ太)、映画鑑賞(ごろ太)ですかね……、昔は絵も描いてましたけど(天国ジャンプ)最近はどうですかね……」  「絵は油絵ですとか、薬品などはお使いになります?」  「い、いやっ、そういう趣味はないです……とにかく、手を使うのはピアノを弾くだけですよ、アイツは……」  「まぁっ、素晴らしいですわっ! 全身全霊で音楽と向き合っていらっしゃるのですね。  だから、あのように素晴らしい演奏になるんですわ……」  「はぁ……」  俺はのだめお抱えのコックでメイドなのか……。  分かっていたことではあるが、改めて指摘され、軽く落ち込む。  「あの、チアキ様? ご気分でも悪いのですか?」  「いや、大丈夫です……」 ------------------------------  デザイナーからいくつかデザインを見せてもらい、のだめは大興奮だった。  次に来るときまでに、お互いに贈るメッセージを決めておいてほしいと頼まれ、店を出る。  「凄いデスね! のだめたちの結婚指輪のために、あんなに色々やってくれて、どんな指輪ができるか楽しみデス!  のだめ、結婚式で真一クンに指輪をはめてもらったら、もう一生はずしまセン! 骨壷にも一緒に入れてくだサイね!」  「はぁ、縁起でもねーこと言うな……」 ------------------------------  翌週、のだめは空港に到着するやいなや、真っ先に指輪を見に行こうという。  「荷物くらいおいてから……」  「大丈夫デスよー、たいした荷物があるわけでもないんデスから。  それよりのだめは早く指輪が見たいんデス!」  店に到着すると、さっそく個室に通され、店員が誇らしげな表情でベルベットのトレイを運んできた。  「お待ちしておりました、さっそく試作品をご覧ください」  トレイの上には銀色のリングが一組、乗せられている。  「まず、何もおっしゃらず、こちらを試してみてください。」  店員は女性用のリングをのだめに渡し、真一にもペアのリングを渡す。  お互い左手の薬指に嵌めてみる。  「か、軽い……」  「ほわぉ……何もつけてないみたいデス……」  リングの表面は艶消しになっており、指に嵌めていても嫌みのないデザイン。  これなら、舞台での演奏中もライトに反射しないから、演奏する本人も、観客も気をとられることがないだろう。  「これ……プラチナですか?」  「いいえ、チタンでございます」  「「チタン?」」  「はい。チタンは強度、耐蝕性ともプラチナやゴールドと同等ですが、これまで加工の難しさからアクセサリーとして使われることがありませんでした。  しかし技術の進歩により加工が可能になり、貴金属として注目され始めた、新しい素材でございます。  お二人のように、これから音楽界を背負って立たれる新しい世代の方にぴったりの素材だと思い、選ばせていただきました。  プラチナの希少性や、ゴールドの輝きはありませんが、チタンの魅力はなんといってもその軽さです。十分な強度を持ちつつ、プラチナの4分の一の重さ、それゆえ、他の金属より身体に優しいのです。  ピアニストであるNODAME 様にはぴったりの素材だと思います」  「ほわぉ……」  「デザインですが、指に触れる内側は丸く仕上げておりますので、指の曲げや物を握ったときにも違和感なく、指に馴染みます。  外側は、NODAME 様が指を動かす際に違和感を感じられないよう、できるだけ指の形にそって、平らに仕上げてあります。  強度を考慮しつつ、可能な限り細く、薄く、軽く、自然な付け心地にこだわっております」  店員は満足気に説明をすると、のだめと真一にリングをはずさせ、その二つのリングを縦に重ねる。  「こちらをご覧いただけますか?」  「あ、これは……」  リングの表面に彫り込まれた細いライン。のだめのリング中央に一本、真一のリング中央にも一本。二つのリングを重ねると、上下、中央と合わせて五本のラインが浮かび上がる。  「お二人のリングを重ねると、五線譜が現れます。結婚生活で、素晴らしい音楽を奏でていただくように、真っ白な五線譜をイメージいたしました。いかがですか?」  「シンプルで……、それでいて自分達らしさもある、素晴らしいデザインだと思います」  「のだめは……、とにかく指に嵌めていることを忘れてしまうくらい、軽くて指にフィットしていて……、早くこれをつけてピアノを弾いてみたいデス!」  「大満足だよな?」  「はいっ!」  店員は心からうれしそうに笑顔を浮かべる。  「喜んでいただけて、デザイナーも職人もさぞ喜ぶかと存じます。それでは、こちらのデザインで進めさせていただきます」  その後、リングをつけた状態で、デザイナーがのだめに指を動かさせて細かくチェックをし、それぞれに贈るメッセージを紙に書き込む。  「なんて書いたんだ?」  「それは出来上がってのお楽しみデス。真一クンは?」  「……内緒」 ------------------------------  ヴィエラ先生から借りた車で、教会へ向かう。  「サムシングフォーも、結婚指輪も用意できたし、あとはお引っ越しだけ?」  「そうだな。  ヴィエラ先生からは、今日、教会で礼拝とリハーサルが終わったら、そのままパリに帰れって言われた。  式の後も最低でも一ヶ月はパリにいろって……」  「むきゃ? じゃあ、しばらく真一クンと一緒デスね?」  「うん……不満?」  「そんなわけないじゃないデスかー。真一クンは?」  「……うん、そんなわけないし。  なぁ、どっか旅行とか行きたいか?」  「はぅん……のだめは……真一クンと一緒にいられればどこでもいいデス。  新居にずっとこもりっきりでもいいデスよ?」  「……それもいいか?」  「新居で一ヶ月ラブラブデスね。ゲハ」  「結婚式当日はホテルに泊まるとして……前日はどうするかだな。」  「そうデスねぇ……」  砂糖菓子のように甘い二人を乗せて、車は教会へ向かった。  結婚式まで、あと二週間。  四十三  教会での礼拝とリハーサルが終わり、シモーナの家に寄った。  今日、これから二人でパリに戻ることを伝え、これまでのお礼と、また挙式が終わり落ち着いたら挨拶に伺うと伝える。  「まぁ、じゃあ結婚式まではパリで過ごすのね」  「ええ、引っ越しも新居の準備も、まだ何も手付かずで……」  「こちらに来るのは前日? マエストロ・ヴィエラのお宅に二人で泊まるのかしら?」  「それが、まだ何も決めてなくて……」  「ねぇ……だったら、のだめは家に泊まりにこない?  ブライダルシャワーをしましょう!  結婚式の前日くらい、別々に過ごすのもいいと思うわ。女性は女性同士、男性は男性同士で」  「ほわぉ、それもいいデスね?」  「えっ!」  「じゃあシモーナ、お言葉に甘えてお邪魔してもいいデスか?  真一クンは、当日のだめを迎えに来て下サイ」  「え? お、俺はどうすれば……」  「ホテルでも、ヴィエラ先生のところでもいいんじゃないデスか?  のだめはどこでも構わないデスよ? 浮気さえしなければ」  「するわけねーだろっ!」  「まぁ、シンイチは誠実ね、安心したわ。  ああ、うれしいわ。なんだか娘が嫁ぐのを送り出すみたいで。  いろいろお話し聞かせてね、ノダメ」  「ワカリマシタ、のだめと真一クンの愛の軌跡をお聞かせしマス!」  「楽しみだわ〜!」  「おい、へんなこと言うなよ?」  「へんな事ってなんデスか?」  「……はぁ……」  「それより……心配なのはアラン牧師ね……。  まあ、以前から考え事で頭がいっぱいになっちゃうと、曜日を間違えて礼拝に現れなかったり、結婚式とお葬式を間違えてしまったりあったけど。  でも、アラン牧師の説教が始まるとねぇ、それはそれは立派なものだから、信者はみんな、牧師のちょっとした失敗なんて気にならなくなってしまうのよね。  それが、今日は説教もどこか上の空というか……。  シンイチたちの結婚式のリハーサルはどうだった? 大丈夫だった?」  「はぁ……大丈夫というかなんというか……」 ------------------------------  一通り、心ここにあらずなアラン牧師からのリハーサルが終わると、牧師は当日の予定などを簡単に説明し、結婚式まで心穏やかに、家族や友人と過ごしてくださいと言うと、そっとため息をついた。  「あのぉ……牧師サマ、何か心配事でもあるのデスか?」   「ああ! 申し訳ありません、大丈夫です、何も問題はありません……」  そう答えたものの、とても大丈夫とは思えない牧師の様子に、のだめは黙っていられない。  「とても大丈夫とは思えまセンよ?  神学の問題であれば、のだめにはお手上げですが、人間の問題ならお役に立てるかもしれまセン。  もしよかったら、のだめに話してみまセンか?」  「おい……失礼だぞ」  「いえ……、失礼などということはありませんよ。  神学を学び、神の教えを説く牧師という道を進んではおりますが、きっと人としての私は、お二人に比べるとまだまだ未熟でしょう……。  ノダメさん、もしよければ私の悩みを聞いていただけますか?」 ------------------------------  牧師は、真一とのだめを牧師館へと招いた。簡素な、書斎と居間を兼用した一室に通され、お茶をいただく。  「私には、神学生時代に結婚を約束した女性がいました。彼女は普通の大学に通う学生で、しかしカトリック教徒でした。  彼女は私のために改宗すると言ってくれましたが、両親や家族、特に父親はそのようなことは絶対に認めないと、彼女に私との交際をやめなければ縁を切ると迫ったのです」  「がぼん……ロメオとジュリエット……」  「彼女は家族思いの優しい女性ですから、とても悩み、苦しみぬいて、私に別れを告げました。  私も、その気持ちを受け入れ、自分の一生は神学に捧げ、牧師になる前のただ一人の人間だった自分は彼女一人を愛し続け、彼女の幸福を祈り続けようと心に誓ったのです」  「はぅぅ……」  「ところが……、先日、チアキのお母様であるマダムセイコを見た瞬間、私の心は囚われてしまったようなのです。マダムセイコの笑顔は、彼女の笑顔を私に思い出させるのです……。  一度お会いしただけで、一人の女性に心奪われてしまうなど、牧師としてあってはならないこと。ましてや、私は学生時代のフィアンセを愛し続けると誓ったはずなのに。自分の未熟さがいやでたまりません。  マダムセイコのことは考えないよう、忘れてしまおうとこの一週間努力いたしましたが、そう思えば思うほど、むしろそのことばかりを考えている自分がいて……。そんな自分が歯痒いのです」  牧師の告白を聞き終わると、のだめはきっぱりと言った。  「牧師サマのやっていらっしゃることは、間違っていマス」  「おい……」  止めようとする真一に、牧師は大丈夫と目配せをし、のだめに話を続けさせる。  「きっと牧師サマの今の気持ちは恋でショ?  恋は考えないようにしようとか、恋しちゃいけないとか、思えば思うほど思いは募るものなんデス。  ね? 真一クンなら牧師サマの気持ち、よくわかるデショ?」  真一は、のだめへの気持ちに気付いた当時のことを思い出していた。  もしかすると恋なのかもと思いつつ、そんな馬鹿なことと否定したがる気持ち、変化を嫌い安定を求める気持ちが前に出れば出るほど、抑え切れなくなる恋心、浮かび上がってくる自らの本当の気持ち。  だからって、自分と大して年の変わらない、しかも外国人の牧師が自分の母親に恋しているなんて……。  「牧師サマ、思い切ってその気持ち、征子ママに伝えてみればいいんデスよー」  「「えっ……」」  のだめからの思いがけないアドバイスに、牧師も真一も驚かされ、言葉がでない。  「人生、あたって砕けろデス!」  牧師は、若い二人を見送りながら、気持ちを伝えるにも、またお会いすることはできるのだろうか?≠ニ、また新たな悩みの種を抱え、つきせぬ思いに心を痛めるのであった。 ------------------------------  真一は、シモーナの家から戻る車の中で、母親と牧師のことを考えていた。  「牧師に告白しろと勧めるなんて、お前、何考えてんだ? ってか、何も考えてねーのか?」  「……のだめは、胸の中にあるものは吐き出さないと、溜まっていくばかりで消えはしないと言っただけデス。  別に、牧師サマをたきつけたわけじゃないデスよ?」  「……吐き出すと解決するのかよ?」  「きっとたぶん。征子ママが何とかしてくれるデショ?」  「なんだよそれ……」  「真一クンは、征子ママを見くびってるんデスか?  大丈夫、なにもかも上手くいきマス!」  「はぁ……何を根拠に……」 ------------------------------  パリに帰ってきた。そして、挙式の数日を除いて、しばらくとどまることになる。挙式が済んだら、自分たちは新しい場所で再スタートするのだ。  お互いにまずは自分のアパルトマンに戻る。一週間後には新しい家に荷物をすべて運び終えようと思っているが、のだめの部屋がどんなことになるか……。  真一の部屋は日ごろから整理整頓されているから、毎日少しずつでも荷造りしていけば問題ないが……。  「はぁ……とりあえず、明日はアイツの部屋を片付けにいくか……」  真一は、まずは人のことより自分のことと、気持ちを切り替えることにし、つかれきった体をベッドに預け、眠りについた。  四十四  久しぶりに、真一はパリの自宅で目を覚ました。  キッチンで簡単な朝食をとりながら、今日の予定を立てる。  午前中、洗濯や溜まっている雑用を片付けて、午後からはのだめのアパルトマンに様子を見に行こう。  そろそろ和食が恋しい頃だろうと、洗濯機を回しながらのだめのために料理をする。きっとアイツのキッチンは料理ができる状態にはないだろうから。  できあがった料理をタッパーに詰めながら、のだめの喜ぶ顔を思い浮かべ、こころがほっこり温かくなる真一であった。 ------------------------------  のだめのアパルトマンに到着すると、ピアノの音も聞こえず、ひっそりと静まりかえっている。  「まだ寝てる……ってことはないよな?」  ドアノブに手をかけると、施錠されていないドアは静かに開いた。  いつものように乱雑なベッドルームに入るが、ベッドはもぬけの殻でのだめは見あたらない。  リビングへと続くドアを開けながら、真一は声をかけてみる。  「おい、のだめ? いないのか?」  「うっ……うううっ……」  のだめはいた。  いつも以上に散かったリビングには、大量のダンボール。  引越しの荷造り(?)をしようと努力した形跡が見受けられるが、逆に大量のがらくたがリビングいっぱいに広がり、収集がつかない状態に陥っていた。  のだめは、大量のダンボールの中央に体が埋まった状態で、何かを手に取り……泣いてる?  「……のだめ?どうした?」  「ぎゃぼっ! し、真一クンっ! れ、レディーの部屋に無断で入ってくるなんて、失礼デスよ!」  のだめは、真一の登場に大慌てで、手にしていたものを目の前のダンボールにつっこむと、ダンボールごと身体で覆い、真一の目から隠そうとしているようだ。  「無断……て、いつもそうじゃねーか。  てゆーか、その隠そうとしているものはなんだ?  後ろめたさがみえみえじゃねーか……」  真一は、あたり一面のダンボールを蹴り進みながら、のだめに近づく。  「むっきゃーーーー! な、なんでもないデスよ! 真一クン、こっちこないでくだサイ!」  ダンボールを自分の背中で隠し、真一の侵入を拒もうとするのだめに、真一は容赦なく詰め寄り、ダンボールからのだめをひっぱがした。  「はぁ……お前はまだこんなものを……」  あきれて言葉を失う真一の目の前には、佐賀海苔≠ニかかれたダンボール。マル秘≠ニみそ字と同じ書体でかかれたその中身は、のだめのいうところの真一クンコレクション  千秋指揮服一式、ガラス瓶いっぱいの吸殻、真空パックされたワイシャツ(五セット)、歯ブラシ、ボタン、etc……。  そして、のだめが先ほどまで手にしていたのは……写真?  「ぎゃぼーーーーっ! のだめのものに勝手に触らないでくだサイよ!」  「全部俺のもんだろうがっ!」  確かに(笑)  のだめの抵抗むなしく、真一は写真の束を奪い取る。  しかし、写真を見たとたん、その美しい顔がみるみる青ざめていく。  「お、おい……これはなん……だ?  いつ、どこで、だれが撮ったんだ……」  真一の手に収まるのは、真一とさまざまな人種の女性たちが写った写真が数点。  指揮コンで優勝したあと、シュトレーゼマンの演奏旅行に同行していた際、シュトレーゼマンがのだめに送りつけたものだが、真一が目にするのは初めてのことであった。  「ひっくっ……の、のだめだって知りまセンよ!  これを受け取ったときは、のだめ悲しくて悲しくて……人生で八番目くらいに辛い時期でシタ……」  「ずいぶん中途半端な位置づけだな……」  「うぇっ、の、のだめ思い出しまシタ。真一クンは、浮気者デス!  こんな浮気者とは、のだめ結婚できまセン!うわぁーーーーんっ!」  のだめは、涙でぐちゃぐちゃになった顔を両手で覆い、そのために視界がきかない状態で、ダンボールを蹴散らしながら、大暴れでベッドルームに飛び込むと、ベッドに身を投げ出し、おいおいと泣き出した。  「はぁ……」 ------------------------------  真一は写真を手にしたまま、のだめの後を追い、こんもりと盛り上がったブランケットの横に腰をかけると、のだめらしき塊の上に覆いかぶさり、優しく声を掛ける。  「……俺は浮気なんかしたことないぞ?  だいたい……、この写真、お前と付き合う前じゃねーか……」  がばっ!  真一の言葉に反応した塊がいきなり起き上がり、真一の顎にヒットした。  「いたっ!」  涙まみれののだめの顔が真一を睨みつける。  「だって! 真一クン、言ったじゃないデスか!」  真一は、痛む顎を撫でながら、のだめを刺激しないように、小さな声でささやく。  「いつ? 俺が何を言ったんだ?」  「あの日……、のだめがバージンを真一クンに捧げた日デス……。  真一クン、言いました。  この、ルビーのネックレスを右手に絡めて、左手でのだめの頬を撫でながら、このネックレスは上海で買ったんだ。俺はきっとあの時すでに、お前のことが好きだったんだな……≠チて!  そういって、真一クンの綺麗な顔がのだめの顔に近づいてきたカラ、のだめはまたドキドキしちゃって、いつもみたいに目をぎゅっと閉じちゃったんデス……。  そうしたら、のだめの頬を撫でていた真一クンの手が、どんどん下のほうに下がっていって、真一クンのえっちな手がのだめのおっぱ「だーーーーーっ! わかってるから! 覚えてるから、いちいち言うなっ!」」 ------------------------------  「真一クンは、付き合ってないからって、好きな女の子がいるのに、他の女性とも……。やっぱり浮気者デスっ!」  「はぁ……だから浮気なんかしてねーって」  のだめは真一の手から写真を奪いとると、ひるまず問いただす。  ※注:以下、コミック一一巻、巻末の千秋修行記を参照ください。  「じゃあこれはなんデスかっ! こんな巨乳のお姉さんと、身体を密着させて……」  「こ、これはスペイン音楽を学ぶためにだな……、フラメンコを踊ってるだけじゃねーか……」  「じゃ、じゃあこれはなんデスかっ! 胸元なんてはだけちゃって、札束なんか挟み込んでホストみたいじゃないデスかっ!」  「はぁ……俺ベロベロで、意識喪失状態じゃねーか……。どうせ、ジジィの仕業だろ……」  「じゃ、じゃあこれはっ! 明らかにベッドに連れ込まれて、襲われる直前じゃないデスか!  真一クン、色気ダダ漏れデスよ? キスまで五秒前状態じゃないデスか……」  「こ、これは……(記憶にねえ!)」  明らかに狼狽した真一に、のだめの瞳は怒りに揺れる。  「や、やっぱり……。  うわぁーーーーーーんっ! 真一クンの浮気者っ!  婚約破棄デスっ!雅之パパの血を受け継いだ女にだらしない真一クンとは結婚できまセン!」  「はぁ……、いまさらなんだよ、しかも親父のことなんか……。  だいたい、この段階で解決してたんじゃねーのかよ……」 ------------------------------  真一は、面倒なことになったと少しのだめを持て余しながらも、これがコイツに唯一きたマリッジブルーというやつかもしれないと諦め、ここは根気よくうまいこと切り抜けようと覚悟を決めた。  のだめを優しく抱きしめる。  「ぎゃぼっ! の、のだめ、いつもみたいに騙されまセンよ?」  「俺はお前を騙したことなんかないぞ? 人聞き悪いこというな。  とにかく俺はお前を一度たりとも裏切ったことなんかない。  だいたい、お前以外に……その……そういう気分になんかならねーんだから……」  「じゃあっ、この写真はなんなんデスか?」  「はぁ……そういう状況だったとしたら、誰が撮影してんだよ」  「はっ! 三Pデスかっ! 痛っ!」  「あ、アホなこと言うな……。  どうせ、泥酔して寝ているところを、ジジィが女に協力させて、それっぽく写るように撮影したんだろ?」  真一は、のだめの頬を両手で包み込み、のだめの目をまっすぐに見つめると、ゆっくりとささやく。  「俺は、お前の悲愴≠聞いてから、もう心は囚われていたんだ。  いろいろ抵抗して、自分の気持ちに気づくのには時間がかかったけど……。  今はお前のピアノにも、お前自身にも、俺は完全に囚われてるから……。だから変な心配なんてするな」  「ほわぁ……。真一クン、ルビーみたいに真っ赤デス……」  「……うるさい……」  そういって、初めての時と同じように初々しい表情で自分を見つめるのだめの瞳を閉じさせるために、その美しい顔をゆっくりと近づけていくと、のだめの瞳はゆっくりとまつげを震えさせながら閉じ、真一のくちびるを受け入れていく。  「のだめは……ずっと真一クンだけのものデスよ……」  真一はのだめの身体をベッドに押し倒すと、涙でぬれた顔をやさしく撫でながら、優しいキスの雨を降らせる。  「俺もずっと、お前のものだから……」  「真一クン……お部屋の片付けしなくちゃ……」  「後で俺が手伝ってやるから……」  真一は、のだめの鎖骨に埋まっているルビーに優しくキスをすると、のだめの首筋をくちびるで辿りはじめる。  「もう……真一クンのえっち……」  「お前が悪いんだろ? あんなものひっぱりだして、変なこと言い出すから……。  もう諦めろ……」  「あんっ……」 ------------------------------  「のだめ、お腹すきまシタ……」  突然のアクシデントで、何故か午後の日の高いうちから、生まれたままの姿でベッドの中にいるのだめと真一。  心地よいまどろみから覚醒すれば、のだめがまず要求するのは食事のこと。  「はぁ……、少しは余韻というものを考えろよ……」  「真一クン、のだめたちにそんな時間はありまセンよ!  やることをやったら、しっかり腹ごしらえをして、結婚式に向けて突き進むしかありまセン!」  のだめはブランケットを身体に巻きつけ、こぶしを強く握り締め叫ぶ。  「さ、真一クン? 今日のお昼ごはんはなんデスか?」  「はぁぁ……」  真一はベッドから起き上がり服を身につけると、せめて食事をつくって持ってきたのは正解だったと、妻の食欲を満たすため、キッチンへと向かった。  ごはん〜、美味しい真一クンのごは〜ん♪とご機嫌なのだめの歌をBGMにランチを準備しながら、真一はふと、先ほどの写真を思い出していた。  最後に見せられたあの、横たわる自分にのしかかるブロンドの女性。  なぜかうっすらと浮かび上がる残像は、自分の頬を優しく撫でるブロンドの美しい髪、眩しいほど白い肌を這う、自分の指先……。  俺、やっちまったのか?  突然、蘇ってきた記憶のかけら。  わ、忘れよう……。墓場まで持っていくぞ、千秋真一。  そして、旅先での飲みすぎは注意しなければと、心に誓う真一であった。  四十五  結局、真一は三日間、のだめのアパルトパンに泊まり込んで、ガラクタと格闘した。  楽譜や衣類、生活用品以外の持ち物は、ほぼごろ太関連グッズで、そのほかの真一にはまったく価値の見いだせないガラクタはすべて捨ててしまいたかった。  しかし、こっそり捨てようとしても、のだめが動物的嗅覚(?)で気付いてしまい、阻止されてしまう。  さすがに真一コレクションの吸い殻やら歯ブラシなどについては、のだめが泣いて懇願しても断固として捨てた。  「のだめ、これはガラクタですらない、ゴミなんだぞ?  もし俺たちに子供ができて、これが何かと聞かれて、お前はなんて答えるんだ?」  「ママの宝物だって答えマスよ!」  「……」 ------------------------------  のだめのアパルトマンの荷物をすべて運び出した。  あとはピアノを業者に運んでもらえば終了だ。  「この部屋、こんなに広かったんデスね……」  「そうよー、メグミが入ってからは、なんだか手狭になったような気がしたけど……、物(ガラクタ)が多かったってことよね(ぼそっ)」  アンナが、様子を見に来ていた。  「まさか、メグミがこの部屋からお嫁に行くとはねぇ……、四年前には想像できなかったけど」  意味深な目線を真一に投げかけ、感慨深げにつぶやく。  「あの小さな男の子だったシンイチがねぇ……私も年をとるわけよね」 ------------------------------  アンナやムッシュー長田に別れを告げ、のだめは色々思い出すのか、二人に抱きつき、おいおいと泣いた。  「おい、同じパリの中で引っ越すだけだろ? またちょくちょく遊びにくればいいんだから……」  「私も二人の新居に遊びに行くわ。だから、そんなに泣かないで……」  「ひっく、のだめにとって、アンナとムッシューはっ、ひっく、パリの父と母なんデスっ! うわわぁーーーーんっ!」  泣きながら車に乗り込み、走り出してからも見えなくなるまで、のだめはアパルトマンに手を振り続けた。 ------------------------------  真一のアパルトマンに二人で戻る。  すでにある程度まとめてある荷物を、のだめにも手伝わせて荷造りするが、まだ感傷にひたっているようで、ぐずぐずと鼻をすすりながらのろのろと作業をするので、まったく役にたたない。  まだマリッジブルー継続中なのか?  なんとか真一の部屋の荷造りも終わり、ピアノ以外のすべての荷物が新居に運び込まれた。  今日から一週間、挙式まで新居で過ごすことになる。  「……真一クンと、初めて離れて暮らすことになった、このアパルトマンともお別れデスね。  三善のアパルトマンにも、この真一クンのアパルトマンにも、思い出がいっぱいあって……離れがたいデス……」  「……そうだな。お前も俺もこの四年間はいろいろあったな……」  のだめは別れを惜しむように、部屋をぐるりと見渡し、ふぅっと息を吐き出すと真一の背中に抱きつく。  「……真一クン、これから何があっても、ずっと一緒デスよ?  のだめ、離れまセンからね……」  真一は、腰に回されたのだめの両手に自分の手を重ねる。  「当たり前だろ?  また逃げたら、捕まえにいくからな……」  「……はい……」  真一のアパルトマンのバルコニーに面した大きな窓の前に立ち、しばらく二人は無言のまま、お互いの体温を感じて、窓からの景色を眺めていた。 ------------------------------  新居での生活が始まった。  といっても、しばらくは荷物を解いたり、徹底的な掃除が必要な場所があったりで、ばたばたと過ごす。  一通りのクリーニングと荷解きが終わると、カーテンやクッション、ラグなど買い足しが必要なものをピックアップして、インテリアショップをまわる。  ショッピングに出れば、のだめは数日前までのマリッジブルーもすっかり解消したようで、はしゃぎまくっている。  「なんだか新婚サンみたいデスね?  あ、真一クンっ! このフリフリのメイドみたいなエプロン、のだめに買ってくだサイ!」  「みたいじゃなくて、新婚だろーが。  お前にエプロンって何に使うんだよ?」  「はうん……のだめ新妻デスね?  じゃあ新妻プレイに使いまショウ! ねぇ、あなた(はぁと)」  「……」  真一が、ついでだからと言い訳をして購入したエプロンが、その後どのように使われたのかは、また別のお話で……。 ------------------------------  少しずつ、若い夫婦の住まいらしく、色鮮やかになってきた新居に、いよいよピアノが二台運び込まれた。  「やぁ、お久しぶり」  「ど、どーも……」  「結婚だって? おめでとう!」  「あ、ありがとう。コイツ、妻の恵です。  ピアニストなんで、これからいろいろ世話になると……」  「もちろん知ってるよ! NODAME だろ?お会いできて光栄です」  「は、はじめまして、のだめデス……よろしくお願いしマス」  「いや、はじめましてじゃないよ?」  「「えっ!」」  「だって……あの時の女の子だろ?」  そう言って、意味深な微笑みを浮かべ、調律師はピアノに向かうと、ノクターンを奏でる。  真一とのだめは、三善のアパルトマンでこのノクターンを聴いた状況を思い出し、二人揃って顔を真っ赤にして固まっている。  「いやぁ、色々あったけど、よかったよね!」  「……あ、ありがとう……」 ------------------------------  「真一クン、リクエストは?」  「……じゃあ悲愴で」  のだめは、にっこりと微笑み、ピアノに向き直ると、静かに目を閉じ呼吸を整え、ピアノを奏ではじめる。  もしも、あの満月の夜、真一がのだめに拾われなかったら?  もしも、あの時、のだめが悲愴を弾かなかったら?  もしも、二人の部屋が隣同士でなかったら?  もしも、二人がピアノを連弾しなかったら?  もしも……。  きっと二人が出会うのは、宇宙の法則だったから。  もしも……が一つ欠けたとしても、きっとどこかで二人は出会って、恋に落ちていたに違いないから。  のだめの奏でるピアノは、悲惨≠ゥら悲愴≠ノ進化したけれど、それは紛れもなく、のだめの奏でる悲愴であって、真一だけに深く、強く、響いて揺さぶり続ける、特別な音だから。  のだめの優しい音のつぶが部屋中に溢れて、室内が息づきはじめる。  ずっと一緒デス……  また二人で、新しい場所で、一緒に歩き始める。  二人で作り上げる、二人だけの音楽に包まれて。  結婚式まで、あと一週間。  四十六  結婚式までの一週間は、ここ三ヶ月の出来事が嘘のように、穏やかで静かな一週間だった。  ヒューストンでのプロポーズ。イタリアであの街に出会って教会通いをすることになって……。挙式するためだけに出会ったと思っていたこの街に、自分の幼いころのトラウマの秘密だとか、父親の思いが隠されていたなんて思いもせず……。  一気に自分のアイデンティティが崩壊するかのような真実を突きつけられて、それでもそばにのだめがいてくれたから、俺は新生千秋真一≠ニして、また歩き出している。  イタリアに向かうための荷物をまとめながら、ヨーコが作ってくれた白い衣装≠目の当たりにし、俺は早くも後悔をしはじめていた。  「なぁ……、俺、本当にこの真っ白なモン、着るのか?」  「……当たり前デショ? なにびびってんデスか。  のだめと二人っきりなんデスから、覚悟きめろってんデスよ!」  「……はぁ」  のだめはいつものように、風呂敷に挙式のためのドレスやらを包み込み、準備万端と仁王立ちで俺を睨みつける。  「さぁ、結婚式デスよ!  とっとと支度して、イタリアへ出発デス!!!」 ------------------------------  イタリアに到着した。  まずはジュエリーショップに立ち寄り、結婚指輪を受け取る。  「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」  いつものように個室に通され少し待たされると、店員がうやうやしくベルベットのトレイを手に部屋に入ってきた。  「NODAME 様の指に合わせて、少し調整をしたのち、メッセージを刻印いたしました。日付は明日になっております。ご確認ください」  「ほわぉ……」  艶消しとはいえ、磨かれたリングは、前回目にしたものよりも、素朴ではあるが美しく鈍い光を放っていた。  真一とのだめはまずお互いのリングに刻印されたメッセージを確認し、間違いがないことを確かめると、照れ隠しをするようにぎこちない微笑みを浮かべ、リングを交換する。  「……真一クンもフランス語デスね?」  「……うん……」  「はぅん……Tu es tout pour moi……」  「ば、ばかっ! 読み上げんなっ!」  「いたっ! 痛いデスよ……。イタリア人なんだから、真一クンの愛ダダ漏れのフランス語なんか、わかんないデショ?」  「……お前のは、予想通りだな……」  「……真一クンのは……はぅん……予想以上デス……」  のだめから真一に贈られたメッセージはJe vous suis attache(ずっと一緒デス)  真一からのだめに贈られたメッセージはTu es tout pour moi(君は僕のすべて)  「問題はございませんでしょうか?」  「「Bravo!」」  店員は、二人のリングをベルベットのボックスにおさめると、一回り小さなボックスを二つ、二人の前に差し出した。  「これは私どもから、お二人へのお祝いでございます。ぜひ、お納めください」  「え?」  ためらう二人に、店員は笑顔でボックスを開けてみるようにとジェスチャーをする。  「うわ……」「ほわぉ……」  「チタンのシンプルなリングだけでは、私ども宝飾業者としては少し物足りなかったものですから、勝手ながらこのようなものをお作りいたしました。  NODAME様には、結婚指輪に重ねづけしていただけるダイヤモンドリングを、チアキ様にはネクタイピンを。  ぜひ、記念日などに身につけていただけると幸いです」  のだめのリングは、小粒だがダイヤモンドがぐるっと一周まわされたフルエタニティとなっていて、その中央にはト音記号をかたどったモチーフがやはりメレダイヤをちりばめられてきらきらと輝き、ト音記号の中央にはかわいいルビーが一粒、輝いている。結婚指輪と重ねづけをすると、その上にト音記号が重なるようにデザインされているようだ。  「NODAME 様の身につけていらっしゃるネックレスや、エンゲージリングにルビーを拝見したものですから、ルビーにはきっとお二人の思いいれがおありかと存じましたので……」  真一に贈られたのは、タクトをモチーフにしたシンプルなネクタイピン。ホワイトゴールドのシャープな輝きに、タクトの持ち手部分には小粒ながらダイヤが埋め込まれて、煌きをたたえている。  「男性がさりげなく、小粒でもクオリティの高いダイヤを身につけられるのは、とてもセクシーかと存じます。  人によっては厭味になったりいたしますが、チアキ様のような男性が身につけられると、とてもお似合いかと存じまして……」  「こんな……高価なもの、とても頂くわけには……」  「いえいえ、私どもの上得意であるヴィエラ様のお弟子さんご夫婦ですから、当然のこと。ぜひ、気持ちよくお納めください。  お二人との出会いで、チタンという初めての素材にチャレンジする貴重な機会をいただきましたし、NODAME 様という素晴らしいピアニストの指を飾らせていただくことは光栄の極みでございます。  私どもの願いは、ただ一つ。その指輪とともに、お二人が末永く幸せに過ごしていただくことだけです」 ------------------------------  店員総出で見送られ、店を出る。  「さてと……、ではのだめはそろそろ、シモーナの家に向かいマスね?」  「なぁ……お前本当に、今日は一人で行っちゃうのか?」  「……そデスよ? 何か問題でも?」  「べ、べつに……」  「……Tu es tout pour moi……ぷぷ、寂しいデスか? たった一晩デスよ?」  「ばっ、ばかなこと言ってんじゃねーよ。  お前こそ、Je vous suis attacheじゃねーのかよ……」  のだめは、首から風呂敷包みを背負い、手にしていたバッグを足元に置くと、優しく真一を抱きしめた。  「Je vous suis attache……デス。明日からは……」  「……うん……」  「キス……しときマスか?」  「……いい。明日までとっておく」  のだめは満面の笑みで真一を見つめると、じゃあ行きますね、明日の朝、シモーナの家まで迎えに来てくだサイ!≠ニ言うと、あっさりと真一を放し、バッグを手にすると、ちょうど滑り込んできたタクシーを指笛で停車させる。  「それじゃ、真一クン、明日デス! Ciao!」  のだめはタクシーに乗り込み、一度真一を振り返り手を振ると、あっけなく去っていった。  「はぁぁ……」  ローマの街中で、挙式を明日に控えた花婿とは思えないほど、寂しげな千秋真一は一人、とぼとぼとホテルに向かった。  四十七  のだめを乗せたタクシーがシモーナの家に到着した。  呼び鈴を鳴らし、ドアが開かれる。  「Buon giorno!」  「いらっしゃいっ! 待ってたわよ〜!」  「ふぉ? ふぉぉぉーーーっ!」 ------------------------------  「ちぇっ、なにが女同士のブライダルシャワーだよ。  俺にどうしろっていうんだよ、一人でつまんねーんだよっ!」  一人寂しくホテルにチェックインした真一は、シングルルームのこじんまりとしたベッドに、その大きな身体を投げ出した。  bububu……  携帯が着信を知らせて震える。  「ん? ジャン?」 ------------------------------  「チアキ、いらっしゃーい!」  「シンイチ、待ってたぞ。早く早くっ!」  「よぉ……」  じゃーら、じゃーら……。  一人寂しく暇を持て余していたところに、めずらしくジャンからの呼び出しにヴィエラ邸を訪れてみれば、ジャン、ヴィエラと一緒に、最近やたらと顔をあわせるようになった『マ』のつく人物が、ブリッジテーブルを囲んで、点心麻雀の牌をかき混ぜていた。  「はぁ、助かったわ。じゃあ、私は奥様とショッピングに出かけるから。  あとは男同士でどうぞっ!」  面子が足りないからといって不本意ながら参加していたゆうこが、せいせいした表情で真一に席を譲る。  「親父……、こんなところで何やってんだよ?」  雅之の左隣の席に腰を下ろすと、真一が耳打ちする。  「こんなところってなんだよ」  真一の内緒話を、指揮者の耳で聴き取ったヴィエラが、真一の台詞に異議を申し立てる。  「はぁ、すみません……、そういう意味ではなくて……」  雅之が麻雀牌を並べながら、ぼそぼそとつぶやく。  「お前なぁ……、そもそもヴィエラと俺は古い付き合いで、お前なんか俺のおまけでこうやってヴィエラに世話になってんだぞ?  ここはお前だけのテリトリーじゃねーんだ。偉そうにすんな、あほ息子」  「だっ、あほ息子ってなんだよっ! ばか親父がっ!」  「はいはい、仲良し親子なのはわかったから、早く牌並べてくれないかな、チアキ」  「「仲良しじゃねぇっ!」」  「くくく……、見事なハーモニーだな」  「「うっ……」」  ヴィエラとジャンに自分たちのことをからかわれ、これ以上抵抗してもさらにからかわれるだけだと知った千秋親子は、もうお互いのことは何も言うまいと口をとざし、黙って牌を並べるのだった。 ------------------------------  「チアキもいよいよ年貢の納め時だね、くくくっ……」  牌を切りながら、ジャンが嬉しそうにつぶやく。  「まぁ、俺はお前みたいに、女に迫られて結婚を決めたわけじゃねーからな、幸いなことに」  ウィーンでの公開プロポーズ(結果)のことを持ち出され、真一の厭味にカチンときたジャンが、ここぞとばかりに攻撃する。  「そんな強がりいっちゃって……。どうなったのさ? ブラジル人女性との修羅場は」  「なんだ? ブラジル人女性って。お父さんはそんな話は聞いてないぞ?」  雅之が、出来のよすぎる息子のスキャンダラスな話にわくわくしながら、にやけ顔を向ける。  「あほか。ブラジル人女性ってエリーゼのこと言ってんだろ?  あれは俺の女でも、なんでもねーぞ」  「またまたぁ〜! エリーゼに呼び出されて、のだめが行方不明で大変だっていうときに、ブラジルにすっとんで行ったじゃないかー!」  「あれは仕事だろ?  エリーゼは俺とのだめのマネージャーだからな。  ほら、お前だって、ゆうことウィーンまでついて来て、シュトレーゼマンのところで会っただろ?」  「えっ! ええええーーーーっ!  あの、金髪めがね肉食系女史?」  「そうそう、エリーゼはお前のことが相当気に入ってンぞ?  指揮コンの時から目つけてたからな。  ……ゆうこに内緒で紹介しようか?」  のだめにもジャンたちにも振り回されて、フラストレーションの溜まっていた真一は、ここぞとばかりに仕返しをすると、してやったりの表情を浮かべる。  呆然と牌を切るジャンの手元を見ていた真一が、追い討ちをかけるように鳴く。  「お、ジャン、それロン! あがりだ。悪いな」  きっ! ジャンは悔しさに顔を真っ赤にしてチアキを睨みつけると、両手で場をぐちゃぐちゃにかき混ぜてしまう。  「お、おいっ!」  「ち、チアキとノダメなんて、大っ嫌いだっ! うわーんっ!」  「おいおい、泣いて逃げるって……」  だだだだっ! ばたんっ!  泣きながら、部屋に逃げ込んだジャンのおかげで、男同士の麻雀牌を囲んだバチェラーパーティーはお開きとなった。  「さて、男三人でストリップバーにでも繰り出すか?」  「え、ヴィエラ先生勘弁してくださいよ……、どうして親父なんかと……」  「俺だって、息子の前でストリップなんか楽しめねーぞ」  「あはははっ! そりゃそーだな。  じゃあ、邪魔者は消えることにするから、結婚前夜を親子水入らずでどうぞ、ごゆっくり」  「お、俺はホテルに帰ります……」  「じゃあ、俺も……」  それじゃあ、また一ヵ月後に伺いますと真一はヴィエラに挨拶すると、父親と一緒にヴィエラ邸を後にした。 ------------------------------  「え?」  「なんだよ、お前も同じホテルかよ……」  つくづく気の合う親子である。運転手に告げた行き先は、はからずも同じホテルだった。  タクシーを降り、ホテルに足を踏み入れると、雅之がバーで飲もうと提案する。  「仕方ない、男一人で寂しいお前に付き合ってやるよ」  「頼んでねーぞ……」  憎まれ口をたたくひとり息子を連れ、雅之はホテルのバーに向かう。  なぜか真一は、男二人で結婚前夜を過ごすことになった。  カウンターに並び、グラスを傾ける。  「征子から聞いたぞ? 親父の話、オクレールから聞いたんだってな」  「うん……」  こんなとき、相手の目を見ないですむカウンターはつくづく楽だと雅之は思う。適度に照明が落とされ、一流のバーだけにいる一流のバーテンダーの適度な距離感に、話しづらいことも言いやすくなるのだ。  雅之はそんなシチュエーションに身を任せるように、ひとり息子に告白を始めた。  「俺はこれでも、子供のときは素直な子供だったんだ。  親父がピアノをやれといえば、素直に毎日、一生懸命練習したよ。  でもな、人間素直に従い続けていると、ある日突然爆発するもんだ。  何を血迷ったか、俺はピアニストだけで終わる男じゃない、俺が進む道は作曲だと思っちまった。  まぁ、親父への反抗というか、男として誰でも通る道なんだろうな」  雅之は煙草に火をつけると、深く味わってからゆっくりと吐き出す。  「でもまぁ、俺はラフマニノフじゃなかったってことだ。  もともと、そんなに作曲が好きだったわけでもなし、あっさりと諦めてピアニストとして歩き出すことを決めた。でも、意地をはって、親父のところには最後まで戻らなかった。  征子と出会って、お前が生まれて、俺は少しずつ自信を取り戻して……。  最後まで親父と和解しなかったのは後悔してないといえば嘘になるけど、親父が生きているうちに、ピアニストとして世に出ることができたから、親父はそれでわかってくれたと思ってる。親子ってのは、そんなもんだろ?」  ここまで一気に語ると、雅之はグラスの酒を飲み干し、バーテンにおかわりを頼んだ。  「……だから俺がピアニストになりたいって言ったとき、親父はピアノはやめろって言ったのか?」  真一は、思い切って幼いころから一番聞いてみたかったことを、雅之に投げかける。  雅之は、しばらく煙草をくゆらせ、目をとじたまま語り始める。  「それもある……。  でも、本当の理由は、お前の才能だ。  俺のピアノをお前がなぞって弾いたことがあっただろう?  あの時俺は、嫉妬するくらい、お前には溢れる才能があると感じた。  お前の中にある音楽は、ピアノ一台で表現しきれるものじゃない。  あの頃、お前は素直で、俺を無条件に崇拝してたから、もしピアニストになると言ってピアノを始めてしまったら、お前の中に眠る指揮者としての才能を潰してしまうことになると思ったんだ。  ……おい、こんなことは二度と言わねーからな……」  「うん……ありがとう……」  真一は、自分の中にいる、幼い五歳の自分が、温かな喜びの涙を流しているのを感じる。  二人はその夜、カウンターに並んで座ったまま、一度も目を合わせることはなかった。  それでもふたりの間には、温かな感情が流れ、親子だけに分かる思いに溢れていた。 ------------------------------  バーを出て、エレベータを待ちながら、ふと真一は思い出したようにつぶやく。  「そうだ、俺たちが挙式する教会の牧師がさ、母さんに惚れちゃったみたいなんだ。  二週間前に会ったときは腑抜け状態で、結婚式のリハーサルもなんだか心ここにあらずでさ。  はぁ……明日は大丈夫だろうな。  なあ、母さんって今年でいくつになるんだっけ?」  「……ふん、征子も災難だな。牧師ってハゲ親父か?」  「それがさぁ、年は俺よりちょっと上くらい?  背も俺より高くて、ちょっと色黒なハンサムなんだよな……」  ちーん。  到着したエレベータに乗り込む。  「親父、何階だ?」  「……」  「……おい、親父。何階に行けばいいんだよ?」  「……あ、ああ……」  「なんなんだよ……。飲みすぎか? 大丈夫かよ?」  大丈夫ではないような……。  真一は、雅之に投下した爆弾の正体に気付かないまま、幸せな思いで部屋に戻ると、一人寝のベッドに身をゆだねた。  明日はいよいよ、真一とのだめの結婚式。  四十八  窓から差し込む、朝の優しい光で真一は目を覚ました。  ホテルの窓に立ち、ローマの街の小さな空を覗き込めば、青空が見える。今日という佳き日は快晴のようだ。  気分もよくシャワーを浴び、ホテルのビュッフェで軽く朝食をとり、香ばしいエスプレッソを飲みながら、煙草をくゆらせる。  落ち着け、千秋真一。  今日という日は、昨日からの続きで、明日に繋がるただの通過点だ。  そうやって言い聞かせてみるものの、気を緩めれば口元は弛み、頬がほころぶ。  心地よい緊張感とやっと訪れた今日という日への期待感で、真一はテンションが上がっていくのを抑え切れなかった。  部屋に戻って、荷物をまとめる。チェックアウトに向かう途中に出会った、ホテルの従業員や旅行客に、満面の笑顔で挨拶を交わしている自分がいる。  ああ、俺は今、幸せだ……!  ホテルを出て、ローマの街中にむかい、叫びたい衝動を抑えつつ、滑り込んできたタクシーに乗り込み、花婿は花嫁のもとへと向かった。 ------------------------------  タクシーで通いなれた道を進む。  アウトストラーダを降りると、海岸線が飛び込んでくる。おもわず、身構える自分がいる。  「今日は快晴だし、海も凪いでいて、絶好のクルージング日和ですね」  そんな風にタクシードライバーから話しかけられ、真一は恐る恐る海に視線を向ける。  「……本当に、すごく綺麗だ……」  口をついて出た言葉に、真一自身が驚かされた。物心ついてから、こんな風に海をしっかりと眺めたのは初めてのことで、落ち着いた気持ちで眺められるのも驚きだが、あの恐ろしいとしか思えなかった海が、優しく、美しく、まるで自分を包み込むように広がっている。  ありえねぇ……  真一は、自分のあまりの変わりように可笑しくて、思わず笑い出してしまった。  「お、お客さん? 大丈夫ですか?」  「くくく……、すみません、大丈夫です……くくく……」  真一のあまりの挙動不審さに、タクシードライバーはおびえ、無言のまま、先を急ぐのであった。 ------------------------------  慌てるように走り去ったタクシーを見送り、真一はシモーナの家の呼び鈴を鳴らす。  「Buon giorno!」  「シンイチ、今日はおめでとう! 花嫁もお待ちかねだよ」  シモーナの夫に迎えられ、ハグを交わす。  しばらくして、シモーナに伴われて花嫁が現れた。  「おはよう」  「おはようございマス!」  シモーナともハグを交わし、真一はのだめに手を差し出す。  真一の左手にのだめの右手が重なる。  二人は笑顔で見つめあい、シモーナ夫婦に向き直ると、晴れやかな表情で行ってきます≠ニ挨拶をする。  「あ、待って!」  一度、家の中へ引っ込んだシモーナは、手にパステル色の小花で作られた可愛らしいブーケを持ち、戻ってきた。  「ノダメ、これを持っていって。私たちからの贈り物よ」  「ほわぉ……、とっても可愛いデス!  シモーナ、ご主人、ありがとうデス!」  のだめは二人とハグを交わすと、もう一度花婿の手をとり、笑顔でシモーナ夫婦に手を振って、教会へと向かった。 ------------------------------  教会までの道を、真一は右手に婚礼衣装などを詰めた大きなバッグを持ち、左手でのだめと手を繋ぎ、歩いてむかう。  けっして軽くはない荷物だが、心は軽やかでまったく苦にならないから不思議だ。  左側を歩くのだめも、いつものふわふわとした足取りがさらに軽やかで、まるで羽がはえて宙に浮いているようだ。  「真一クン、昨日はよく眠れまシタ?」  「うん……、ヴィエラ先生にストリップバーに連れて行かれそうになったけどな」  「ぎゃぼっ! 独身最後の夜にやんちゃなこと、しちゃいまシタ?」  「いや……、結局、親父とホテルのバーで少し飲んだだけ」  「むきゃっ? 雅之パパ、ヴィエラ先生のところに来てたんデスか? どうして?」  「あー……、なんで来てたのか、そういえば聞きそびれた。  なんだか知らねーけど、泊まってるホテルも一緒でさ、寝る前にちょっと飲もうってことになって……。  お前は? 女同士のブライダルシャワーとやらは、どうだったんだ?」  「えと……、楽しかったデスよ? 美味しいものをたくさん食べまシタ!  それも、甘くて、可愛らしい、お菓子をいっぱい!  贈り物をもらったり、結婚式の話をしたり……」  「贈り物? 誰からもらったんだ?」  「え、えと……、聖歌隊の人とか?」  「へぇぇ……」 ------------------------------  教会へ到着すると、入り口でアラン牧師が二人を出迎えていた。  牧師は、二週間前の腑抜け状態から打って変わって、牧師然とした穏やか微笑みを浮かべ、落ち着き払っている。  「チアキ、ノダメ、お待ちしてました。  準備万端ですよ。さあ、こちらへ」  通されたのは、花嫁と花婿が着替えをしたり、結婚式までの間を過ごす控え室。  小さな部屋には、テーブルセットと、大きな姿見と、チェストが一つ。  チェストの上には、信者の手作りだろうか、ウェディングベアが一組飾られている。  この部屋を挟んで左右に、花嫁と花婿が準備をする部屋が用意されている。  「では、準備が整いましたら、声を掛けてください。礼拝堂でお待ちしております」  一通りの説明を簡単にすると、アラン牧師は礼拝堂へと出て行ってしまった。  「……じゃあ、着替えるか」  「は、はいっ」  のだめと真一は、着替えのための左右それぞれのスペースへとわかれて、入っていった。 ------------------------------  真一の雪見だいふく#ュ言から端を発した、のだめふくれ事件≠経て、真一はのだめへの二度目のプロポーズをテディベア片手に行うという辱めを受け、一時はどうなることかと思われた結婚式。  ※注:詳細は当サイト『照れ屋な恋人』を参照ください。  二人は今、礼拝堂に続く、扉の前に立っていた。  花嫁は、先ほどまでの膨れっ面から打って変わって、頬はばら色で、瞳はきらきらと輝き、可愛らしい恥じらうような微笑みを浮かべ、ヴェールの下から花婿を見上げている。  大きく開いた胸元には、先日征子から贈られた真珠のネックレス。  ハイウエストのプリンセスラインは幾重にも重ねられたチュールによりふんわりと膨らみ、ちょこんと乗せられたようなチュールのパフスリーブが華奢な肩を包んでいる。  花婿はオフホワイトのタキシードにその長身を包み、サッシュのシックなグレーシルバーに合わせたクロスタイに、ローマのジュエリーショップから贈られたタクトをモチーフにしたピンが留められ、一粒のダイヤが煌めいている。  その左腕には花嫁の白い腕が優しく絡められており、自分を見上げる薄茶色の瞳を、優しい漆黒の瞳で見下ろしている。  扉の向こうから、オルガンの演奏が聞こえてきた。  二人はアインザッツを交わすように、言葉は交わさず、見つめ合う瞳だけでわかりあう。  真一の右手が扉を開け、二人はゆっくりとバージンロードを進んだ。  小さな礼拝堂の短い通路には真一とのだめのために純白のバージンロードがひかれ、小さな花束とリボンの飾り付けがされている。  祭壇の前には牧師が柔らかな微笑みをたたえ、真一とのだめを待ち受ける。  真一は、誇らしげに胸を張り、堂々と進む。  時折、花嫁を見つめ、愛おしそうに微笑みながら。  のだめは少し緊張した面持ちだが、花婿に寄り添い、時折自分に向けられる真一の微笑みに、優しく微笑み返す。  祭壇の上部から柔かいステンドグラスの光が、真一とのだめを導くように降り注ぐ。オルガンの演奏がゆっくりとフェードアウトし、二人は牧師の待つ祭壇の前にたどり着いた。 ------------------------------  二人きりで賛美歌を歌い、牧師からは夫婦として必要な神の教えの朗読がされ、いよいよ誓約へと進む。  「シンイチ・チアキ。あなたは、神の教えに従い、清い家庭をつくり、夫としての分を果たし、常にあなたの妻を愛し、敬い、慰め、助けて、死が二人を分かつまで健やかなときも、病むときも、順境にも、逆境にも、常に真実で、愛情に満ち、あなたの妻に対して堅く節操を守ることを誓約しますか」  「はい、神の前に謹んで誓約いたします」  真一の力強い誓約が、小さな礼拝堂に響きわたった。  指輪の交換では、のだめの指の震えが止まらず、真一は指輪を嵌めてもらうのも、嵌めてあげるのも一苦労する。  「おい、落ち着けって……」  「だって、止まんないんデスよ……」  「時間はありますから、ごゆっくりどうぞ」  牧師に優しく語りかけられ、真一とのだめはお互いの手を掴み、掴まれたまま、いったん深呼吸をし、とにかく指輪を落とさないようにと、ゆっくりとお互いの薬指に誓約の印を刻んだ。  「それではここに、シンイチ・チアキとメグミの二人が夫婦となったことを宣言いたします」  牧師が高らかに宣言をすると、のだめは真一の前に小さく身をかがめた。真一はのだめに向かって一歩踏み出すと、のだめの顔にふんわりと被せられたヴェールを頭上へと持ち上げる。  のだめの身体がゆっくりと起こされ、うつむいていた顔が真一を見上げる。  真一の両手が、のだめの肩を優しく抱き寄せ、漆黒の瞳がのだめの瞳をとらえる。真一の美しい顔がゆっくりと近づき、のだめの瞳が閉じられると同時に、二人の唇が重なった。  ばぁーんっ!  「ん?」「ふぉ?」  祭壇の脇の扉が開かれたと同時に、にこやかな聖歌隊が流れ込んできた。  オルガンが賛美歌の前奏を奏でる。  「シンイチ、ごめんなさいね。私たちの教会で、聖歌隊の歌わない結婚式はありえないのよ。  あなたたちの意思は尊重して、ここまでは我慢してあげたんだから、許してね」  そういって、シモーナはいたずらっ子のような微笑を浮かべ、聖歌隊をあっという間に整列させると、賛美歌を歌い始める。  牧師もシモーナと同じような微笑みを浮かべ、二人に退場するように促す。  真一とのだめは、驚きのあまり言葉を失い、それでもなんとか回れ右をしてバージンロードを出口に向かって進む。  「おい……、お前は知ってたのか?」  「しししし知りまセンよ、これは……」  「は? これはってどういうことだよ、ほかになんかあるのかよ?」  「さぁぁ?(目そらし)」  「はぁぁ……。このまま退場しても大丈夫なんだろうな?」  「大丈夫……デショ?」  「なんか、寒気がする……」  真一は出口を恐る恐る見つめると、左腕につかまるのだめの右手を自分の右手で、ぎゅっと握りしめる。  「大丈夫デスよー、さ、進んでくだサイ?」  「う、うん……」  真一はのだめに促され、ゆっくりと出口へと進んだ。  真一の手が教会の扉に届くまで、あと一歩。  四十九  背中に聖歌隊の賛美歌を聞きながら、真一は扉に手をかけ、息をのむ。  「あ、開けるぞ?」  「はい……」  扉を開こうと力を入れた瞬間、外側から扉が一気に開かれ、真一は危うくバランスを崩して倒れかかったところを、のだめからぐいっと引き戻された。  「うわっ!」  「「「おめでとーーー!」」」  次の瞬間、真一は飛び込んできた光景が信じられず、右手で眼をこすった。  「嘘だろ……」  扉から続く階段の両脇には、たくさんの懐かしい顔、見慣れた顔が並び、口々にお祝いの言葉を投げかける。  「お前、知ってたのかよ」  「えへ、これは昨日知りまシタ」  「昨日?」  「はい、シモーナの家で、征子ママや由衣子ちゃん、ヨーコやターニャ、清良さんに真澄ちゃんまでお祝いをしてくれたものデスから。  絶対内緒にしろって約束させられて、のだめだって辛かったんデスよ?」 ------------------------------  「千秋! いつまでつったってんだよ、早くこっちまで来いよ☆」  峰が両手いっぱいにライスシャワーをつかみ、真一に浴びせる気満々で構えて大騒ぎしているのを、清良が呆れ顔で叱りつけている。  「きゃあーーーっ! 千秋様の白タキシード素敵! 真澄、もういつ死んでも悔いはありませんわ……」  真澄が目にハートマークを浮かべ、体をくねらせる。  ターニャと黒木君、フランクと……Rui?  三善家からは俊彦と由衣子、野田家からは佳孝、もちろん征子と雅之、ヨーコと辰男と、二人の両親も揃って祝福の列に並んでいる。  真一はのだめに引きずられるように、脳内が真っ白の状態でライスシャワーとお祝いの笑顔の中を進んで行った。 ------------------------------  なんとか教会の階段を下りきると、のだめの周りを女性陣が取り囲む。  「のだめちゃん、とっても綺麗よ!」  「清良サン、ありがとうございマス!」  「うん、最高に可愛いネ!」  「Rui! 忙しいのに来てくれたんデスね!」  すっかり親しくなったのだめとRuiは、久しぶりの再会に抱き合って喜ぶ。  「まったく、あのひょっとこ娘がこれほど化けるとはねぇ、女って恐ろしいわね……」  「真澄ちゃん、それって最上級に褒めてくれてるんデスよね?」  「ふんっ、なんで私があんた何かをっ!」   真澄は憎まれ口を叩きながらも、最高に幸せそうな笑顔を浮かべている。  「さあのだめっ! ブーケトスをしてちょうだい! 私が絶対ゲットするんだからー!」  ターニャの叫び声で、女性陣が一気に盛り上がる。  征子までも参加したブーケトスは熾烈な争奪戦となり、幸運のブーケを勝ち取ったのはなんと真澄であった。 ------------------------------  続いて、どこから運ばれたのか、一脚の椅子が運ばれ、花嫁が座らされる。  「今度はガータートスだ! 千秋、頼むぞ☆」  また峰がおおはしゃぎでわめいている。  「なんだよそれ……」  「花婿が、花嫁のドレスの中に潜り込んで、口でガーターベルトを取って、それを独身男性にトスするんだよ!」  フランクが嬉しそうに叫ぶ。  「はぁぁ?! そんな恥ずかしいことできるわけねーだろっ!」  「だめよ真一、お祝い事なんだから、ちゃんとやりなさい?」  とは征子。  「真兄ちゃま、頑張って!」  由衣子からも無邪気な声援が飛ぶ。ターニャや清良のにやけ顔も見える。  真一は教会の扉を開けたことを心の底から後悔し、クラクラと眩暈を起こしながら、唯一自分の味方であろう、のだめのもとに駆け寄る。  「おい、何とかしてくれ……」  「真一クン、覚悟決めちゃいまショウよ?  二人っきりの時には、喜んでやるようなことデショ? いたっ! 痛いデスー!」  「はぁぁ……何でこんなこと、こいつらの前でやらなきゃいけないんだよ……」  がっくりと肩を落とす真一の首を、のだめは自分の方へぐいっと引き寄せる。  「ぐえっ! なんだよ……」  「皆サン、真一クンとのだめのことを祝福してくれてるんデスよ?  一生に一度じゃないデスか、ガタガタ言わずに、ちゃっちゃとする!」  「……はぁ……どうしても?」  捨てられた仔犬のような情けない目でのだめをうかがう真一に、のだめは何やら耳打ちをする。  真一はその言葉にぽうっと頬を赤らめると、のだめの目を覗き込み様子を伺う。  のだめはただにっこりと微笑み、真一にうなづき返す。  真一は小さくため息をつくと、つぶやいた。  「……わかったよ、約束だからな?」 ------------------------------  ヒューヒューと指笛が鳴り、冷やかしの野次が飛ぶ。  真一は覚悟を決めると、真っ赤な顔でのだめの足元に体を伏せ、ドレスの中に頭を突っ込んだ。  「ぎゃーーーーっ! のだめっ! 殺すわーーーーっ!」  真澄の耳をつんざくような悲鳴が聞こえる。女性陣はきゃーきゃーと黄色い歓声を上げる。  真一は、もぐりこんだドレスの中で、のだめの左足にはまる、レースのガーターベルトを口で咥えると、のだめの左足を両手で支えながら、足首まで滑らせ、左足のパンプスを脱がせると、そのままガーターベルトを抜き取った。  がばっ!  真一が、ガーターベルトを咥えたまま、起き上がると、一斉に大きな歓声が沸き起こる。  真っ赤な顔で、ガーターベルトを手に持ち替えると、真一が叫ぶ。  「これで満足かっ! ありがたく受け取れっ!」  「うぉーーーーっ!」  快晴の青空に、ガーターベルトが弧を描く。  欲しがっていたのは峰だけだったのにも関わらず、真一の突然のトスに、反射的に見事キャッチしてしまったのは、なぜか黒木であった。  「うわーん、清良ぁー!」  「ばかっ! 恥ずかしいからやめてよっ!」  「峰君……、よかったら譲るよ……」 ------------------------------  「よしっ! 記念撮影するぞ!」  峰の掛け声のもと、花嫁と花婿を中心に撮影が始まった。  真一は先ほどのガータートスの疲れからぐったりと不機嫌な表情でなすがままになっている。  最後に花嫁とツーショットを撮影すると言われ二人で教会の階段の上に立つ。  「千秋! のだめを抱き上げろ!」  「え……」  「真一クン……」  戸惑う真一に、左側に立つのだめは、上目使いで真一の袖口をつんつんと引っ張り、いつものおねだりモード。  「ったく、しょがねーな……」  真一はもうどうにでもなれと、花嫁を抱き上げる。  「はぅん……のだめ幸せデス……」  自分の腕の中で、喜びに満面の笑みを浮かべるのだめを見て、真一は自分のプライドなど、どうでもいい気がしてくる。  「簡単なやつ……」  溢れる笑顔で見つめ合い、二人の世界にひたっている真一とのだめの姿を、峰はしっかりと撮影し、友人や親族たちも幸せな気分で脳裏に焼き付けた。 ------------------------------  一通りのイベントが済んだころ、教会に一台の車が滑り込んでくる。  pupu!  クラクションが鳴らされ、窓から見慣れた顔が覗く。  「チアキ! 奥さん! 迎えにきたよ!」  「え? テオまで何故……」  ウェディング仕様の派手に飾り立てられた車に、真一とのだめは押し込められる。  「お、おいっ! どこに連れてくんだよ! 俺たちは今日、ホテルに泊まることに……」  「観念しなさい、夜には解放してあげるから」  「うっ……」  母親に凄まれ、真一はもう抵抗するのは諦め、ぐったりとシートに体を預ける。  「お前はこれから何があるのか知ってるのか?」  「むきゃ? 知りたいデスか?」  「……いや、やめとく」  テオが運転する車以外にも数台の車が乗りつけ、友人たちがそれぞれ車に乗り込む中、征子は一人、牧師のもとに行き、何やら楽しげに話し込んでいる。  「おい……」  「うわっ! 何だよ親父かよ……」  雅之が突然、真一の乗り込む車の窓から顔を覗かせたのだ。  「おい、お前が昨日話してた牧師ってアイツか?」  雅之は、征子とアラン牧師のほうを顎でしゃくり、真一に尋ねる。  「……そうだけど、何だよ?」  「……なんでもない……」  雅之はそれだけ確認すると、むっつりと三善家の車に乗り込んだ。  「むきゃ? 雅之パパ、征子ママと牧師サマのこと、気にしてるんでショウか?」  「そ、そんなわけねーだろ……」 ------------------------------  シモーナの夫の運転する車を先頭に、真一たちが到着したのはあのマリーナだった。  クラブハウス前のデッキにはテントが張られ、その下には……オーケストラ?  真一とのだめは車を降り、デッキへと向かう。  快晴の青空のもと、海はしずかに凪ぎ、太陽の光を浴びてきらきらと輝いている。  「ほわぉ……とっても綺麗デス……」  「……うん、綺麗だな……」  「むきゃ? 真一クン、余裕デスね?」  「……まあな」  先ほど、タクシーの車内から眺めたときと同様に、真一は桟橋や海を目前にしても、心は穏やかで、恐怖を感じることは一切なかった。  「真一、大丈夫そうね?」  征子が二人に近づき、声をかける。  「これって全部、母さんの仕業か?」  「あら? なによ、その言い草。  失礼な子ねぇー、さっきはのだめちゃんのドレスの中に入って、喜んでたくせに……」  「なっ!」  征子はけらけらと笑いながら、シモーナたちのところへ逃げていった。 ------------------------------  真一たちがデッキに近づくのにあわせ、オーケストラがフィガロの結婚 序曲を演奏しはじめた。  タクトを振っているのはジャン、オケメンバーはもちろんマルレのメンバーたち。  デッキの上には、いくつものテーブルを繋げた、五0人は座れそうな特大の超ロングテーブルが用意され、その中央に用意された花婿と花嫁の席に座らされる。  「チアキ、ノダメ、おめでとー!」  マルレのメンバーから、演奏をしながらもお祝いの言葉が投げかけられる。  「チアキ、白タキシードがお似合いよー! 今シーズンのポスターはそれで決まりね!」  とはノエミ。  「はぁぁ……」  真一は大きくため息をつく。  「……真一クン、やっぱり嫌でシタ?」  のだめが不安そうに真一を覗き込む。  「……ごめん、もうちょっとだけ慣れるまで時間かかるかも……」 ------------------------------  二人の親族、友人、そしてこの街で出会ったシモーナたち。  真一とのだめの結婚を心から祝うメンバーが、イタリアの小さな街のマリーナに集まり、祝杯を上げる。  セバスチャーノ・ヴィエラの音頭で、シャンパンで乾杯が行われた後は、全員が一つのテーブルに好きなように着席し、食事やおしゃべりを楽しむ。  真一も徐々に緊張がとれ、のだめと一緒に仲間と過ごす時間を心ゆくまで楽しんだ。  笑顔と笑い声がマリーナの青空のもとに広がり、テーブルいっぱいに溢れていた。  五十  地平線にイタリアの大きな太陽が沈むころ、美しい夕暮れをバックにマルレオケメンバーは再び音楽を奏ではじめる。  「ノダメ、私と踊っていただけますか?」  「はいっ!」  「シンイチは私と踊ってくださる?」  「もちろん」  シモーナ夫妻と花嫁花婿がダンスを始めたのをきっかけに、ほかのメンバーたちもダンスに加わる。  黒木とターニャ、フランクとRui、ジャンとゆうこ。恥ずかしがる清良も、峰に引きずられるように踊りはじめた。  征子はダンスのパートナーとしてひっぱりだこで、ヴィエラと踊ったあとは、シモーナの夫、フランク、ジャンと途切れる事がない。  テーブルに戻って、雅之と一緒に母の様子をやや複雑な心境で眺めていた真一のもとに、征子がやってくる。  「ひとり息子は、私と踊ってくれないのかしら?」  「え? 勘弁してくれよ……」  「うふふ……冗談よ」  「……なんなら、俺が相手してやってもいいぞ」  「あら? 別れた夫に同情されるほど困ってないのよ、ごめんなさい?」  「……あの牧師とかか? 若すぎるだろ、何歳離れてるんだよ……」  「まぁ、雅之さんったら妬いてるの?  そんなこと言われる筋合いじゃないと思うけど」  「なっ! なんで俺が……」  そこへテオが踊ってほしいと征子を誘いにくる。  「じゃ、そういう事だから。  私と踊りたかったらちゃんと申し込んで頂戴、順番にお相手するわ」  そういって征子は美しい微笑みを浮かべ、唖然とする雅之と真一にひらひらと手をふり、テオと腕を組んで去っていった。 ------------------------------  夕闇のダークブルーが濃くなるころ、楽しいパーティーはお開きとなった。  「真一、明日の朝、またマリーナまで来て頂戴」  「え?」  「今夜、ここに泊まるメンバーで、朝食をクラブハウスで取ることにしたから」  「……わかった」  のだめは、ヨーコと辰男に抱きつき、幸せの涙を流している。  「千秋くん、ピアノ以外はなんの取り柄もない娘だけど、よろしくね」  「はい、お約束します……」  真一もおいおいと泣き続けているヨーコと辰男の熱いハグを受け、のだめの両親の深い愛情を胸に刻み込んだ。 ------------------------------  「おい……お前らどういう事だよ……」  「だって、シモーナの家だって、さすがに収容人数に限界があんだよ。この小さな街にはホテルは一軒しかないし。しょーがねーだろ?」  「はぁ……」  マリーナからホテルに戻ってみれば、峰・清良、黒木・ターニャ、フランク・Ruiのカップルと、真澄、佳孝、俊彦の三人もホテルに泊まるという。  「僕は由衣子たちと一緒にシモーナの家でよかったのに佳孝君が……」  「だって! 俺ひとりで真澄さんと一夜を過ごすなんて、危なかろーもん!」  「真澄は構わないのに……」  そしてのだめは、香港旅行での謎がようやく解けたようだ。  「ぎゃぼっ! Rui に『愛される喜びを教えてくれている』のって……ふふふふフランク?」  「ほんと、ノダメって鈍いよネ……」 ------------------------------  花嫁と花婿は、やっと友人たちから解放され、ホテルの部屋に戻ってきた。  「真一クン、疲れちゃいまシタ?」  「うん……でも楽しかったな、意外と」  「むきゃ? 素直な真一クン……」  「なぁ、さっきのあれ……、約束って有効だよな」  「ぎゃぼ……きょ、今日は真一クンもお疲れデショ?」  「うん、すげー疲れてる……」  だから新妻に癒してもらわないと……  のだめの瞳を熱い眼差しで見つめ、真一は花嫁を抱き抱えると、シーツの海に飛び込んでいった。 ------------------------------  リンゴーン……。  ん? 鐘の音?  あ、そうか、昨日は……。  真一は、かすかに聞こえてくる鐘の音に目を覚ました。  うつぶせの姿勢から、ベッドの右側を手で探るが、シーツは空っぽだ。  「……」  両腕を伸ばしながら、仰向けに身体を反転させ、抱きかかえていた枕に頭を乗せ、辺りを見渡す。  すると、見慣れないホテルの部屋の、朝の光が差し込む窓の前に、のだめの姿を見つけた。  「おい……下着くらいつけろよ?」  真一の声に弾かれたようにのだめが振り返る。  何も身に纏わず、白く美しい肌を惜しげもなく朝日に晒して、日の光に負けないくらい眩しい笑顔で真一を見つめると、のだめは真一めがけて一直線に走りこんでくる。  「真一クンっ!」  「重てーよ……」  のだめは、ブランケットをかぶった真一の上に跨って、いたずらっこのように笑っている。  「重たくないデショ?  真一クン、おはようございマス」  「おはよう、のだめ」  「昨日は大変デシたね……。疲れとれまシタ?」  「うーん……、まだ疲れてる……」  そういって真一は口角を上げると、その長くて美しい指をのだめの肌の上にのばす。  「じゃあ、のだめが癒してあげマス……」  ばふっ!(注:説明はいたしません。何が起きているのか想像してください)  「ふがっ! ぐ、ぐるしい……ご、ごれ癒じだのが(これ、癒しなのか)?」  「真一クンの大好きなものデショ?」  「……」  「ぎゃはぁ……真一クン、今日も元気デス……」  「お、おい……やめ……」  「うっ!……」  「ゲハ。  真一クン、疲れとれまシタ?」  「うん……のだめの疲れもとってやる……」  「やんっ……」 ------------------------------  リンゴーン……。  小さな街の小さな教会から、時を告げる鐘の音が鳴り響く。  まるで、二人の幸せを祝福するかのように。  昨日からの続きで、明日までの通過点だった今日≠ェ終わり、明日≠ェ何ごともなかったかのように訪れる。  それでも、真一の身体の中は、なんともいえない満足感と幸福感に満たされていた。  朝から愛の挨拶を交わし、さっぱりとシャワーを浴びると、疲れているはずなのに足どりも軽く、マリーナのクラブハウスに向かう。  すでにクラブハウスには真一とのだめ以外のメンバーが勢揃いしており、全員がにやついた冷やかしの表情で二人を迎えた。  峰たちのテーブルに着くと、真一の身体を肘で突きまくる峰。  「ふっふっふっ、昨日はよく眠れたか?」  「……おかげさまで」 ------------------------------  朝食を済ませ、食後のエスプレッソを飲んでいると、突然、マリーナが爆音に包まれた。  「ん?」  「ふぉ?」  征子が携帯を手に真一に近づいてくる。  「はい、あなたの師匠からよ」  「え?」  携帯にでてみると、シュトレーゼマンの脳天気な声が聞こえる。  「チアキー! 昨日はさぞやお楽しみだったことでショウ、このむっつりがっ!」  「なっ! 朝から何ですか……」  「相変わらず可愛くない弟子デス。  まぁとにかく、迎えをやりましたから、のだめちゃんとそれに乗りなさい」  「はぁぁ?! 何のことですか?」  「優しい師匠から、結婚のお祝いです。マリーナに来てるデショ?」  「は? ちょっと外が騒がしくて、聞き取れないんですが……」  「ぎゃ、ぎゃぼっ! 真一クン、そそそ外……」  「え?」  のだめに腕をひっぱられ、クラブハウスの外に目をやると、爆音を響かせながら、マリーナの桟橋にヘリコプターが一台、着陸する。  「い、いやだ……絶対乗らねーからな……」 ------------------------------  「なんでこんなことに……」  用意周到な計画に嵌められ、真一とのだめは今、イタリア南部のリゾートに立っていた。  有無を言わせず簡単な荷物と一緒に身体をヘリコプターの狭い機内に押し込められ、爆音を立てるペリコプターの中で、真一は気を失う。  のだめに体を激しく揺さぶられ、意識を回復してみれば、そこは三6五度を海に囲まれたビーチリゾートだった。  「真一クン、どうしまショウ? 陸の孤島デスよ?」  「なっ!」  白目をむいて危うくもう一度気を失うところを、すんでのところで踏み止まったのは、のだめからのありえない言葉。  「海水浴しまショウ!」  「はぁ?! 」  「真一クン、もう大丈夫デショ?  見たくないデスか?のだめのビキニ姿」  「……」 ------------------------------  真一は物心ついてから初めて、水着というものを身につけた。  目の前は美しいブルーが広がり、足元はふわふわと心地よい真っ白な砂浜。自分の左側には、布の面積が極端に小さい、刺激的でキュートなビキニを身につけた愛しい妻。  「真一クン、心の準備はいいデスか?」  「……おい、絶対俺の手を放すなよ?」  「放しまセンよ?」  「や、約束だからな……」  「はいっ!」  「も、もし約束破ったら……」  「……真一クン往生際が悪いデスよ?」  のだめは突然、背伸びをすると真一にキスをする。  「なっ!」  「誓いのキスデス。さ、覚悟を決めて行きマスよ?」  真一は覚悟を決めると、ごくんと唾を飲み込みのだめに無言でうなづいた。  「むっきゃあーーーーーっ!」  のだめが真一の手を引き、ハイテンションで海に向かって駆け出す。  「おいっ! そんなに走るなっ! 絶対、手放すなよ!」  「放しまセンよーーー!」  イタリアの美しいビーチに幸せな二人の叫び声が響き渡る。  しっかりと繋がれた手。  白い砂浜をのだめにひっぱられる格好であっても、真一の表情はなぜか晴れやかで。  今までは、自分にとって恐ろしいだけの存在だったそれが、のだめと一緒であれば、なんだか楽しく思えてくるから不思議だ。  目の前には白い波を立てる、美しいブルーの海。  真一とのだめが海に飛び込むまで、あと一歩。 -------end-- マエストロの婚礼 ハネムーン番外編 ------------------------------ □はじめての海水浴  「やっぱり……俺は砂浜で……」  真っ白な砂浜。美しいブルーの海に打ち寄せる白い波。  真一は、物心ついてから初めて水着を身につけ、のだめに手を引かれて、波打際に立っていた。  なんで俺、アイツの口車に乗せられて、海水浴してみようなんて思っちまったんだ?  のだめに誘われるまま、ここまで来てしまったが、実際に波打際にたってみると恐怖が押し寄せ、手足が震える。  「だめデス! せっかくなんデスから、カナヅチも克服しまショウ!  もし、真一クンとのだめに子供ができて、パパが一緒に海水浴してくれなかったら、子供が悲しみマスよ?」  「うっ……」  めずらしく、のだめが真っ当な理由を盾に真一を追い詰める。  「絶対、手放すなよ?」  「放しまセン!」  「約束だぞ? もし約束破ったら……」  「真一クン、往生際が悪いデスよ?」  のだめはいつまでも躊躇する真一になんとか覚悟を決めさせると、真一の手をひき、海に向かって走り出した。  「むっきゃぁぁーー!」  ばしゃばしゃ……。  海に向かって走り出したのだめに引きずられ、真一の足先が冷たい海水につかる。  その刹那、真一の足元に、波(極小)が押し寄せる。  「ひぃーーーーっ!」  真一はのだめの手を力いっぱい引き、のだめの体もろとも波打際まで引きずり戻すと、波の届かない砂浜に座り込み、ぶるぶると震えだした。  「し、死ぬ……」  「……真一クン、何してるんデスか? ほら、行きマスよ?」  「む、無理……。  波が……波が俺を海の底に引きずり込もうとして……。  お、大波が……」  「真一クン……そんなにでっかい浮輪をはめて、何言ってるんデスか……」  確かに、砂浜に座り込みガタガタと震える真一の腰には、特大一二0センチサイズの浮輪がしっかりとはめられていた。  「大丈夫デス、のだめがずっと手を繋いでマスから。  大川のマーメードが一緒なんデスから、真一クンは絶対に溺れまセンよ?」  「ほ、本当に?」  真一は、大きな体をガタガタと震わせ、捨てられた子犬のような目で、のだめを縋るように見つめる。  「本当デス。だいたい、そんな大きな浮輪をして、溺れろってほうが難しいと思いますケド……」 ------------------------------  のだめは考える。  この人は今、大きな身体をした子供だ。  浮輪があるから、海に飛び込んでしまえばこっちのものだと思ってたけど、そんなに甘くはなかったようだ。  のだめは作戦を変更して、徐々に真一を海に慣れさせることにした。  「さ、真一クン、怖くないデスから、まずは膝まで足をつけてみまショウ!」  「う、うん……」  よたよた。  のだめに手を引かれ、恐る恐る、海水に足をひたす。  「真一クン、波はお友達デスからね、真一クンと遊びたいからやってくるんデス。  ほら?なんともないデショ?」  「……」  真一は真っ青な顔で、腰にはめた浮輪とのだめの手をぎゅっとにぎりしめ、膝までつかった足に打ち寄せる波(極小)の恐怖に堪えている。  「ほら、大丈夫デショ?」  「……う、うん……」 ------------------------------  真一は今、必死で恐怖と戦っていた。  波が押し寄せてくるのを見ると、理屈では大丈夫だとわかっていても恐怖でいっぱいになる。  そうだ、見ているから怖いんだ。  真一はのだめの手と浮輪をしっかりにぎりしめると、ぎゅっと目を閉じる。  ざざーん……。  静かな波の音は聞こえるけれど、打ち寄せる波が見えなければ、そんなに怖く……ない?  さわさわ……。  膝に感じる波は、すぅっと真一の足を撫でると、あっという間に消えてゆき、くすぐったいほどである。  真一は思い切って目を開けてみた。  小さな波が白い泡をたてて足元で踊っている。  寄せては真一の足をくすぐって、ひいてゆくだけの事。  「は、はは……たいしたことねーな……」  真一は引き攣りながらも、なんとか口許にぎこちない微笑みを浮かべた。 ------------------------------  「さ、波に慣れたら、こんどは腰まで浸かってみマスよ?  大丈夫、浮輪があるから必ず真一クンの体は浮くし、のだめも手を繋いでマスからね」  「う、うん……」  のだめは後ろ向きで、両手で真一の手を引きながら、少しずつ真一の体を海の中に引き込んでゆく。  「真一クン、ほら下向かないで、のだめのこと見てくだサイ?」  「う、うん……」  遠浅のビーチなので、腰までつかる深さになるには、結構な距離を進むことになる。  波打際ではぱしゃぱしゃと泡をたてていた波も、どんどんと穏やかになってゆく。  ふわりっ。  真一のつま先はまだ海の底に届いているけれど、特大浮き輪の浮力も手伝って、体が徐々に浮き始めているのを感じる。  真一の顔に、なんとも不思議な表情が浮かんでいる。  怖いような、それでいてわくわくするような、純真な子供が見せるような無邪気な驚きの表情。  のだめはなんだか自分のことのように嬉しくなってきた。  「さ、真一クン、思い切って足を蹴り上げてみてくだサイ?」  「う、うん……」  ぷかーん。  両手をのだめに引かれ、特大浮き輪に体を支えられて、真一の大きな体が海面に浮き上がる。  「ほらっ! 真一クン、今、海の上に浮いてマスよ? わかりマス?」  「う、うんっ!」  真一の顔に、無邪気な子供のような満面の笑みが広がった。 ------------------------------  ざざーん……。  照りつける太陽。どこまでもつづく真っ白な砂浜。  のだめはパラソルの下で膝を抱えて座り込み、波打ち際を見つめている。  視線の先には、一才半を過ぎた愛娘の手を引く、愛しい夫。  「はははっ! 蕾は怖がりだなぁ。  いいか? 波はお友達だぞ? 蕾に遊んでほしくて、やってくるんだ。  ほら? なんともないだろ?」  初めての海に怖がる蕾の手を引き、波打ち際でばしゃばしゃと楽しそうな真一。  「ぷぷぷ……。真一クンてば、あの時の経験が生かされてマスね?」  のだめは腰を上げると、真一と蕾の元に駆け寄り、二人と一緒に遊びはじめる。  ビーチで遊ぶ三人の家族の姿は、まさに幸せそのもの。  三人の中で一番の笑顔を見せる父親が、まさか数年前まで海恐怖症だったとは、微笑ましく見つめる周囲の人たちには、わかるはずもない。  だって、本人すら以前の自分の恐怖など、思い出せないのだから。  そんな幸せいっぱいの、千秋真一、三十一歳、夏の思い出。 -------end-- □マエストロの婚礼 □香水(ひょんそい) □2011.2.27 □芒果布甸/Mango pudding □http://hongsoi.hannnari.com/ □kyari.sky★orange.zero.jp(★→@に変換) ※このファイルは、のだめファンによる二次創作小説サイト、芒果布甸/Mango puddingにて公開している小説をまとめたものです。 二次創作小説にご理解のある方に個人で楽しんでいただくためのものです。従って、無断で複製、配信、公開、改変等をすること、および第三者への頒布はされないようお願いします。